第25話 告白と誓い

 間もなくホットミルクをトレイに載せたローラがやってきて、イリーナの様子を見て仰天する。


「イリーナ様、大丈夫ですか!?」


「ローラ、マティアスを呼んでくれ。それに水差しと洗面器も」


 ヴィルヘルムの鋭い声に、ローラは慌てたように言う。


「はっ、はい! ただいま持ってまいります!!」


 濡れたイリーナの手のひらをヴィルヘルムはハンカチで包んだ。その心の深い悲しみの感情が伝わってくる。


(いったいイリーナは何の病なんだ……? 国内外から名医と呼ばれる医者を集めて診させても、皆『分からない』と首を振るだけだ)


「陛下……」


 イリーナは胸が絞られるように痛んだ。

 もう隠し通すことはできない。

 半身を起こそうとすると「無理するな」とヴィルヘルムの手に止められる。

 だがイリーナは首を振ってから、体を起こしてからヴィルヘルムに向き直った。


「すみません。ちゃんと話しておきたいんです。陛下、ずっと言えなくて申し訳ありません。じつは私の異能は……生命力を代償にしているんです」


(とうとう言ってしまった……)


 痛いほどの沈黙が肌に突き刺さる。

 ヴィルヘルムは狼狽したような声を出す。


「何だって……? それじゃあ、その力は……」


 イリーナは指が慄えるのを感じた。


(言わなきゃ……)


 ぎゅっと両手を握りしめる。

 そして、イリーナはヴィルヘルムに秘密を話した。

 アイゼンハート伯爵家の先祖が我が子を邪神デミウルに捧げた恩恵として『心読み』の力を授かってきたことを。しかしイリーナの父親と養母は我が子である可愛いビアンカを邪神に捧げることを嫌がり、愛人に子供を作らせイリーナを生んだ。そして彼女を生贄に捧げることにしたのだ、と。

 話している途中にローラとマティアスが現れたが、ヴィルヘルムが制止して外で待っていてもらった。

 イリーナは今は周りのことに構う余裕がない。それはヴィルヘルムも同じだった。


(内容が凄絶すぎて、理解するのがやっとだ……)


 ヴィルヘルムの心の声がそう言う。驚きすぎて言葉を失っているようだ。

 まだイリーナは一番大事なことを伝えられていない。

 イリーナの余命のことを話せば、ヴィルヘルムは裏切られたように感じるはずだ。

 実際、イリーナは最初から彼に偽りを告げている。

 一年間の契約結婚。いつでもイリーナの好きに離縁して良いという、彼女にとって都合の良い契約。

 ヴィルヘルムのことが好きになれなかったら離縁して構わないと彼は言った。けれど、本当はずっと前から彼のことが好きで、そばにいるために嘘を吐いただけだ。


(きっと……嫌われてしまう)


 それでも言わなければいけない。

 これで婚約破棄されてしまっても仕方ない。初めからイリーナには過ぎた幸福だったのだ。

 大きく息を吸ってから言う。


「陛下……私の余命はあと一年もないんです」


「は……?」


 空気が凍りつく。

 イリーナは彼と向かい合うのが辛くなり、顔を伏せる。唇が震えた。


「すみません……本当は、私はそれを分かっていたんです。でもマティアス先生にも黙っていてもらいました。私はとてもずるくて……陛下のおそばにいるために、余命わずかなことを隠してしまいました。本当に許されないことをしたと思います……」


 ヴィルヘルムの心の声は聞こえない。けれど、きっとイリーナに落胆しているだろう。


「俺のそばにいたくて……余命のことを隠した?」


 ヴィルヘルムが言葉を区切りながら確認するように尋ねる。

 言葉にされると情けなく思えて、イリーナは泣きそうに顔を歪める。


「……はい」


 そう絞り出すように言う。

 ヴィルヘルムの心の声が聞こえた。


(かわ……)


 なぜか絶句している彼の心の声。

 イリーナは疑問に眉をひそめつつ言葉を続ける。


「……だから、陛下が婚約破棄したくなっても仕方ありません。お望みなら一年の契約など待たずとも──」


 そう言いかけて、イリーナは言葉を失った。ヴィルヘルムの不穏な空気に圧倒されて言葉が出てこなくなったのだ。


「へい、か……?」


 今までにないほど、ヴィルヘルムから冷気を感じる。


「勝手に決めるな。誰が婚約破棄したいと言った?」


「えっ? で、でも私は……! きゃっ」


 ヴィルヘルムの手が伸びてきて、グイッと引き寄せられて膝の上に載せられてしまう。彼は深く息を吸って、イリーナを抱きしめる。


「……婚約破棄はしない。結婚しても離縁はしない。お前は俺のことが好きだろう? それなら俺は別れたりしない」


 鼻が触れそうなほど間近でそう問いかけられ、イリーナは頭が真っ白になる。


「あ……っ」


 既にイリーナの気持ちは知られてしまっているのだ。そう自覚すると顔が熱を帯びた。


「陛下……私は……」


(言ってしまいたい……)


 溢れる気持ちのままに、愛していると伝えてしまいたい。けれど、それは終わりを悲しく彩るだけだ。

 何も言えないイリーナを、ヴィルヘルムは追及しなかった。ただ優しく逃げ道を残してくれる。


「……少しでも、長くそばにいてくれ。心を読むことで生命力が奪われるというなら、もう異能は使わなくて良い」


 ヴィルヘルムの言葉にイリーナはハッとして顔を上げる。急に込み上げてきたのは焦りだった。


「でっ、でも……でも私は他に何もできません。それしか皆さんのお役に立てることはないんです……っ!」


 目も足も悪く、体が動かなくなっていく一方で。イリーナは自身がただのお荷物でしかない存在だと自覚している。そんな自分でも、己の異能を使えば役に立てるのだ。

 だから愛する人のために最後の力を使いたい。そう願っていたのに──。

 ヴィルヘルムはイリーナを痛いほどに抱きしめる。


「……異能など必要ない。イリーナ、お前は生きていてくれるだけで良いんだ。……愛している」


 その言葉で、イリーナの動きは止まった。まるで憑き物が落ちたかのように感じて、瞳から涙がこぼれ落ちる。

 誰にも愛されなかった自分の子供の頃の幻影が浮かんだ。家族には蔑ろにされ、異能だけを求められ、それでも良いと思っていた。必要としてくれるなら。

 ──それでも心の奥では寂しかったのだろう。

 ただ生きてくれているだけで良いと産まれたばかりの子供に親が願うように、イリーナも誰かに、そう許してもらいたかったのだ。そんな欲望があったことを初めて知った。

 イリーナは声を上げて泣いた。こんなに泣くのは物心ついてから初めてだった。いつも気持ちを抑えて生きてきたから。


(──私も陛下を愛しています)


 出てこない言葉の代わりに、イリーナはヴィルヘルムの胸に顔を埋める。

 ヴィルヘルムは優しくイリーナを包み込んだ。


「──必ずお前の体を治してやる。どんな方法を使ってでも。約束する」


 ヴィルヘルムの誓いの言葉に、イリーナは嬉しくなって頷いた。

 たとえそれが叶わなかったとしても、彼の気持ちだけで、イリーナは十分幸せだった。

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