第13話 生贄

 その日の夕暮れ時──。


「こんにちは。マティアス先生、皇宮までお越しいただき、ありがとうございます」


 イリーナは部屋に入ってきた主治医のマティアスに挨拶する。

 この時間に来ると聞いていたので、ローラにお茶の準備をしてもらって待っていたのだ。

 マティアスはイリーナの元に駆け寄ってくる。


「お嬢様、大丈夫でしたか!? 心配しました。午前中に私が邸を離れている間に陛下がお嬢様を連れ去ったと聞いて仰天しました。伯爵や奥様に何があったか聞いても不機嫌で答えてくださらないし……」


 どうやら、イリーナがいなくなってから伯爵家は混乱に陥っていたらしい。


(そういえば……私はもうお役目を果たせなくなったけれど、お父様達はどうなさるのかしら)


 イリーナが皇宮にいるから、これまでのように父親の事業相手や、義姉ビアンカの婚約者候補の心は読めない。


(きっと……お父様達のことだから上手くやるはずよね)


 イリーナは己の能力を過小評価していた。まさか自分の異能の恩恵がなくなることで今後伯爵家が没落していくとは思いも寄らない。

 マティアスは安堵の息を吐く。


「数時間前に皇宮から使いがやってきて、今後は陛下のご婚約者のイリーナ様の主治医として働くよう命じられて驚きましたよ」


「ごめんなさい。突然のことで驚きましたよね……ご迷惑ではありませんでしたか?」


 イリーナにはそれが気がかりだった。彼女がマティアスのことを話したから、彼が皇宮に召し上げられることになったのだ。

 しかしマティアスは屈託ない笑い声を立てた。


「いいえ、まったく。むしろお嬢様のおかげで伯爵家より良い待遇で雇っていただけることになりました。元々私が伯爵家で働いていたのは、お嬢様のことを見捨てられなかったからです。もうとっくに旦那様には愛想が尽きていますので、お気になさらず」


「マティアス先生……ありがとう」


 胸にあたたかいものが広がる。

 あの息苦しい伯爵邸で、どうにか生きながられてこられたのはマティアスのおかげだ。

 マティアスは苦笑をして言った。


「……本当は私の手を取っていただきたかったですが、こればかりは仕方ないですね。お嬢様が幸せならば私はそれで良い」


「先生……」


 本当はマティアスの気持ちに気付いていた。イリーナは心が読めるから。けれど彼の気持ちに気付いていない振りをしていた。

 重い空気を変えるように、マティアスは明るい声で言う。


「それより、お借りしていたお嬢様の本です」


 そう言ってマティアスがイリーナに渡してくれたのは『マリアンネの手記』だった。背表紙からそれが分かる。


「怒り狂った伯爵がお嬢様の私物を全て処分してしまったのですが、この本はたまたま私が預かっていたので無事でした」


「わぁ! ありがとうございます!」


 伯爵邸に残してきたもので一番心残りだったのは、この本だ。他の私物が捨てられたのは残念だが、この本だけでも残っていて良かった。


(良かった。また手元に戻ってきて……)


 イリーナは手記をぎゅっと抱きしめる。

 マティアスが小声で周囲を注意深く見ながら言う。


「お嬢様……お話したいことがあるのですが、二人きりにはなれませんか?」


 その問いに答えたのはイリーナではなく、そばにいたローラだった。


「それはいけません。お嬢様は陛下とご婚姻なさるお方です。たとえ医者であっても、異性と二人きりはさせられません」


「部屋の扉を少し開けていてもダメですか?」


 渋面で尋ねるマティアスに、ローラは首を振る。


「怪しい行動は包まれた方がよろしいかと」


 たとえ会話だけでも、異性と二人きりでいれば変な噂を立てられるかもしれない。それをローラは警戒しているようだ。


「仕方ありませんね。お嬢様」


 ため息と共に、マティアスは強い心の声で言った。


(ここからは心の声で伝えます。聞こえていたら一つうなずいてください)


 イリーナはビックリして、コクリと首を縦に振る。マティアスが何をしようとしているか分からなかった。


(お嬢様、余命のことは陛下はご存知ですか?)


 一拍置いてから、イリーナは首を振る。

 ローラが「お嬢様、どうかなさいましたか?」と尋ねてくるが、「何でもないわ」と答えた。

 クッキーを手に取り、咀嚼してそちらに集中している振りをする。


(それでは、ここからは内密にお願いします。その『マリアンネの手記』には読み取れない文字がたくさんありましたよね?)


 イリーナはうなずく。

 おそらくマリアンネも徐々に病状が進行し、目も手足も不自由になったためだろう。後半の文字はミミズが這ったようなもので、ほとんど判別できなかった。


(実は私が今日午前中に出かけていたのは、知人の言語学者に会うためでした。勝手ながら彼にこの本を解読してもらったところ……後半は同じ文章がずっと繰り返されていたのです)


 何だかゾクリとして、イリーナはマティアスの方に顔を向ける。目で確認できなくても、何か大事なことを彼が伝えようとしているのが分かった。


(それは……『私ハ生贄ニサレタ。異能ヲ得ルタメニ。デミウルニ』)


(えっ……)


 イリーナは思わずクッキーを落としそうになった。

 デミウルとは邪神として有名だ。邪教徒はこの国では処罰の対象で、見つけ次第斬首刑となる。


(それって……どういうこと?)


