第22話 皇帝の偽者

 イリーナはハンスとローラに付き添われて、大広間のある本館ではなく別館の劇場に向かった。そこで今はオペラが演じられているのだという。


「劇場はとても華やかですよ! 先帝がオペラ好きだったので、お抱えの歌劇団を作って毎日のように上演させていました。ヴィルヘルム陛下はそれほどオペラには興味がありませんので、今ではパーティの時しか使われなくなっていますがね」


 少し残念そうにローラは説明してくれる。


(ダンスパーティとオペラの上演。色んな催しがあってとても豪華だわ……さすが皇宮のパーティ)


 イリーナは改めて皇家の財力に圧倒されてしまう。

 ハンスとローラの手を借りながら赤絨毯の敷かれた螺旋階段を上がり、貴賓室に案内される。

 貴賓室の奥にはカーテンで隠された扉があり、それを開けると劇場の舞台を上から見渡せる小さなテラスのような場所だった。四人ほどが座れそうな空間に二脚のベルベット生地の豪奢な椅子が置かれている。──というのは目が見えないイリーナのためにローラが教えてくれたことだ。   

 イリーナの背後にローラが付き添い、甲斐甲斐しく色んな説明をしてくれる。


「今日は皇家御用達の有名な劇団を呼んでいます。声だけでも楽しめる演目ですので、ゆっくりとなさってください。陛下も終わり次第こちらに来るとおっしゃっていました」


「ありがとう」


 イリーナはローラとハンスに向かって微笑む。

 大広間で待っていたら居心地が悪くなっていただろう。皆の心遣いにイリーナは感謝した。


(ここなら誰とも話さなくて良いし、観客も演技を見ることに集中しているから声も煩わしくなくて良いわ)


 大広間では次々とやってくる貴族達への挨拶の対応と彼らの心の声に、イリーナは思っていたより疲れてしまっていたらしい。滑らかな触り心地のふわふかの椅子に身を預けると、頭がぼうっとしてくる。

 時折、ハンスの元に侍従がやってきて、何かをやり取りしている声が聞こえてきた。どうやら会話の内容から、ヴィルヘルムからの予定報告のようだ。一時間後にヴィルヘルムはビアンカと密会する約束をしたらしい。


(大丈夫かしら? 万が一、媚薬を飲まされてしまったら……)


 そんなことないと信じたいけれど、もしかしたらという不安が消えない。

 しかしイリーナは頭を振る。


(ううん、陛下を信じるって決めたんだから。……次に陛下に会ったら、私の余命のことや皇宮を去ることを話そう)


 もしかしたら悲しませてしまうかもしれない。関係も終わってしまうかも。けれど、もう秘密を抱えているのは耐えられなかった。

 ──それからどれくらいの時間が経っただろうか。

 貴賓室のカーテンが開けられて、静かに現れた相手にハンスとローラは頭を下げる。


「陛下、おかえりなさいませ」


(陛下?)


 イリーナは居住まいを正して、ヴィルヘルムを迎える。


「おかえりなさい」


「気にするな。そのままオペラを聞いていると良い」


 その声音にイリーナは違和感を覚えた。


(陛下の声だけど……何かが違う?)


 何だか、いつもよりそっけない。口調は確かにいつもの彼のそれなのに、なぜか温かみを感じないのだ。


「随分早かったですね。うまくいきましたか?」


 ハンスの問いかけに、ヴィルヘルムは大きくうなずく。


「もちろん」


(何のことだ? とりあえず同意しておくか……)


 そんな心の声が聞こえてきて、イリーナは眉を寄せる。まるで先程の大事な話を忘れているかのようだ。


(どうして……?)


 イリーナは困惑した。しかしハンスとローラは何も言わない。彼の心の声が聞こえたのはイリーナだけだから当然ではあるが……。

 ヴィルヘルムはおもむろにイリーナの隣の椅子に座り、肘をついて黙り込んでいる。


(オペラを鑑賞しているのかしら……? それにしても、何かおかしい)


 イリーナは些細なヴィルヘルムの行動に違和感を持った。彼ならオペラの前にイリーナに一言声をかけてきそうなものだが、今はそれもない。


(もしかして、お義姉様を抱いたの?)


 ビアンカと一線を越えてしまったから、そんな不自然な態度なのだろうか。もちろんイリーナに皇帝である彼の行動を批難する権利はない。だけど、どうしても裏切られたような気持ちになってしまう。

 むくむくと猜疑心が湧いてきて、イリーナは心の耳を開けて彼の声を聞こうとした。

 そして衝撃を受ける。


(フッフッフ……誰も俺がヴィルヘルムだと信じて疑っていないようだな。今日のために奴の振る舞いを勉強した甲斐がある)


「えっ……?」


 思わず声が漏れたイリーナに、ヴィルヘルムが尋ねる。


「どうした? イリーナ」


 ヴィルヘルムの振りをした男が、優しくイリーナに問いかける。

 しかし彼の心の声は台詞に相反して凍るように冷たい。


(何だ、この女。変な声を出して……そんなに俺に構って欲しいのか。ああ、面倒だ。どうして俺がこんな目も足も悪い女の世話など焼かなければならないのか……本当にヴィルヘルムは女の趣味が悪い! 皇帝なのだから、幾らでも選べるだろうに。もっと巨乳で妖艶な女にすれば良いものを! クソッタレ!)


「いや……あの、何でもありませんっ!」


 あまりの混乱で、イリーナは慌てて、そう言って首を振った。


(ど、どういうこと!?)


