第23話 素顔

 その男──仮面をつけていればヴィルヘルムにそっくりな男の名前はフランツという。

 フランツはオペラを見る振りをしながら、ほくそ笑んでいた。


(フン、こんなに簡単に皇帝になり代われるとはな。ヴィルヘルムはそもそも人間嫌いで護衛を少数しかつけていない。まるで俺のために用意された舞台のようだ)


 フランツは庶民の出だ。顔は普通だが、その長身と美声を褒められることが多く、若くしてオペラ座に入団していた。そこでフレッケン子爵に声をかけられたのだ。『その容姿を活かして帝国を牛耳ってみないか?』と。


(話に乗ったのは断れば殺されると思ったのもあるが……こんなに簡単ならば悪い申し出ではない)


 フレッケン子爵は帝国の大臣であり、宮廷近衛の配置にも口出しできる人物だ。

 兵士の振りをして潜り込み、パーティの喧騒にまぎれながら物陰で皇帝の格好に着替えて貴賓室に入るのは簡単だった。銀仮面さえつけていれば、フランツは皇帝ヴィルヘルムにそっくりで兵士達も誰も偽者だと疑わない。


(これは運命だ……まさか皇帝が俺に容姿がそっくりだなんて)


 ヴィルヘルムは素顔をほとんど誰にも見せないから、フランツを疑う者はいない。ヴィルヘルムの本当の顔を知る者は消してしまえば良い。そうすれば、フランツも仮面を取っても皇帝として生活することができるだろう。嗤い出したいくらいだった。

 イリーナと侍女ローラが席を立ってから、ハンス筆頭書記官が呼ばれて行った。フランツがわずかに警戒して様子を窺おうとしていた時に、ハンスがいつもと変わらない様子で戻ってきた。


「イリーナ様はお疲れになられたので、お部屋に戻られましたよ」


「そうか」


 イリーナの見るからに貧弱そうな姿を思い返して、フランツは納得する。


(いないのか。それなら楽で良い)


 ハンスは微笑みながら言う。


「このオペラはイリーナ様と見るおつもりだったでしょう? しかしイリーナ様もお部屋に戻られましたし、陛下はオペラはお嫌いです。予定より少し早いですが、ビアンカ様の元へ行かれますか?」


(ビアンカ? 誰だ、それは……)


 突如出てきた名前に混乱しつつも、フランツは知っている振りを装った。


「あっ、ああ。そうだな」


 フランツは立ち上がる。


(ヴィルヘルムがオペラがそれほど好きではないのは知ってるが……ビアンカって誰だ? イリーナの他に女がいるのか?)


「案内してくれ」


 フランツがそう言うと、ハンスは恭しく礼をする。

 道中、歩きながらフランツはどうにかハンスとの会話からビアンカの情報を探ろうとした。


「ビアンカは何か言っていたか?」


「いつも通りです。『またお部屋でお待ちしています』と……」


 そこでハンスは足を止めて、ニヤリと微笑む。


「あの美しいご令嬢と二人きりで情熱的な時間を過ごされるのですから。羨ましい限りです」


(情熱的? ということは、まさか……)


 そこでフランツはピンときた。つまり、ヴィルヘルムとビアンカは男女の仲なのだろう。


(ということは先程のイリーナは……?)


「イリーナは……」


 言いかけて、フランツは口ごもる。


「イリーナ様のご体調をご心配なさっているのですか? なんとお優しい。しかし、どうせあれはお飾りの妃です。陛下がお気になさる必要はありません。……目も足も悪い妃を迎えれば陛下の寛容さを民衆に知らしめることができるはず。そのために臣下が用意した女です。あの女にそれ以外の利用価値はありません」


 ハンスは悪い笑みを浮かべながら続ける。


「ビアンカ様はイリーナ様のじつの姉君でございますが、イリーナ様にもお二人のご関係はご理解いただいております」


(なるほどな……婚約者の姉と男女の仲とは。なかなかヴィルヘルムもえげつない男のようだ)


 フランツはそう思いつつも、ヴィルヘルムの汚い側面に好感を持った。そっちの方が自分に近いようにも思える。

 浮足立つのを感じながらフランツは本館の大広間へ向かう途中にある一室に案内される。

 ハンスは「ごゆっくりとお楽しみください。誰も入れないよう見張りをさせておきますので」と言って扉を閉めてしまった。

 中に入ると、どうやらそこは客室のようでベッドとソファーが用意されていた。

 今はその前で期待のこもった瞳でフランツを見つめる女がいる。


「陛下、お待ちしておりました……!」


(この女がビアンカか)


 腰まである波打つ金髪に、ドレスからこぼれそうな豊満な胸。年は二十歳くらいだろうか。みずみずしい肌からは女の色香が漂っている。


(吊り目がちで、気が強そうなところも俺好みだ)