 生贄にされたのがイリーナの先祖のマリアンネなら、同じ症状のイリーナは?

 少し躊躇うようにしてから、マティアスは言う。


(言うべきか悩みましたが……解決策を探すためにも、お嬢様には予めお伝えしておきます。ここからは私の推測も混じることをご承知ください)


 イリーナは震えそうになる指を握りしめて首肯する。


(伯爵家には、昔から時折心を読める子供が生まれていましたね? しかし伯爵家の家系図を調べると、異能を持って生まれるのは決まって『愛人』の子供なんです)


 マティアスの心の声に、思わずイリーナは動きを止めてしまう。


(え? それって……?)


(おそらく──どんな繋がりなのかは分かりませんが、昔に伯爵家は邪神デミウルと何らかの契約をしたのでしょう。一族の子供を生贄にする代わりに、対価として『心読み』の能力を得ることを)


 とんでもない話に、イリーナの顔から血の気が引いた。


「イリーナ様!? お顔が真っ青ですよ! 大丈夫ですか!?」


 そう心配そうに声をかけてくるローラに、笑みを返す余裕もない。


(生贄……? 私が……?)


 しかしそう考えるとしっくりくる。

 正妻の子供であるビアンカを生贄にさせられなくて、わざと愛人のメイドに子供を身籠らせたのなら……。

 何をしても愛してくれないのも当然だろう。そもそもイリーナは最初から家族の輪にいなかったのだ。

 ダラリと体から力が抜ける。


「お嬢様、お気を確かに」


 そう口で言いながら、マティアスはイリーナの額の汗をぬぐい、体調を伺う医師の顔を作りながら心の中で言う。


(伯爵も、おそらくは全てを知らないままやっているのかもしれません。自分が生贄を捧げているのが邪神であることも。そうでなければ、心読みができるお嬢様に伝わっているはずですから)


 イリーナは硬い表情でうなずく。


(そういえば昔……お父様が私を見て『生贄』と心の声で言ったことがある……)


 その時は意味が分からなかったけれど、そういうことだったのだと今なら理解できた。

 マティアスは続ける。


(たとえば伝統的に愛人の子供には赤子の時に何らかの儀式を行えば子供に異能が宿るとか──そんな風に先祖から言い伝えられているのかもしれません。多分、異能を使うことによって短命になることも知らないのでしょう。でなければお嬢様が亡くなった後も途切れることなく心読みの力を使えるよう、たくさん愛人の子供を作っているはずですから。あるいは一代につき一人の異能の子しか生まれないなど、何らかの制約があるのかもしれません。もちろん夫人が嫉妬深く愛人の子を一人しか許さなかったというだけかもしれませんが……)


 イリーナは目や足が悪くなった時の伯爵達の反応を思い出して、納得する。彼らはイリーナが能力の代償に寿命を削っているとは想像もしていない様子だった。おそらくマティアスの推測は正しい。

 あまりにイリーナが青白い顔をしていたためか、マティアスが気遣うように言う。


「お嬢様、お話の続きはまた今度にしましょう。これからは私は皇宮におりますので、いつでもお話できますから」


(急にこんな話をしてしまい申し訳ありません。どうかお気を落とさず……)


 マティアスはローラにイリーナをベッドに寝かせるよう指示した。彼は帰り際に扉の前で振り返り、心の声で言った。


(このことはヴィルヘルム陛下に秘密になさってください。もしお嬢様がデミウルと何らかの関与が疑われたら、御身が危険にさらされらかもしれませんので……)


 イリーナが邪教と関わりがあると思われたら、たとえ皇妃になったとしても命が危ないかもしれない。マティアスはそれを危惧してくれているのだ。


(……先生は心配してくれているのね)


 しかしイリーナがじきに死ぬのはもう決まっている。

 邪神と関わりがあると告発されて死刑になったとしても、死期が少し早まるだけだ。もちろん汚名を着せられて殺されることは気持ち良いことではないけれど、どうせ死ぬなら大した違いはないと諦められる。

 けれど、ヴィルヘルムのことだけはどうしても見過ごせなかった。


(これ以上、陛下の足を引っ張りたくない……)


 現状、ヴィルヘルムとイリーナの結婚を良く思っていない貴族は多いだろう。その中でイリーナが邪教に関わりがあるかもしれないと知られたら、イリーナだけではなくヴィルヘルムの立場も危うくなる。だからイリーナが生贄ということは秘密にしておかなければいけない。


「お嬢様……」


 ローラが心配そうに顔を覗き込んでくるので、イリーナは無理やり笑顔を作る。


「大丈夫よ……少し疲れただけだから」


「少しお休みください。陛下にご報告は私からしておきますから」


「ありがとう……そうするわ」


 イリーナは目を閉じる。




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