第17話 日常
マティアスはイリーナの体を触診しながら言う。
「もう少し運動した方が良さそうですね。体力が落ちているようです」
毎朝一番にマティアスはイリーナの様子を見にきてくれる。
ローラが扉を開けてメイドから朝食の載ったワゴンを受け取る隙を見計らい、イリーナはマティアスに心読みの力について感じた違和感を密かに伝えた。
本当は筆談などもできたら良いのだが、目が見えないイリーナには難しいから、こんな方法しかない。
(なるほど……もしかしたら、同じ心読みでも何か制約があるのかもしれませんね。たとえば、心の耳を閉じても聞こえてくるような大きな声では影響はない。けれど、お嬢様が意図的に異能を使おうとした時には生命力が奪われるとか)
イリーナはうなずく。それはイリーナも考えたことだ。
ヴィルヘルムの強い心の声や、マティアスの呼びかけを聞いても体に大きな変調はない。
しかし伯爵家では伯爵達の命令で繰り返し異能を使っていたから生命力を浪費した、ということなのだろうか?
(今のところ憶測でしかありません。なぜ今まで健康体だったのに、十八歳になって急に足が悪くなり目も見えなくなったのか、その理由も分かりませんから)
イリーナは暗い表情で首肯した。
マティアスはイリーナの瞼を開いて、視力に変化がないかを確認しながら心の声で言う。
(異能を故意に使わなければこの状態のまま長く生きられるかというと、そうではないでしょう)
「……っ! で、でも、皇宮に来てから体の調子が良いんです!」
つい言葉を発してしまい、イリーナは慌てた。目が見えないが、ローラの方を気にしてしまう。
しかし会話としておかしくなかったのか、ローラは何も言ってはこなかった。
マティアスはイリーナの手を取って声を発した。
「それは皇宮にきて心理的に楽になったため、一時的に良くなったと感じているのでしょう。心と体は影響し合っていますから。栄養も前より摂れるようになったことも大きいかもしれません。確かに顔色は伯爵家にいた頃より良いです。しかし触診した限り、脈も速くなっていますし、胃も荒れて食事も普通の人ほどは摂れていません。目眩も頻回にあるようです。とても良くなったとは言えません」
マティアスはイリーナの肩や肘の動きを声かけをしながら確認していく。
「腕が強張っていますね。最近の調子はどうですか?」
「……たまに、少し痺れる時があります」
イリーナの言葉に、一瞬マティアスは黙り込む。
(足が動きにくくなる前も、同じような前兆がありました。あの時は、これほどゆっくり進行しているわけではありませんでしたが。おそらく少しずつですが症状は悪化しています。間もなく腕も動かせなくなるでしょう。もちろん異能を意識的に使えば、もっと速く悪くなるかもしれませんが……一切使わなかったとしても、お嬢様の余命は変わりないでしょう。少しくらいは伸びることはあるかもしれませんが)
マティアスの言葉に、イリーナは目の前が暗くなるような心地になった。
(余命一年というのは変わらないんだわ。私の体は……)
異能を使わなければ延命できるという訳ではないようだ。まるで少しずつ舐め取るように邪神に生命力を奪われているように感じる。
(少しでも長く陛下のおそばにいられたら、と思ったけれど……)
やはり契約結婚は一年しかできそうにない。いや、もしかしたら、もっと短いかも。
(期待はしないようにしよう……)
イリーナは今までの経験から期待したらますます傷つくことを知っている。
マティアスが気遣うように言う。
「イリーナ様と同じ症状の者について、私ももっと探してみます。古いカルテや何か手がかりになるのものがないか」
(皇宮で働くと伝えてから、伯爵家に置いていた私物は全て伯爵の命令で邸の外に放り出されてしまい、もう私は伯爵家に足を踏み入れることは許されません。けれど何とか邸に忍び込んで伯爵の書斎や古いカルテに何か書かれていないか探ってみます)
「……ッ、危険です!」
イリーナは思わずそう叫び、マティアスの白衣をつかんでしまった。
そばにいるローラが「え? どうなさいました?」と目を丸くしてイリーナを見ている。
イリーナは血の気の失せた顔で、言葉を選びながら言う。
「……私のために、そこまでしなくて良いんです。お願いします」
(もし邸に侵入したことが知られたら、お父様は許さないはず。マティアス先生がきつい罰を受けることになる)
それはイリーナの望むところではない。
「私の望みは、私の大事な人々が健やかに……幸せに過ごしてくださることです。だから何もしないでください」
イリーナがそう懇願すると、マティアスが息を飲む気配がした。
(私の力は、きっとそのためにあるのだわ)
いつかヴィルヘルムが困る状況になったら、イリーナはたとえ生命力を削られるとしても迷いなく己の異能を使うだろう。
もしヴィルヘルムの心の声によって寿命が縮むとしても構わない。彼の心の声はイリーナにとって幸せなものばかりだ。それを疎むことはありえない。
「私も残りの人生を、大切な人のそばで、ゆっくりと過ごしたいんです。それだけが望みです」
「お嬢様……」
切なげにマティアスは声を漏らしたが、結局は「分かりました」と了承してくれた。
マティアスが去った後、ローラが「さっきのはどういう意味ですか?」と不思議そうにしていたが、イリーナは苦笑いで誤魔化した。
そして日の差し込む窓ガラスに触れて、瞼越しに陽の光を感じる。
(陛下に会いたい……)
それは一日に何度も思うことだ。
もし死が逃れられないのなら、一分一秒でも長く愛する人のそばにいたい。
その時、扉が開いてヴィルヘルムが入室してきた。今日は一緒に朝食を摂ってくれる時間の余裕があるらしい。
「イリーナ、おはよう。調子はどうだ?」
そう声をかけてきたヴィルヘルムに、イリーナは微笑みながら「大丈夫です」と言う。
そんな何でもない日常が、イリーナにとってはかけがえのない大事な時間だった。
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