 イリーナとはまったく似ていない。しかしヴィルヘルムとフランツは好みが同じようだ。


「待たせたか?」


 フランツは問いかける。

 うっとりとした眼差しでビアンカは自身の際どいドレスの胸元に手を当てる。


「いえ、陛下をお待ちしている間、ドキドキして……時間はあっという間に過ぎていきました」


「そうか」


「急にも関わらず、今日はお時間をいただき感謝いたしますわ。特別に伯爵家からワインをお持ちしましたの。飲んでいただけますか?」


「ああ、勿論だ」


 フランツはベッドに座る。

 ビアンカはベッド脇にあるナイトテーブルの上にあるワイングラスにたっぷりと赤ワインをそそいだ。ためらいなくフランツはそれをあおる。


「……っ、良い酒だ」


 カッと喉の奥が熱くなる。徐々に四肢が温かくなってきた。異様なほど猛り立ってくる。


「そうでしょう。もっと飲んでくださいまし」


 ビアンカはそう言って、ワイングラスに溢れるほど赤い液体をそそぐ。

 そしてビアンカは立ち上がると、ゆっくりとじれったい動きでフランツの前でドレスを脱ぎ捨て始めた。今やフランツは我慢の限界にきている。


「陛下、やはり私達は両想いだったのですね。おかしいと思ったんです。陛下みたいなお美しい方が、あんな貧相な義妹なんて相手にするはずがないって」


 ビアンカは甘えるようにフランツにすがりついてきた。

 フランツは興奮を抑え切れず、乱暴に服を脱ぎ捨ててビアンカをベッドに押し倒す。彼女の体にむしゃぶりつこうとして──ビアンカの指が仮面に触れる。ビクリと身を震わせて、フランツは動きを止めた。


「陛下、お顔を見せてくださいまし。私は陛下のお顔を見ながらしたいのです」


「いっ、いや、しかし……」


「ね? 良いでしょう?」


 蠱惑的な濡れた唇にそう誘惑されて、フランツは唸った。

 どうするべきか悩んでいた時──急に扉が大きく開かれて、大勢が侵入してきた。


「何事だ!? 誰かいないか! えっ、ハンス!?」


 フランツは動転して、そう叫んだ。

 押し入ってきた兵士達の最前列に、柔和な笑みを浮かべたハンス筆頭書記官がいたのだ。

 さらにその横には堂々とした様子の皇帝ヴィルヘルム、戸惑った表情のイリーナ、それにアイゼンハート伯爵夫妻が兵士達に捕らわれて縮こまっている。しかもフレッケン子爵と、その刺客達まで後ろ手に縛られて取り押さえられていた。

 そこでフランツはようやく気付く。計画は失敗したのだ、と。

 おそらくヴィルヘルムを襲った刺客が逆に取り押さえられ、愚かにも真犯人であるフレッケン子爵の名前を口にしてしまったのだろう。フランツも共犯だと知られているに違いない。


「陛下が二人もいる!? それにイリーナ!? お父様まで!? どうして……っ!?」


 まだ事態を理解していないビアンカが裸の体をシーツで隠しながら、大混乱してそう叫ぶ。

 それを無視してヴィルヘルムはフランツに言った。


「お前、よくも皇帝の名を騙ったな。死罪に値するぞ」


 何か申し開きをせねば、と思ったが、ヴィルヘルムの威圧感に圧倒されてフランツは言葉が出てこない。ただ青ざめて冷や汗を流して震えるばかりだった。


「はぁっ? 偽者? 嘘でしょう……?」


 ようやく事態を飲み込めたビアンカは青ざめる。そして自分が大恥をかかされたことに気付き顔面を真っ赤にさせた。


「う、嘘よ! そんなの……っ!! ここにいるのは陛下よ!」


 ビアンカは衝動的に隣にいる男の仮面を奪い取った。そして、そこにいる男のあばた面と団子鼻の素顔を見て凍り付き──。


「ブ、サイク……ッ」


 それだけ言って白目を剥いて気絶してしまった。どうやら自分が迫っていた男のあまりにも好みではない外見に耐えきれなかったらしい。

 ヴィルヘルムが重々しくため息を落として、兵士達に指示を出す。


「そいつらを捕らえろ」


 そうしてシーツでぐるぐる巻きにされたビアンカと、ヴィルヘルムの偽者、それにアイゼンハート伯爵夫妻、フレッケン子爵達は連れて行かれてしまった。


「ふぅ。まとめて片付きましたね。我ながら良い仕事をしました」


 名俳優さながらの演技をしていたハンスが、黒縁眼鏡を押し上げながら言う。

 ローラがイリーナに「ハンス筆頭書記官だけは敵に回したくないですね」とヒソヒソ声で言った。イリーナは苦笑いを浮かべる。


「お前の二枚舌には心底呆れるよ」


 ヴィルヘルムのその言葉に、ハンスは肩をすくめる。


「陛下ならきっと刺客など物ともせず無事でいてくださると信じておりましたよ。陛下のおかげで上手くいったんです」


「よく口が回るな。襲いかかってきた刺客を捕獲した後に、お前から報告をもらって驚いたぞ。こんな奇抜な計画を立てるとは……それにしても、このたびのことをどう収拾をつけたものか……」


