第12話 食事

 その後は場違いにイリーナのお腹がぐぅと鳴り、イリーナは赤面する。


(どうして私のお腹はいつも都合が悪い時に鳴るの……!)


 ヴィルヘルムが楽しそうにクスッと笑みをこぼした。


「食事をこちらに用意させよう。ゆっくり食べると良い」


 そう言って笑いながら立ち去ろうとした彼の服の袖を、イリーナはとっさにつかんでしまう。


「あっ……」


 離れがたくて思わず引き止めてしまったが、どうしてそんなことをしてしまったのか自分でも分からない。


「どうした?」


 ヴィルヘルムの優しい声に促され、イリーナは慌てて手を引っ込める。


「い、いえ。何でも……」


 戸惑いながらそう首を振ると、ヴィルヘルムは急に黙り込んでしまった。


「もし嫌でなければ……俺も一緒に食事を摂って良いか? 忙しくてまだ昼食を摂っていなかったんだ」


「えっ、陛下と……?」


「嫌か?」


「いえ、とんでもない。とても……嬉しいです。いつも一人ぼっちで食事をしていたので……」


 イリーナは戸惑いながらそう言う。するとヴィルヘルムが安堵したように笑った気配がした。


「では、すぐに食事を運ばせよう」


 そしてヴィルヘルムは部屋を出て行ったのだった。


(陛下と食事……)


 なんだか胸の中がほわほわと温かくなり、イリーナは自分の胸を押さえる。医者のマティアスを除けば、誰かと食事を共にするのは久しぶりのことだ。十五年前に亡くなった母親の時以来かもしれない。


「食事が届くまで、しばらく書類作業をしていて良いか?」


 ヴィルヘルムにそう問われ、「はい」とうなずく。それからは室内に書類をめくる静かな音が時折聞こえたが、不思議と沈黙も嫌ではなかった。

 しばらくすると侍女が部屋にワゴンで食事を運んできた。

 白いキャップに焦げ茶色の髪を入れ込んだ、快活そうな十九歳のメイド服を着た少女だ。

 ヴィルヘルムがイリーナに向かって言う。


「イリーナ。彼女はローラ・フェルンハイム。子爵令嬢で、元々は俺の信頼する侍女だった。これからはお前付きの侍女にしようと思う」


 イリーナは驚き、慌てて頭を下げる。


「初めまして。イリーナ・アイゼンハートです。どうぞよろしくお願いいたします」


「まあ! 頭など下げないでください。私は侍女なんですから」


 そう駆け寄ってきたローラに押し留められ、イリーナは目を丸くする。


「なんてお可愛らしい方! 陛下が認められただけありますね。皇宮内はもう大騒ぎですよ。冷徹な陛下が骨抜きになっているご令嬢がいると……」


(骨抜き?)


 ローラは微笑んで言う。


「陛下がこんなに誰かに親切にしているところを見たのは初めてですよ! もう私、ビックリしちゃって!」


「ローラ。おしゃべりが過ぎるぞ」


 ヴィルヘルムに窘められて、ローラは舌を出した。子爵令嬢と聞いたが、良い意味でまったくそれらしくない気さくさがある。


「ローラは俺の幼馴染みたいなものだな。塔に囚われていた時から、フェルンハイム子爵家は俺の援助をしてくれていた」


(信頼できる味方ではあるのだが……いかんせんおしゃべりなところが玉にきずだ。そのせいで嫁の貰い手がいない)


 あんまりなヴィルヘルムの内心の評価に、イリーナはポカンとしてしまう。


「食事の用意をしたらさっさと出て行け」


「はいはい。早く二人きりになりたいですもんね~? 鶏肉の骨抜きもしておきましたよ!」


「余計なことを言うな」


 ヴィルヘルムが頭を抱えている間に、手早く机の上に食事をセットしてローラは出て行ってしまった。


(陛下にあんなに親しげにしている令嬢がいらっしゃったなんて……)


 軽口を叩き合えるような関係のようだ。そんな相手が彼にもいることに安心感を抱くのと同時に、わずかに胸の中がモヤっとした。


「食事をしよう」


 そうヴィルヘルムに言われる。

 ベッドの上にいたイリーナはそちらに向かうために手探りで立ち上がろうとしたが、ヴィルヘルムの声に制止される。


「待て。俺が運ぼう」


(えっ?)


