第16話 触れ合い
イリーナは自室の応接用のソファーに座って、向かい合うヴィルヘルムと午後のティータイムを過ごしていた。こうして毎日一緒に食事とティータイムをすることが習慣となっている。
(陛下はお忙しいから、もちろん食事を毎回ご一緒することはできないけれど……お忙しい中で時間を作ってくださって、ティータイムには必ず私の部屋に顔を出してくださる)
それがイリーナにはとても嬉しいことだった。たとえ朝や昼に会えなくてもティータイムには彼と何を話そうか、と考えて過ごすのも楽しい。イリーナはあまり話し上手ではないが、ヴィルヘルムの政治の話を聞くだけでも知らない世界が見えるようで興味深かった。
「こんな話ばかり聞いても退屈だろう」
ヴィルヘルムは時折、困ったような声音で言う。
「いいえ、そんなことはありません」
「だが、女子供は政治の話なんて嫌いだろう? 令嬢の前でうっかり政治の話をしたら
ハンスはヴィルヘルムの補佐をしている筆頭書記官だ。
ヴィルヘルムは肩をすくめる。
「俺はあまりお喋りではないし、気の利いた言葉も言えない。普段は政務ばかりしているから、どうしても思いつく話題がそっち方面ばかりになる。異性と洒落た会話を楽しむだけのティータイムなどしてこなかったからな。お前が俺との時間を退屈していないか心配だ」
ヴィルヘルムの不安が伝わってきて、イリーナは驚く。
「そんなことありません! 陛下のことなら何でも知りたいです」
うっかり本音を漏らしてしまい、イリーナは顔が熱くなる。
(ああ……また、やってしまった……)
どうしてもヴィルヘルムの前では口が緩んでしまう。おそらく、今まで心を許して話せる年の近い相手がいなかったせいだろう。つい何でも話したい、彼に近付きたいと思ってしまって、気持ちを制御できなくなってしまうのだ。
(邪神のことや、余命のことは何とか話さないように今のところ頑張っているけれど……)
どうもヴィルヘルムに強く頼まれると弱い。秘密を守る決意も、もしヴィルヘルムに懇願されたら話さないでいられる自信がなかった。
(できるだけ話題にしないようにするしかなさそう)
イリーナが困り果てて両頬を手で押さえていると、ヴィルヘルムがおもむろに立ち上がって近付いてくると、イリーナを抱きしめた。
「へ、陛下?」
困惑するイリーナ。
(……色々我慢するのが大変だ)
苦悶するヴィルヘルムの心の声がイリーナに届いた。
顔をヴィルヘルムの胸に埋めると心臓の音が早くて、イリーナもドキドキする。
「婚約発表パーティは二週間後だ。それまでにパーティ用のお前のドレスを仕立てよう」
「はい……」
イリーナはうなずく。
伯爵家から着の身着のままでやってきたし、数少ない伯爵家の私物は全て捨てられてしまった。今イリーナが着ている室内用のドレスは、皇宮に来てから仕立ててもらったものだ。別室にあるイリーナ専用の巨大クローゼットには、一生使っても着れそうにないほどのたくさんのドレスが既に仕舞われている。
「私は今あるものだけでも十分ですが……」
そうイリーナが言うと、ヴィルヘルムはコツンと軽くイリーナと額を合わせる。
その銀仮面とは違う柔らかな人肌の感触にイリーナは目を剥く。
(陛下は仮面をつけていない?)
目が見えないため、ヴィルヘルムがいつもの銀仮面をつけていないことにも気付けなかった。
「……お前には、今まで人生で貰えるはずだった分のドレスを──いや、それ以上の幸せを与えてやりたいんだ」
そう言われて、イリーナは胸の奥をぎゅっと摑まれるような切なさを覚えた。
いつもより近い距離で、イリーナは顔をほころばせる。
「……ありがとうございます。おの……もし、お嫌でなければ、陛下のお顔に触れてもよろしいですか?」
勇気を出して言ったイリーナの問いかけに、ヴィルヘルムはぎょっとした様子だったが、しばらくして「構わない」と言う。
イリーナはせっかくそばにいるのだから、ヴィルヘルムの形をなぞってみたくなったのだ。目が見えなくなってからは触覚が頼りで、何をするにも手で触れて確認していたから。
ヴィルヘルムは座っているイリーナが触りやすいようにだろう、その場に屈み込んでくれた。
イリーナはそっと手を伸ばしてヴィルヘルムに触れた。少し熱を帯びた陶器のようなツルリとした肌、通った鼻筋、目元と唇、輪郭にゆっくりと手を這わせる。
「陛下はこんなお顔をなさっていたんですね」
そう言いながら、イリーナは内心で『何だか顔面が整いすぎている?』と首を傾げた。
仮面の下に火傷の跡か傷跡でも隠しているのかと思っていたのに、女のイリーナより肌がきめ細かく、肌荒れもない。顔面が芸術家が造った神の石像のように理想的な配置をしている。
それが不思議で、つい本当に人間かと確認したくなり、念入りに指で触れてしまう。
指が耳元に当たった時は「……ッ!」とヴィルヘルムが身じろぎした。
「あっ、すみません」
「大丈夫だ」
(あまり大丈夫ではないかもしれない……)
ヴィルヘルムの何かを耐えているような心の声が聞こえてきて、イリーナは慌てて手を離す。
「すみません。不躾に触ってしまって……」
(陛下はあまり触られるのが好きではないのかも……)
そう思い、イリーナがしゅんと頭を垂らす。その顎にヴィルヘルムが手を伸ばした。
イリーナが驚いて顔を上げると、彼女の唇に柔らかいものが触れる。ふにょっとした感触がして、イリーナは目を丸くした。
(柔らかくて……温かくて、ちょっと濡れている?)