 ヴィルヘルムが銀仮面を押さえて、再びため息を漏らす。

 パーティのために来ていた貴族達が、この騒ぎに気付いて部屋の周りに集まってきていた。


「アイゼンハート伯爵とフレッケン子爵が連れて行かれたぞ!」


「ビアンカ嬢もだ」


「一体、何事なんです?」


 憶測が憶測を呼び、人々がざわついている。

 仕方なくヴィルヘルムはハンスに指示を出して、人々を大広間に移動させた。

 賑やかだった観衆は、ヴィルヘルムが壇上の玉座に座ると静まり返る。その斜め下にイリーナも腰掛け、ヴィルヘルムの様子を伺った。

 ヴィルヘルムは泰然とした態度で言う。


「先程フレッケン子爵が放った刺客が私を陥れようとしたが、子爵の企みをイリーナが察知して阻止してくれた。そしてハンス筆頭官が罠を張り、裏切り者達を捕らえることができたのだ。二人には改めて礼を言う」


 ヴィルヘルムの言葉に人々はざわつく。

 イリーナはたくさんの視線で、肌がビリビリと粟立つのを感じた。


(あの娘が陛下のお命を救ったということか?)


 誰かの驚くような心の声がイリーナの元まで届く。


「陛下、アイゼンハート伯爵は……?」


 一人の貴族の問いかけに、ヴィルヘルムは答える。


「アイゼンハート伯爵は娘のビアンカを使って私に媚薬を盛ろうとしたのだ。幸い、それが入ったワインを飲んだのは私ではなく偽者の方だったが。つまりフレッケン子爵とアイゼンハート伯爵達はそれぞれ別に、私に害なそうとしたということだ。同日にな」


 さらに場内の人々の声が大きくなる。


(なんということだ……)


 人々の慄く心の声が届き、イリーナは唇をきゅっと引き締める。

 ヴィルヘルムは言う。


「静かに。罪人は厳しく罰するつもりだ。特に私の身代わりを立てて皇帝の座を乗っ取ろうとしたフレッケン子爵と偽者の罪は重い。──だが私も責任を感じている」


 自身の銀仮面を撫でながら、ヴィルヘルムは言い続ける。


「このたびの事態が起きたのは、私が仮面をつけているためだ。私の素顔に関して様々な憶測が流れているのを知っている。諸君も気になるだろう。……本当は一生明らかにするつもりはなかったが、このような事態が起きてしまった。また同じようなことが起きては困る。ゆえに、今日から皆に私の顔を晒そうと思う」


 ヴィルヘルムの宣言に、会場に集まった人々はどよめいた。


「え!? 陛下のお顔を!?」


「とうとう、ご尊顔を……っ!?」


 その時、イリーナにはハンスの(あ〜ぁ、知りませんよ)と投げやりな心の声が聞こえてきた。


(えっ、大丈夫なのかしら……?)


 イリーナは心配になった。彼は顔を隠したがっていたのに、ここで明かしてしまって良いのだろうか。

 イリーナの戸惑いに気付いたのか、ヴィルヘルムが立ち上がりイリーナの手を握りしめる。

 ヴィルヘルムはイリーナにだけ聞こえるくらいの声でささやく。


「素顔を見せると面倒だが、仮面をつけていても面倒だと気付いたからな。皆の態度は変わるかもしれないが、お前の俺への態度が変わらないなら、もう他の者はどうでも良い」 


「陛下……」


 イリーナはヴィルヘルムの手をそっと握りしめる。

 ヴィルヘルムはおもむろに皆に向き直り、その銀仮面を外した。

 その瞬間、波のようにざわつきが広がった。


「嘘……」


「えっ、あれ? 陛下なの?」


「本当に人間?」


 近くにいた数人の使用人が耐えきれず失神した。ハンスとローラはヴィルヘルムの方に顔を向けないようにしている。


「あんな美しい人間なんているのか……?」


「もしや神か? それとも天使か?」


「神々しい……光り輝いている……」


 貴族達は呆然とした様子でその場に膝をつき、拝む者すら出ている。

 女性達はほとんどが顔を朱に染めて恍惚とした表情で壇上を見つめていた。

 目が見えないイリーナだけがその異様な空気の中で、いつもと同じように首を傾げる。


(陛下って、そんなに美しいお顔なのね……)


 顔に触れた時から整っていることには気付いていたが、やはり目で見ていないイリーナには想像がしずらい。


「もうパーティどころではありませんね」


 ハンスの声に、ヴィルヘルムが「そうだな」とうなずく。


「今日は解散とする」


 そうヴィルヘルムが言って、パーティはお開きになった。

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