 イリーナは混乱して顔を朱に染める。


「あの、そんな……お気遣いなく。陛下のお手を煩わせるわけには……」


「気にするな。俺がしたいからやっているだけだ」


 そう言って、ヴィルヘルムはイリーナを抱き上げた。ふわりと軽々と席まで移動させられて、イリーナは身を縮ませた。あまりにも甲斐甲斐しく世話を焼く彼に困惑する。


(皇帝陛下にこんなことさせてしまって良いの……⁉)


 しかしこんなにも宝物のように扱われたことがなかったイリーナは密かに喜んでしまう己を抑えきれなかった。

 椅子に座ると、ヴィルヘルムがスプーンとフォークの位置を教えてくれる。


(食べやすいものばかりだわ……)


 手で千切れるパン、スープは大きめのコップに入れられている。お肉は一口サイズに切り分けられ、イリーナでも難なく食べることができた。

 皿に注がれたものをスプーンですくったり、大きな肉をナイフで切ったりと、上品なテーブルマナーを必要としない料理は、ヴィルヘルムや侍女のローラ、それに厨房の人達からの気遣いを感じさせるものだった。

 その心遣いに目にじんわりと熱いものが込み上げてくる。己がこんなにも人の温かさに飢えていたのだと初めて思い知った。


「どうして泣く? 料理が気に入らなかったか?」


 戸惑うようなヴィルヘルムの声に、イリーナは頭を振って目頭を押さえる。


「いえ……こんなに優しい世界があったんだなと思って。とても美味しいです。ありがとうございます」


「……これからは、いくらでも温かい料理を用意してやるから」


 そう言って、隣に座っていたヴィルヘルムがイリーナの手を握った。普通なら向かいに座るものだが、いつでもイリーナを助けられるよう隣にいてくれているのだろう。


(イリーナを見ていると胸がぎゅっと苦しくなる。あまりにも可哀想で)


 ヴィルヘルムの心の声に、イリーナは固まる。同情されていることが分かり、居たたまれなくなった。


(本当は予言のことを聞きたいが……『無理に秘密を暴いたりしない』と約束してしまったからな。仕方ない。病のことだけ聞くか)


 ヴィルヘルムの心の声に、イリーナはハッとして顔を上げる。


「ところで、お前の持病とはどんな病だ?」


「それは……徐々に体が動かなくなるものです。前例はほとんどないとマティアス先生も言っていました」


 余命一年なことはさすがに告げられなくて、そう言葉をにごした。


「マティアス?」


「伯爵家の主治医です。昔から私によくしてくださっています」


 そう言うと、なぜかヴィルヘルムは押し黙ってしまった。

 イリーナは『マリアンネの手記』を思い浮かべる。イリーナと同じ症状になったことがあるのは、おそらく先祖のマリアンネくらいだろう。

 今は手記はマティアスが何か確認したいことがあるというので、彼に預けてある。


(いつか本を返してもらわなきゃ)


 あの本はどうしても手元に置いておきたい。たとえイリーナにはもう読めなくても、そばにあると心強かった。


「なるほど。それではそのマティアスという医師を皇宮に呼び寄せよう。どちらにしても、お前に主治医をつけようと思っていたからな。知り合いの方が心強いだろう」


 そう言われて、イリーナは顔をほころばせる。


「ありがとうございます!」


(面白くないな)


「え……?」


 イリーナの口から戸惑いの声が漏れる。ヴィルヘルムは口を開いていないのに、イリーナが心の耳を閉じても聞こえてしまうほど大きな不満のようだ。


(そのマティアスという男、イリーナとどんな関係だ? イリーナにこんな表情をさせるなんて……どうやら親しい関係のようだが)


「えっと、マティアス先生は年も離れていますし……尊敬する兄のような存在で」


 勝手に言い訳をしてしまう。イリーナの能力に気付かれてしまう危険があるから、本当は心の声に反応はしてはいけないことは分かっている。だが無視することができなかった。


「そうか」


 イリーナの言葉に、ヴィルヘルムは笑み崩れる。


(俺の気持ちを察して先に言うなんて可愛いらしいな。押し倒してしまいたいが、さすがに体の弱いイリーナに無理をさせるわけにはいかないか……)


 残念そうな心の声が聞こえてきて、イリーナは『押し倒す』の意味が分からず、きょとんとする。

 しかし、しばらく考えてから意味に気付いて狼狽して顔を真っ赤にした。


「なっ……」


(そうか。結婚するということは、そういうことを……⁉)


 性の知識があまりないため、完全に頭から抜け落ちていた。ヴィルヘルムが自分に対してそんな欲を持つとは予想しておらず、まったく気持ちの準備はしていない。


「どうした?」


「あ、いえ……だっ、大丈夫です。すみません……っ」


 イリーナは胸を押さえながら、どうにか動揺を隠しつつ答える。

 心を読んでしまったことを知られまいと誤魔化すのに必死だった。 


(少しくらいならしても良いか医者に聞いてみるか?)


 ヴィルヘルムのその心の声に、


(全然良くないです!)


 イリーナは心の中で、そう叫んだ。

 旧知のマティアスにそんなことを聞かれたら、イリーナは恥ずかしさで憤死してしまうだろう。マティアスだって返答に困るに決まっている。

 イリーナの虚弱な体は、おそらくヴィルヘルムを受け取れきれない。それに余命のこともあるのだ。体を重ねてしまえば、ますます未練が残ってしまう。


(……こんなにドキドキさせられているんだから、これ以上されたら身も心も持たないわ)


 心臓に悪いから今後はできる限りヴィルヘルムの心の声は聞かないようにしよう、と誓う。

 だが、ヴィルヘルムのイリーナを愛する気持ちが大きすぎて、心の耳をふさいでも何もかも聞こえて困ることになるとは──この時のイリーナは予想もしていなかった。

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