 何が起こっているのか。

 イリーナの前で訳が分からない事態が起きている。


「そうか? 無理はするなよ」


 男は口だけは優しいが、心の声では真逆なことを言う。


(はぁ……この女の相手をするのは面倒だな。とりあえず今日は適当にあしらっておくか。明日にでもこの女を皇宮から追い出してしまおう。そうだな、それは良い考えだ! そして巨乳の女を集めた俺だけのハーレムを作ろう。フレッケン子爵からも女関係は好きにして良いと許可をもらっているしな)


 イリーナは硬直したまま、男の心の声に耳をすませる。

 ようやく事情が分かってきた。

 どうやら、この男はヴィルヘルムと入れ替わり、皇帝の座を簒奪しようとしているようだ。そしてフレッケン子爵というのが黒幕なのだろう。


(ど、どうしよう……!? どうして皆、陛下が偽者なことに気付かないの!?)


 イリーナは予想だにしていなかった事態に思考が大混乱し、パニックに陥った。

 ハンスもローラも全く気付いていないということは、よほどこの男はヴィルヘルムにそっくりな見た目をしているのだろう。


(あっ、そうか! 陛下は仮面をつけているから……!?)


 最近はイリーナの前では仮面の脱いでいることも多いが、基本的にヴィルヘルムは人前では怪しい銀仮面をつけている。

 つまり背格好や声、髪や瞳の色さえ似ている男を用意すれば、ヴィルヘルムに成り代わることも不可能ではないということだ。フレッケン子爵の大胆さにイリーナは舌を巻く。


(まさかお父様とお義姉様以外にも、陛下に悪事を働こうとする者が現れるなんて思ってもいなかったわ……)


 人生には予想外のことが起きる、悪いことは重なるとは言うけれど、今日この日に限って皇帝に謀略を働こうとする者が二組も現れるとは予想もしていなかった。

 それはイリーナだけでなく、会場の誰も──いや、目の前で皇帝になりすましているこの男とフレッケン子爵でさえ、想像もしていなかったことだろう。まさか自分達の計画が、他の者の企みとダブルブッキングするなんて──。

 未だに凍りついているイリーナの元に男の心の声が届く。


(そろそろフレッケン子爵の刺客がヴィルヘルムを殺して奴の死体を隠している頃か? 計画はうまくいくだろうか……いや、成功してもらわなきゃ困る。俺がヴィルヘルムそっくりに見えるよう、どれだけ長い間奴の振る舞いを訓練してきたか……あの男、意外に体を鍛えているから体を作り込むのが一番苦労した。いっそ小太りであってくれたら楽だったのに。ヴィルヘルムめ、暇さえあれば無駄に政務室で筋トレしやがって……!)


 イリーナはハッとして顔を上げた。


(陛下が危ない……ッ!?)


 フレッケン子爵の刺客がヴィルヘルムを狙っている。

 イリーナは彼を助けなければと慌てたが、ここで騒ぎになれば目の前にいる男が暴力を働くかもしれないし、逃げられてしまうかもしれない。

 イリーナがヴィルヘルムに知らせに行ければ一番良いが、目も足も悪いイリーナでは時間がかかりすぎる。その間にヴィルヘルムに何かがあったらと思うと耐え難かった。

 イリーナの逡巡は一瞬だった。後ろに控えているローラに向かって言う。


「ローラ、お手洗いに行きたいのだけど、手を貸してくれる?」


「はい。もちろん」


 ローラに付き添われて、イリーナへ貴賓室に入った。そして扉から離れた場所で、イリーナはローラに耳打ちする。


「ローラ、陛下は偽者よ」


「えっ!?」


「しっ、大きな声を出さないで」


 イリーナが慌ててそう言うと、ローラは声を潜めて扉の方見ながら当惑混じりの声で言う。


「陛下が? 本当ですか? 先程はいつもと変わりないように見えましたが……」


「本当なの。お願い。陛下を助けに行かなきゃ。彼がどこにいるか知ってる?」


 イリーナの言葉に、ローラは少し悩んでから言う。


「それなら、私よりハンス筆頭書記官の方が詳しいはずです。呼んできます」


 そう言ってローラはハンスを呼び出してくれた。

 イリーナは手短にハンスに事情を話し、陛下に迫っていることを告げる。

 ハンスはとても驚いた様子だった。


「陛下が偽者だと……?」


「ええ。ハンスは陛下の素顔を見たことがあるんでしたよね? あの男のおかしいところに気付きませんでしたか?」


 イリーナの問いかけに、ハンスは困ったような表情で自身の頭を撫でた。


「実は私、以前うっかり陛下のご尊顔を拝した際に、恥ずかしながら失神してしまい……それ以来、できるだけ陛下のお姿を視界に入れないようにして過ごしているんです。最近は雰囲気と声でしか判断しておりません。確かに思い返してみると……先程はいつもと若干様子が違いましたね。言われてみれば、という感じですが」


 ハンスは熟慮するように腕組みしながら唸った。


「ううむ……そういえば、イリーナ様は相手の細かなことに気付かれると報告にもありましたね。そのお言葉を信じましょう。──それでは、あの男には見張りをつけて、その間に陛下に計画の変更をお伝えしに──」


 ハンスはそう言いかけて止まった。そして懐から懐中時計を取り出して時間を確認する。


「いや、待てよ。もしまだ陛下がビアンカの計画を実行していなければ、あるいは……」


 彼がブツブツと何かつぶやいているので、イリーナは慌てた。


「ハンス、早くしないと陛下が……っ」


「大丈夫です。刺客にやられるほど陛下は弱くありません。ああ見えて剣の達人です」


 そう言ってから、ハンスは何か悪だくみをしているような不穏な笑みを浮かべた。


「良いことを思いつきました。一計を講じましょう。うまくいけば、アイゼンハート伯爵達とフレッケン子爵達をまとめて叩きのめすことができるかもしれません」

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