第28話 それぞれの仮面の下
アイゼンハート伯爵は、牢屋の中で歯噛みする。
「祠の場所が知られてしまった! もう伯爵家は終わりだ……!」
狼狽する伯爵に、ビアンカだけが目を丸くしている。
「お父様、どうなさったの? 祠って何?」
イリーナを生贄にしていることをビアンカは知らない。共犯者は妻のクララだけだ。
そのクララはというと、牢屋の隅で身を縮めて震えている。
「どうして……どうしてこんなことに……」
ブツブツつぶやく姿は不気味だった。
「もうこんな場所、嫌よ! 誰か助けてよぅ!」
耐えきれなくなったビアンカがそう叫んだ。
伯爵は家族の姿に苛立つ。
それに牢屋の周りには他の囚人達が収容されており、彼らから発せられるやかましい声や悪臭にも辟易した。
「うるさいぞッ! 何とかして、陛下を止める方法を考えなきゃいけないのに……!」
伯爵が焦って、そう叫んだ時──。
コツコツと石床を叩く革靴の音が近付いてきた。
「こんにちは、伯爵。見る影もないほど無様ですね」
聞き覚えのあるその声に、伯爵は目を剥く。黒髪黒目の白衣の男が檻の前に立っていた。
「お前……ッ! マティアスじゃないか! な、なぜここに……」
マティアス・シュヴァルツヴァルト──伯爵家のかかりつけ医だった男が現れて、伯爵は動揺した。
(な、なぜコイツがここに? まさか、邸から追い出した私に復讐するために来たのか……?)
悪い想像でブルブルと震えている伯爵に、マティアスはため息を落とす。
「あなたも愚かな真似をしましたね。伯爵」
「なっ、なんだと!? お前、何様のつもりで……!」
「もう私の雇用主ではないので、言葉を慎んでください」
その聞いたこともない冷たい声音に、伯爵はゾッとする。
(なんだ……? 様子がいつもと違う。マティアスはこんな男だったか……?)
かつては常に穏やかな笑みを浮かべていて、どこか頼りなさげな印象だった。それなのに、今はまるで別人のように冷徹な雰囲気を漂わせている。
(い、いや……、だから何だ! そんなこと気にしていられない!)
ここから脱出するためにはマティアスの助けが必要不可欠だ。何とかして味方につけなければ。
(これまでの気弱なマティアスならば、私が強く命じれば言うことを聞くはずだ……! 今は私が檻の中にいるから気が大きくなっているだけだろう)
そう都合良く伯爵は考えた。
「お、おい……マティアス! 今まで、よく伯爵家に尽くしてくれたな。お前達シュヴァルツヴァルト家は……お前の父親や祖父だって伯爵家のかかりつけ医として、やってきてくれたじゃないか……! それなのに追い出してしまって、すまない。あの時は私はどうかしていたんだ。お前の献身もかえりみずに……。これからはもっと良い待遇で雇ってやる。皇帝よりもずっとだ! 伯爵領にいる家族も厚遇してやろう。だから、だから……助けてくれ。マティアス! このままでは邪教徒と疑われて私達は処刑されてしまう! どうにかしてくれ、マティアス……!」
狼狽して鉄柵に顔を密着させて叫ぶ伯爵に、マティアスは嫌そうな表情を浮かべた。
「なぜ私が? そんな義理はありません。邪神だと知らなかったのは自業自得でしょう。伯爵、あなたは何も疑わず両親に言われるがままに信じてきたんですから」
事実を指摘されて、伯爵は怒りで顔を真っ赤にさせた。
(いや……ここでマティアスを怒らせたら駄目だ。考えろ。考えろ……何か手立てはないか……ああ! そうだ!)