初めて感じるその不思議な感触に、イリーナは首を傾げつつ己の指で唇をなぞった。
瞬間──。
(しまった……! イリーナが可愛すぎて、つい口付けをしてしまった!)
ヴィルヘルムの心の叫びに、イリーナは肩を揺らす。
(え? 唇? 今のが……!?)
そう理解した途端、顔面に火が噴いた。
「え、っと……」
言葉がまとまらない。
まさか不意打ちでファーストキスを奪われるとは思っていなかった。
(了承も得ずに俺は何ということを……! い、いや、今のは唇ではないと言い張れば……いや、駄目だ! イリーナに嘘を吐くなんて男の風上にも置けない。それに俺達は婚約者になるんだ。ならば口付けくらい別に……)
かなり動揺と混乱しているヴィルヘルムの様子が伝わってきて、イリーナもアワアワした。
狼狽しているのはいつもヴィルヘルムの心の声だけで、実際には彼は声も漏らさず身動きすらしていないのだが。
(しかし、主治医のマティアスにも言われたじゃないか。『お嬢様は心も体も弱いので、あまり刺激のある行為はお慎みください』と。俺を刺し殺しそうな冷たい目で言っていた)
(マティアス先生がそんなことを!?)
イリーナは突如出てきた名前に仰天した。まさかヴィルヘルムがマティアスとそんな会話を裏でしているとは思いも寄らない。
「その……今のは俺の唇だ。了承も得ずにすまない」
「い、いえ……」
イリーナは口元を手で押さえながら、いっぱいいっぱいになりながらそう言う。声も裏返ってしまっていた。
妙な沈黙が辺りを包み込む。
「その……良ければ、もう一回しても?」
そうヴィルヘルムにおずおずと聞かれて、イリーナの頭は真っ白になる。
(もう一回? もう一回って……)
先ほどの不意打ちとは違い、イリーナは覚悟の上で挑まなければならないということだ。
「もちろん嫌ならしない」
ヴィルヘルムの焦ったように付け足された言葉に、イリーナは困り果てて顔を俯ける。
「それは……もちろん、嫌では……ありませんが……」
好きな人に触れられて嫌なはずがない。しかしイリーナは余命のこともあって、これ以上の深入りは危険だとも感じていた。
しかしイリーナの戸惑いなどお構いなしに、ヴィルヘルムに
涙目で息が上がってきたイリーナを、彼は強く抱きしめた。
「本当に愛らしいな。イリーナは……」
ヴィルヘルムがそのままイリーナを抱きしめているので、イリーナもおとなしく身をゆだねた。
イリーナの体のことを考えて、彼もその程度の接触に留めたのだろう。
(マティアス先生のお考えも分かるわ)
もしも一線を越えて御子を身籠ってもイリーナの体では産めるか分からない。万が一腹の子と一緒では既に覚悟した死も受け入れることができなくなるだろう。
きっとイリーナのそんな事情も考慮して、マティアスはヴィルヘルムを説得してくれたのだろうと、イリーナは思っていた。
ふいにヴィルヘルムが言う。
「……そういえば、ハンスからアイゼンハート伯爵家の人々を婚約発表のパーティに招待するよう勧められた。俺は招待する必要などないと思っているが……お前の意見を聞かせてくれ」
突如ヴィルヘルムの口から出た生家の名前に、イリーナはビクリと身を震わせる。
(お父様達が……)
自然のイリーナの表情が陰る。
生贄にされていたのだと知ってから、イリーナの家族への情は消えていた。わずかに残っていた期待も粉々に打ち砕かれた。ヴィルヘルムや皇宮の人々の優しさを知った今では、もう辛い記憶を思い出せる伯爵家の人々には会いたくないとすら思う。
けれど婚約発表の席で生家である伯爵家の人々を招待しないとなると、周りからどんなことを言われるか分からない。ヴィルヘルムが非難されるような状況はイリーナには耐え難かった。
結局、イリーナは言う。
「招待していただいて構いません」
「そうか……それでは、できるだけ彼らをお前に近付かせないように護衛に命じておこう」
ヴィルヘルムの配置にイリーナは小さく微笑む。
「ありがとうございます」
(俺の事情に配慮してくれたんだな。本当にいじらしい。パーティ会場ではイリーナから目を離さないようにして、奴らを近付けさせないようにしよう)
そんなヴィルヘルムの心の耳が聞こえてきた。
その時、ふとイリーナは不思議に思った。
心の耳を閉じてもたくさんヴィルヘルムの心の声が聞こえてくるのに、皇宮に来てから体は異常を起こしていない。
視力を失った時や足が悪くなった時は短期間で症状が悪化したのに。
ヴィルヘルムや侍女のローラが甘えさせてくれるから最近は部屋で休んでいることが多いが、体調は伯爵邸にいた頃に比べて悪くなっていないのだ。
(何だか不思議……てっきり心読みの力を使うほど、生命力を奪われるのかと思っていたのに)
マティアスもそうだろうと言っていたし、実際に先祖が書いた『マリアンネの手記』にもそう書かれていたから疑っていなかった。
けれど、もうそうでなかったとしたら──?
(マティアス先生に相談してみよう。何か糸口がつかめるかも……)
死を覚悟していたはずなのに、今更になって少しでも悪あがきをしたくなりつつある自分に苦笑しつつ、イリーナはそう思った。
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