第29話 歪んだ男

 イリーナはガタゴトと揺れる振動で目を覚ました。


(ここは……?)


 誰かの膝の上に頭を載せてもらって眠っていたようだ。筋肉の硬さから男性らしい。


「陛下……?」


 ひどく気だるい体を起こして、イリーナはぼんやりとそう声をかけた。変な態勢で寝ていたためか、体のあちこちが痛い。


(ここは……? 私は部屋で眠っていたはずなのに……)


 狭いソファーのような場所だ。揺れるその感覚に覚えがある。


「馬車……?」


「そうですよ。イリーナお嬢様」


 そう言ったのは、聞き覚えのある穏やかな声。マティアスだ。


「マティアス? ここはどこ? 陛下は……?」


 急に不安になって、イリーナはあちこちに手を触れた。扉を見つけて手を伸ばすが、しっかりと鍵がかかっている。昔ならともかく今の目に見えないイリーナには鍵を開けることは困難だ。


「無駄です。逃げられません」


 マティアスのその底冷えするような声音に、イリーナの肩がビクリと揺れる。


「なぜ……?」


(マティアス先生が私を誘拐したということ……?)


 状況から、そうとしか考えられない。そんなことヴィルヘルムが許さないのに。

 マティアスは機嫌良さそうに笑いながら言う。


「ハーブ茶に混ぜた睡眠薬が効いていましたね。よく眠っていましたよ。丸二日くらいは経っています」


「睡眠薬……? 丸二日も……?」


 イリーナは動揺して聞き返した。

 眠る直前に口にしたマティアスから処方されたハーブ茶に混ぜものがあったのだと知り、イリーナは唇を噛む。彼を信じていたから裏切られたのはショックだった。


(それに、そんなに時間も経ってしまっているなんて……)


 眠らされていたから時間の感覚がおかしくなっている。

 落ち着かなくなって自分の体にあちこちに触れた。違和感はないからマティアスに変なことはされていないと思うが不安だ。

 イリーナの様子を見て、マティアスは噴き出す。


「大丈夫。いやらしいことはしていません。眠っている女性にそんなことをする趣味はないので」


 イリーナは頬が熱くなる。いつもと逆で、心が見透かされた気分だ。


「……私をどこへ連れて行くつもりですか?」


 声が震えないようにするのがやっとだった。


「伯爵領にあるデミウル神の祠です。アイゼンハート伯爵夫妻とビアンカも一緒ですよ。彼らはうるさいので、後続の家畜用の馬車に見張りの者と一緒にいますが」


「お父様達も……っ?」


(何を企んでいるの……?)


 彼を警戒して、イリーナは心の耳を開いてマティアスの真意を探ろうとする。しかし心の声は聞こえない。イリーナはそれに狼狽えた。


「どっ、どうして心の声が……」


「そんなに怯えないでください。私はあなたに危害を加えるつもりはありませんから」


 全く安心できない言葉だ。

 続けてマティアスは言う。


「私には心読みは使えません。こちらが許している時以外は」


「どう、して……?」


 こんなふうに彼の声が聞こえなくなったことはない。心読みの力を使えば、嫌でも周りの者達の心の声は聞こえてきたのに。


(やっぱり彼の心の声が聞こえない。こんなの初めて……)


 マティアスはイリーナの問いかけには答えずに言う。


「ここまで来るのに苦労しましたよ。陛下は必死にあなたを捜していますし。こちらはお荷物の伯爵達もいるし。……でも私の信者はたくさんいるので、訪れた先の皆さんが力になってくれました。家に匿ってくれたり、私達の馬車と家畜用の馬車を交換してくれたり、地元の者しか使っていない裏道を教えてくれたりね……こんなにうまく行くのは神が私達を導いてくださっているからでしょう」


 まるで宗教家のようなことを言うマティアスに、イリーナは眉根を寄せる。彼への嫌悪感で肌が粟立つ。


「……どうして私にこんなことを? ずっと私達を騙してきたのですか……?」


 イリーナの喉から、かすれた声が漏れる。

 今まで何度もマティアスに救われてきた。あの辛い伯爵家で何とか生きながらえてきたのは、彼のおかげなのに。

 マティアスがクスリと笑う声が聞こえた。


「騙すだなんて……心外ですね。嘘は吐いていません。真実を洗いざらい話してはいませんでしたけどね。誰にだって秘密くらいあるでしょう。ああ、イリーナ様は心が読めるから相手を全て知ったような気になっていましたか?」


 図星を突かれて、イリーナは口ごもる。

 マティアスが伸ばしてきた手がイリーナの頬に触れた。イリーナは反射的に彼の手を叩き落とす。


「おや、嫌われたものですね。残念です。私があなたを愛しているのは本当なのに」


「……嘘を吐かないでください」


 本当にそうなら、イリーナにこんな真似はできないはずだ。『お嬢様が幸せならそれで良い』と語った言葉も嘘ということになる。

 マティアスは穏やかに言う。


「嘘ではありません。あの日、あなたに『一緒に逃げてください』と懇願した言葉も本心です……私の手を取っていれば良かったのに。そしたら生贄はあなたではなくビアンカにした。あなたは、もっと生きながらえることができたはずなのに」