伯爵は妙案を思いついて叫んだ。
「お前はイリーナに気があるんだろう!? 良いのか? このままでは皇帝に奪われるぞ。私を助ければ、今までの無礼は水に流してやる。イリーナもお前にやろう。好きにして良いから……!」
ぴくりと反応するマティアス。
「……私はお嬢様さえ幸せなら、それで構いません。今のままで良いんです」
マティアスの暗い表情に勝機を見た伯爵は、たたみ掛けるように言う。
「それは本音か? それなら、なぜ私の元まで来た? 本当は自分のしたいことに目を背けているだけじゃないのか?」
「私は……」
マティアスは顔を伏せる。
(よし、いける! あと一押しだ……!)
伯爵の説得にも熱が入る。
「邪神に生贄さえ捧げれば、お前の望みはきっと全て叶う。……だからっ」
「だから、ビアンカお嬢様を邪神に捧げるのですか?」
「はっ……?」
マティアスの言葉に、伯爵は凍りついた。
(しまった……! イリーナを生贄にするつもりだったのに。うっかり口が滑った……)
伯爵は内心青ざめた。
イリーナのことを好きなマティアスが、彼女を生贄にすることを了承するはずがないというのに。
マティアスは淡々と言う。
「イリーナ様をこれ以上、生贄にすることはできません。もしビアンカお嬢様を生贄として捧げると誓うのならば、私はあなたの脱出に力を貸しましょう」
「クッ……! 良いだろう……。やむを得ない」
苦々しく伯爵は了承する。
ビアンカは血の気が引いた顔で、甲高い悲鳴を上げた。
「お父様!? う、嘘でしょう? 嘘だって言ってよ!」
「黙れ! お前のせいで私はこんな目に合ったんだッ! 死んで償え!!」
怒鳴り散らす伯爵に、クララ夫人が泣きながら夫に縋り付く。
「あなた! 何ということを……っ! 愛娘のビアンカを差し出すなんて! あなたには人の心がないの!? ビアンカの父親でしょうッ!? そんなのやめてよ、お願いだから──」
「黙れ黙れ黙れッ!」
見苦しく争う親子の姿を、マティアスは恍惚とした表情で見つめている。
──まるで、血が繋がった者達の醜い争いを心の底から楽しんでいるかのように。
◆
突如イリーナが行方不明になり、皇宮は大騒ぎとなった。
ヴィルヘルムのいる政務室にローラが飛び込んでくる。
「陛下、イリーナ様が部屋にいらっしゃらなくて……! もしかしたら誘拐されてしまったのかもしれません……」
「何だと? イリーナが誘拐された……!?」
書類に落としていた視線を上げて、ヴィルヘルムは立ち上がった。ガタッと椅子が音を立てる。
コクコクとローラは血の気の引いた顔で涙ながらに頷く。
「はっ、はい。そろそろ定時の診察時間だったのでイリーナ様のお部屋に伺ったのですが、お姿がなくて……マティアス先生が床に倒れていた兵士達を診ていました。私に、すぐに陛下を呼んでくるようおっしゃって……」
「マティアスが?」
何だか嫌な予感がして、ヴィルヘルムはイリーナの居室に向かった。
室内には荒らされた形跡はなく、床に兵士が血を噴いて一人倒れている。もう一人は辛うじて生きていた。しかしいくら見渡してもマティアスの姿がない。
「……あ、あれ? マティアス先生どこに行っちゃったんでしょう。入れ違いでしょうか」
ローラは困惑している。
ヴィルヘルムは舌打ちして、近くにいる兵士達に向かって命じた。
「お前達、イリーナとマティアスを捜せ! それに皇宮に怪しい者がいれば捕らえろ! 皇宮医も呼べ!」
「「「はっ!」」」
兵士達は心得たというふうに一礼して足早に出て行く。
(──胸騒ぎがする)
長年暗殺にさらされ続けた経験で培った、ヴィルヘルムの研ぎ澄まされた勘がそう告げていた。
なぜイリーナがいなくなったのか。それにマティアスまで行方が分からないとは。
「何かいつもと変わったことはなかったか?」
ヴィルヘルムが問いかける。
ローラは悪い想像をしているのか、ガタガタ震えていた。
