第18話 女神の末裔

 皇帝ヴィルヘルムと筆頭書記官ハンスは皇帝の政務室にいた。

 ハンスは書類に目を落としながら淡々と言う。


「ご報告いたします。ご心配されていた邪教の内部情報についてですが、元信者を尋問したところ、どうやらデミウルは五十年の周期で眠りから覚めるそうです。そして何百年もの間、密かに力を溜め続けた邪神が完全復活するのが今年だと信者達、皆が信じ切っているようですね」


(邪教か。忌々しい……)


 ヴィルヘルムは仮面の下で顔をしかめる。

 近年、邪神デミウルの信者の動きが活発化してきていた。

 一番厄介なのは、教主の唱えている五十年ごとの大災害の予知だろう。事実、帝国では五十年ごとに大地震や津波、大山の噴火、大森林の長期間に続く大火事など、大きな災害が起きている。邪教徒の幹部は口が達者で、死後の安楽や災害の回避など、上手な誘い文句で信者を増やしている。

 しかも入団させた信者に多額の財産を捧げて家庭崩壊させ、麻薬中毒にしてまともに思考できなくさせて教団のために奉仕活動をさせるなど悪質な行為を働いている。

 昔から帝国ではそれが悩みの種で、邪教の取り締まってきた。しかし教主は一部の幹部の前にしか姿を現さず、尻尾をつかめていない。黒髪黒目の中肉中背の男ということしか分からなかった。


「邪神なんて私は信じていませんがね」


 そう言いながらハンスは黒縁眼鏡の縁を上げる。


「……そうだな」


 ヴィルヘルムも同意した。彼もまた、あまり信仰深くはない方だ。


「邪神がいるというなら、聖女様がまた現れて、邪神を封印してくだされば良いのに」


 ポツリと不満げにささやかれたハンスの言葉にヴィルヘルムは顔を上げる。

 それは創世の神話にも関わるものだ。

 かつてこの世界で、邪神と女神が戦っていた。

 長い戦いの末に、女神アウルが聖なる力で邪神を地上に封印したという。

 しかし邪神デミウルは言葉巧みに人間を誘い、彼らの生命力を吸って細々と生きながらえてきた。主神の完全復活を企む邪教徒達の行動を察知した女神は地上に残り、人間と結ばれてデミウルが復活しかけるたびに、子孫である聖女が邪神の封印をしてきたのだという。

 ──しかし、あくまでそれは伝説の話だ。

 国同士の長い戦争の歴史の中で、言い伝えにある聖女の系譜はいつの間にか途絶えた。

 邪神デミウルなんて、悪さする子供を早く寝かしつけるための言い伝えに過ぎないとヴィルヘルムは考えている。


「言い伝えによると、聖女にはすごい力があったそうですね。癒やしの力や、守護の力、それに相手の心を読む能力まで……どこかに末裔がいるから私も会ってみたいですが」


 そのハンスの言葉に、ヴィルヘルムはピクリと片眉を上げる。


「心を読む能力? そんなの女神の能力にあると聞いたことないぞ」


「まぁ諸説ある内の一つですから。聖女は予言者だったという逸話もありますね」


「予言か……」


 ふとヴィルヘルムはイリーナを思い浮かべた。彼の暗殺を事前に止めてくれた少女。


(まさか、な……)


 あまりに下らない妄想に、ヴィルヘルムは自分でも嗤ってしまう。

 そばいる少女が聖女などと。

 あまりに上手く話がいきすぎている。

 ──それに間者に調べさせたところ、彼女の身の上に怪しむところはない。

 ここ数か月で急に足が悪くなって目も見えなくなったという情報が気になるだけだ。


(伯爵がイリーナを連れ回していたと聞くし、よく周囲のことに気付くだけだろう。そんな彼女が、どこかで俺の暗殺計画の話を隠れ聞いたに違いない。なぜそれを秘密にしようとしているのかは分からないが……)


 ヴィルヘルムはイリーナのそんな謎めいたところも、可愛らしい表情も、もっと知りたい、暴きたいと思う。その衝動を堪えていた。


(それにしても、口付けした時は初々しい反応だったな……)


 それを思い出して、ヴィルヘルムは楽しくなる。

 またイリーナに会いたくなってきて、ヴィルヘルムは席を立った。


「え? どこへ行かれるんですか? まだ仕事は終わってないですよ」


「まだ朝食を摂っていない。イリーナの食事がまだなら俺も同席すると侍女に伝えろ」


「さっきまで今日は忙しいから朝食は食べないなんておっしゃっていたくせに!」


 友人でもあるハンスの口調が砕ける。


「怒るな」


「いいえ! 私はむしろ嬉しいんです。もっとやって下さって結構! 仕事人間で、ろくに休む間もなく、まるで身も心も作り物みたいだった陛下が、最近は雰囲気も柔らかくなり、人間らしさを見せて優しくしてくださるのですから。使用人達はイリーナ様を歓迎しているんですよ」


「そうか……」


 イリーナの人となりを知れば、使用人達からは歓迎されることは分かっていた。貴族の中には未だに彼女が皇妃となることに納得していない者も多いようだが。

 それにしても、ヴィルヘルムが引っかかるのは自分の評価の方である。


(俺は優しくなったか……?)


 まさか、使用人達からそんなふうに思われているとは思ってもいなかった。

 あまりヴィルヘルムにはその自覚がない。ただあまりイリーナの耳に残酷な話は聞かせたくないから、失態を犯した配下にも寛容になっている部分はある。


「だから私も近々イリーナ様にお礼を申し上げに行くつもりでした。お体が弱いということで主治医に面会を止められており、未来の皇妃様にご挨拶できていませんでしたからね」


「……まぁ、良いだろう。主治医が許可するなら面会は許す。ただし、今日の午前中はやめておけ。これから食事するからな」


 ヴィルヘルムがそう言うと、ハンスはニヤリと笑う。


「お二人の時間を邪魔なんていたしませんよ。会う時はもちろん二人きりにならないようにしますし」


 変な気を遣うハンスに、ヴィルヘルムは半眼になる。


「何だそれは」


「侍女のローラに命じたでしょう? 聞きましたよ。主治医のマティアスをイリーナ様と二人きりにしないようにしろと」


「それは……」


 ヴィルヘルムは口ごもる。

 主治医と皇妃を二人きりにしてはいけない決まりなど本来はない。

 しかし、ヴィルヘルムはマティアスがイリーナに懸想しているのでないかと疑い、侍女のローラに命じて二人が密に会話しないようにしていた。


「嫉妬深いですよ」


「黙れ。用心深いと言え。俺はもう行く」


「はいはい。ごゆっくり」


 そうハンスに生温かく見送られながら、ヴィルヘルムはイリーナの元へ向かうのだった。

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