第14話 そばにいて
その日、イリーナは大きな竜のような怪物に食べられる夢を見た。真っ暗な森の中に邪神を祀る岩の洞窟があり、そこで身動きのできなくなった自分が邪竜に少しずつ噛みつかれて弱っていく。両足、両眼、その次は──。
イリーナはハッとして飛び起きた。
「大丈夫か?」
すぐそばでヴィルヘルムの声がして、イリーナは驚いた。
「陛下?」
「大丈夫か? うなされていたようだが……」
ヴィルヘルムがイリーナにガウンをかけてくれる。
「ありがとうございます……」
心臓がまだ痛いほど鳴っていて、イリーナは胸元をぎゅっと握りしめる。
(それにしても、どうして陛下がここへ……?)
ここは客室のはずだ。ヴィルヘルムの私室ではない。
イリーナの戸惑いが伝わったのか、ヴィルヘルムは言う。
「ローラから聞いたぞ。夕方にマティアスに会ってから体調が悪いと……心配で様子を見に来たら、お前が飛び起きたんだ」
「そうだったんですね……ご心配をおかけしました」
イリーナはペコリと頭を下げる。
「いや、別に構わない」
そう言われて、イリーナは肩の力を抜いた。
「ところで、今は何時でしょうか?」
「十八時過ぎだ。腹は減っているか?」
彼の問いにイリーナはゆっくりと首を振る。マティアスの話と悪夢のせいで、まったく食欲が湧かない。
「何だか恐ろしい夢でも見ていたようだな」
「はい……怪物に食べられる夢でした」
イリーナは顔をうつむかせる。
しかし、あまりに夢が他愛のないものに聞こえたのか、ヴィルヘルムは「そうか」とクスリと笑う。
笑わられるとイリーナも子供が見るようなよくある悪夢に思えて、気が楽になってきた。
(やっぱり陛下といると安心する……)
自分のくだらない不安を笑い飛ばしてくれる。彼の度量の広さに救われていた。
(まぁ、イリーナは可愛いから怪物も食べたくなるだろう)
ふいにヴィルヘルムの心の声が聞こえてきて、イリーナは頬を赤らめ慌てて心の耳を閉じた。
(不意打ちだわ……)
また甘い声を聞くことになってしまった。
「お前を一人で、こんな遠いところにいさせるのは不安だ。明日から部屋を俺の隣室に移させる」
「陛下の部屋の隣に……?」
それは皇妃の部屋だ、と気付いた。ヴィルヘルムと内側の扉一つだけで繋がっており、すぐに行き来できる。
「は、はい」
イリーナは居住まいを正して、そう答える。
今は遠いとはいっても、皇宮の客室だからヴィルヘルムの私室とは階を隔てているだけだ。足の悪いイリーナならともかく、ヴィルヘルムには大した距離ではないはず。しかしヴィルヘルムはその距離でも煩わしいらしい。
「支度をしておきます。といっても、伯爵家から持ってきたものはほとんどないので移動はすぐにできると思いますが……」
イリーナはそう言う途中で、マティアスから返してもらった『マリアンネの手記』がどこにあるか不安になる。失くしてしまったかと動揺して、慌てて枕元あたりを手で探り、それが手に触れてホッと安堵の息を吐く。
「それは何の本だ?」
ヴィルヘルムに聞かれて、イリーナはヒヤリとする。
うっかりそのまま隠すことなく眠ってしまった。それに焦って怪しい動きまでしてしまっていた。
(どうしよう……)
だが仮に読まれたとしても、手記の後半──邪神のことが書かれた箇所は言語学者が解読しなければ読めないほど難解な文章だ。普通に判別できるところを読むだけなら、イリーナと同じ症状を持つ女性の話だとしか思わないだろう。
(ここで隠して怪しまれるよりは、ある程度正直に話しておいた方が良いかもしれないわ……)
「これは、私に似た症状を持っていた女性の記録です。私が屋根裏で見つけて保管していたのですが、マティアス先生が持ってきてくれました……」
「そうか……。見せてくれるか?」
「──はい」
抵抗感はあったが、ここで隠すのは逆に不審がられると思い、イリーナはヴィルヘルムに手記を手渡した。
しばらくの間、パラパラとページをめくる音だけが響いた。
「なるほど……マリアンネ・アイゼンハートという女性の日記か。随分古いな……アイゼンハートということはお前の先祖だろう?」
「はい……」
できるだけヴィルヘルムに嘘は吐きたくなくて、イリーナはそう言う。邪神に関わりがあるかもしれないことや余命のことはさすがに言えないが、それ以外のことは正直でいたかった。
(どこかにご先祖様の治療記録は残っていないのかしら……?)
マティアスの家系は代々伯爵家の主治医をしていた。彼なら既に探してくれていそうだ。けれど何も言ってこないのは、もしかしたらカルテは大昔に処分されたか、マティアスも知らない場所にしまい込まれているのかもしれない。
「ありがとう。お前と同じ症状の者を調べさせる。今日はもうゆっくり眠ると良い」
手記を返され、イリーナは肩の力を抜いた。
(本当は一緒のベッドで眠りたいが……さすがにイリーナを緊張させてしまうだろうな。今日は別々に眠るか)
ヴィルヘルムのそんな心の声が聞こえてきた。
「あっ、あの……っ」
イリーナはヴィルヘルムを呼び止めた。
「なんだ?」
悪夢を見たばかりだから少々心細いのもあるが、イリーナももう少し彼と一緒にいたかった。
けれど、さすがに一緒に眠るのは、まだ恥ずかしいし、抵抗感がある。
だから──。
「その……もう少しだけ、一緒にいてくれませんか……?」
イリーナは勇気を出して言った。
ヴィルヘルムは虚を突かれた顔をした。そしてすぐに破顔する。
(可愛いな、イリーナは)
「ああ。もちろんだ」
目には見えなくともヴィルヘルムが嬉しそうにしているのが分かり、イリーナも照れ笑いを浮かべる。
それからしばらくとりとめのない話をして過ごした。けれど次第に眠気が押し寄せてきて、ヴィルヘルムに眠るよう促され、イリーナは目を閉じる。
(陛下は優しい……)
彼だけじゃない。ローラや皇宮の人々も親切だ。伯爵家にいた頃よりもずっと居心地が良くて、幸せを噛み締めている。
(私の残りの人生を、陛下のために役立てたい)
あと少しだけ。残された時間はわずかだ。この能力をどう利用するか考えよう。
──イリーナはそんなことを思いながら眠りに落ちた。
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