「は、はい……いつもよりイリーナ様のお昼寝が長いなとは思ったのですが、お疲れなのかと思い、声はかけませんでした。時々様子を見に窺ったのですが、ぐっすりと……二時間ほど眠られていたかと思います」
「イリーナはいつもそんなに昼寝を?」
「いえ、いつもは三十分ほどです」
「……その直前に口にしたものがあるか?」
そうヴィルヘルムが尋ねると、ローラはハッとしたように顔を上げた。
「マティアス先生が処方したハーブ茶を……イリーナ様はそれを初めて飲みました」
(それだ)
ヴィルヘルムは頭を抱える。犯人はマティアスだと確信した。
その時、慌てた様子で皇宮医がやってきた。彼がイリーナに処方されたハーブ茶を調べると、強い睡眠薬が入っていることが分かった。
まだ生きていた兵士に聞き取りをすると、マティアスに差し入れされたレモン水を飲んで見張りの兵士達は倒れたらしい。おそらく致死量の毒が入っていたのだ。一人はゆっくり飲んでいたから助かった。彼らはマティアスとは親しく会話する仲になっており、全く毒入りとは疑わなかったという。
「陛下、ティーセットを載せたワゴンが消えてます。室内に置いてあったのに……」
ローラは室内を見回してから、それに気付いたように言った。
焦る気持ちを抑えながらヴィルヘルムが待っていると、戻ってきた兵士の一人から、とんでもない報告を受ける。
「へっ陛下、地下牢からアイゼンハート伯爵夫妻と娘のビアンカがいなくなりました!」
ヴィルヘルムは銀髪を搔き回す。
「ああ……! やってくれたな、マティアスめ……!」
そして使用人達への聞き取りで、様々なことが明らかになった。
皇宮内をイリーナの侍女がワゴンを押して厨房の裏道を歩いていた。ワゴンは下に戸棚があり、仕切りを外せば大の大人が一人入れるくらいの隙間になる。厨房の裏口付近には野菜売りの商人の荷馬車が停まっていた。なぜか地下牢の見張り番が野菜売りと立ち話をしていた。ボロボロの衣服を着た三人組が荷馬車に乗って行った……などなど。
(状況的に、マティアスと伯爵達が結託してイリーナを攫って逃げたのだろう)
「おそらく奴らは祠に向かっている……! すぐに出るぞ! 支度をしろ! 城門を閉じるんだ! まだ遠くには行っていない……ッ」
ヴィルヘルムはそう大声を上げて、扉から外に駆け出した。
マティアスは周到に準備していたのだろう。どう考えても彼一人の犯行ではない。地下牢の見張り番に協力させてアイゼンハート伯爵達を逃がし、侍女に眠らせたイリーナを隠したワゴンを運ばせた。野菜売りの商人も共犯だ。
(──それにしても共犯者が多すぎる)
ここは皇宮だ。そう易々と侵入できる場所ではない。実際、地下牢の見張り番や、野菜売りの商人、イリーナ付きの侍女達は以前から皇宮で働いていた者達だ。だから、ヴィルヘルムも信用していた。
マティアスは数ヶ月前にイリーナの主治医として皇宮に出入りできるようになったばかりの新参者だ。それなのに、こんなにたくさんの昔からいる使用人達を味方に引き入れられたのは不思議だった。
(まるで洗脳でもされているかのようだ……洗脳……? まさか……!)
ヴィルヘルムの脳裏に、デミウルを祀る邪教徒達の姿が映った。
その教主の姿は黒髪黒目だと聞いている。
もし彼がマティアスならば信者を従わせるのは、たやすいことだろう。邪教徒は一般人の振りをして、あらゆる場所に溶け込んでいるのだから。
「クソッ……!」
ヴィルヘルムは厩舎に繋がれていた愛馬に跨り、沈みかける町並みを駆けていく。
「へっ、陛下ッ! お待ちください!!」
後ろから兵士達も馬に乗って追ってきている。
しかし、それに構う余裕はなかった。
(──イリーナが危ない!)
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