 イリーナはゾクリとした。


「お義姉様を生贄にって……」


 ただの医者のマティアスにそんなことできるはずがない。


「ああ、まだ気付いていませんでしたか。私は邪神教の教主です」


「なっ、え……?」


 何を言われたのか、すぐに理解できなかった。


「……どうしてマティアス先生が? 医者というのは嘘?」


「いいえ。私はちゃんと医師免許も持っていますよ。誤診はしませんからご安心を」


 ふざけるマティアスに、イリーナは苛立った。


「け、けど、シュヴァルツヴァルト家は伯爵家のかかりつけ医として、マティアス先生のお父様やおじい様だって主治医をしていたはず──まさか……」


 イリーナはそれに気付いて血の気が引く。


「ええ。何代も前から、私達シュヴァルツヴァルト家はデミウル神の生贄となる伯爵家を見守ってきたのです。表向きは医者として」


 イリーナは絶句した。


「なぜ……」


「教主ならば、神の存在を最も近くに感じたいと思うものでしょう? だから我が一族は伯爵のそばにいたんです。私も先祖と同じようにデミウルに心酔した。『五十年の周期で神は姿を現す。だから私の代では難しかったが、お前は奇跡を目にすることができるだろう』そう父に言われて、どんなに嬉しかったか……私は迷いなく神に魂を捧げました」


「魂を……?」


「ええ。私の魂の一部はデミウル神と混ざっています。だから、イリーナ様は私の心を読むことができないのです。人の身で神の心中など推し測ることはできないでしょう?」


 イリーナは呆然とした。邪神を崇める者がこんなに身近にいたとは想像もしていなかった。

 マティアス達シュヴァルツヴァルト家は医師としてアイゼンハート伯爵家を支えてきた。だが嘘は吐いていないとしても、これは裏切りも同然だろう。

 マティアスは語る。


「イリーナ様が誕生した頃、私は十七歳でした。私の父があなたを取り上げた。『ああ、この子がデミウル神に捧げられるのだ』と、私も出産の場に立ち会い、喜びを分かち合いました。……それから十八年間、私はイリーナ様のそばにいました。家族に邪険にされながらも、私にだけは無垢な笑顔を見せてくれましたね。私しか頼れる相手のいないあなたを見るのは、とても気持ち良かった。あの日々がずっと続いてくれることを祈っていたんですけどね……」


 自分勝手なことを言うこの男が、心底気持ち悪かった。


(理解できない……)


 彼はイリーナを救う力があるのに、そうしなかった。自分にイリーナを依存させておきたかったからだ。

 イリーナは慄える声で問う。


「そらなら、マティアス先生が皇宮で私にデミウルの話を教えたのは……」


「ええ。皇帝にも言えない二人だけの秘密を共有したくて。そうしたら、また私だけを頼ってくれるかと思ったんです。期待外れでしたけどね。あんなにあっさり皇帝に伝えてしまうなんて……ガッカリです」


 マティアスはため息を落として、なおも言う。


「私が『マリアンネの手記』を屋根裏部屋に置いて、あなたが見つけるように仕向けたんですよ。優しいでしょう? このままだと死ぬまで伯爵達に利用されてしまう。そんなお嬢様が可哀想に思えたんです。──デミウル神からは逃れられませんが、短い間だとしても二人で逃避行するのも悪くないと思えました。……結局、私は振られてしまいましたがね。それでも長い間そばにいたから情が湧いたんです。最期だけは愛する男の腕の中で死なせてやっても良いかと、あなたに情け心を抱いたのです。どうです? 私の真心が分かっていただけましたか? これがあなたの欲しがっていた無償の愛情でしょう?」


 まるで美しい話のように話すマティアスが、全く理解できない。根本的に違う生き物のようだ。

 マティアスは苦しげにこぼす。


「──でも、私の中にいるデミウル神が『自分のところにイリーナを連れてこい』と私に命じるんです。女神の血の濃いあなたに、デミウルはひどく執着しています。私の説得では制御できないほどに。……祠で儀式をしてビアンカが聖女として覚醒してくれたら話は楽なのですけれどね。そうすればデミウル神の関心がビアンカに移るかもしれない。この際、伯爵でも良い。二人まとめて生贄として捧げることで、デミウル神にイリーナ様を解放していただけるようお願いするつもりです」


(解放だなんて……)


 イリーナは唇を噛む。

 たとえ邪神から自由になれたとしても、もうヴィルヘルムのそば以外では生きていたくない。マティアスの傍らなんて想像するだけで吐き気がする。しかも父親と義姉の犠牲の上に生きながらえるなんて絶対に嫌だ。

 しかしマティアスは朗らかに笑う。


「あなたが両親やビアンカからされたことをやり返してやるだけです。どうです? 気分が良いでしょう? 全てあなたのために計画したんですよ」


「私はそんなこと望んでない……!ッ」


 イリーナは幾度も首を振って、顔を伏せる。

 両親とも義姉とも別れを告げた。イリーナはそれで十分だった。それなのに──。


「自分がしたいだけなのに、勝手なことを言わないで……!」


 ポロポロと瞳から涙がこぼれた。

 イリーナのためと言いながら、マティアスは私欲でしか行動していない。伯爵夫妻とビアンカを私刑にしたいのも、イリーナの生命力が奪われるのを知りながら自分に依存させていたのも、全て自身のためだ。マティアスの語る無償の愛でさえ、自分に酔っているがゆえの行動だ。


「……信じていただけないのは悲しいですね。ですが、イリーナ様もいずれ気付くはずです。本当にあなたを愛しているのは私だけだと」


(帰りたい……)


 こんな男の話なんて、これ以上聞きたくない。


(これから私はどうなるの……?)


 きっとヴィルヘルムやローラ達が心配しているはずだ。それを想像すると、イリーナの胸が痛む。

 ヴィルヘルムは必ずイリーナを捜してくれているはずだ。探索の手はどこまで伸びているのだろう。丸二日も経っているなら、追手は完全に撒かれたということなのか。

 時折馬車の車輪が石を乗り上げてガタリと大きく揺れた。

 奇妙な沈黙が馬車の中を包み込んでいる。

 しばらくしてから馬車が停まった。

 マティアスが扉を開けながら言う。


「目的地に着きました。これから、少し歩きますよ」

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