第11話 契約結婚

 イリーナが目を覚ますと天蓋付きのベッドの上に寝かされていた。

 アイゼンハート邸ではかつては物置だった狭い部屋で眠っていたイリーナは、ふかふかのベッドの感触に目を丸くする。

 その時、ガチャリとドアが開いて誰かが部屋に入ってきた。


「目が覚めたか?」


 そのヴィルヘルムの声を聞いて、イリーナは飛び起きた。


(陛下!?)


 慌ててベッドから降りようとしたのだが──。


「……っ!」


 足がもつれて床に倒れ込んでしまう。目が見えないために距離感が掴めず、ベッドの端から転げ落ちてしまった。


「大丈夫か⁉」


 ヴィルヘルムは慌てて駆け寄り、イリーナを抱き起こす。


「怪我はないか?」


 彼はそう聞きながら、イリーナをゆっくりとベッドに座らせてくれた。ヴィルヘルムも隣に腰掛ける。


(ここはどこ……?)


 混乱する頭で必死に考えていると、ヴィルヘルムの手が優しくイリーナの頬に触れた。


「心配しなくても良い。ここは皇宮の客室だ。もうここにはお前を傷つける者はいない」


 その言葉に、イリーナは息を吞んだ。


(そうだ、私は……)


 気を失う前の出来事を思い出した。

 伯爵邸で父親から首を絞められて手を上げられそうになったところをヴィルヘルムが助けてくれたのだ。


「あっ、陛下! 義姉が陛下に熱い紅茶をかけたと、おっしゃっていましたが大丈夫ですか!?」


 気絶する前に彼が言っていたことを思い出し、イリーナは青ざめる。しかしヴィルヘルムは緩く首を振った。


「ああ。すぐに拭いたからな。熱湯とは言ったが思ったほど熱くはなかったから、少し赤くなっただけだ」


「……申し訳ございません」


「お前が謝ることじゃない」


 そうは言っても、イリーナは伯爵家の娘として責任を感じずにいられなかった。


「気にするな」


 そう言ってヴィルヘルムはくしゃりとイリーナの髪を撫でまわした。


「……私、せっかく陛下からいただいたドレスも義姉に取られてしまって……」


 暴言には慣れているが、父親に殴られそうになったことはかなり堪えていた。大切なドレスを奪われたことも。

 思い出して目を潤ませるイリーナに、ヴィルヘルムは優しい声音で言う。


「いや、気にしなくて良い。ドレスなんて、また作らせる。どんな物が良いか分からなかったから、お前の希望を聞いてもっと似合う物を作らせようと思っていたんだ」


 イリーナはハッとして顔を上げた。気を遣わせまいとする彼の優しさに、じんわりと胸にあたたかな熱が広がる。

 その時、喉にピリリとした痛みを感じた。手を這わせると何か包帯のようなものを巻かれているのを感じた。手当してくれたのだろう。


「イリーナをこんなに傷つけるなんて、本当に許しがたい。あいつは父親失格だ」


 手厳しいヴィルヘルムの声に、思いやりを感じた。


「……助けてくださって、ありがとうございます」


 イリーナは深く頭を下げる。

 もしヴィルヘルムが来てくれなかったら、どうなっていたか。想像するのも恐ろしかった。


「気にしなくて良い。こちらこそ、お前の予言のおかげで命を救われた。そのお礼をさせてくれ」


「お礼だなんて……私は大したことをしていませんから」


 固辞しようとしたイリーナの両手をヴィルヘルムはつかむ。


「皇帝の命を救ったことが大したことじゃないなら、いったい何がすごいことなんだ?」


 そう冗談めいた口調で言う。

 戸惑うイリーナにヴィルヘルムは続けて言った。


「先ほど伯爵邸では、お前を助けなければと焦って強引に連れ出してしまって、すまない。だが、あの家にいることはお前のためにならないと思う」


 イリーナは押し黙った。


(彼の言う通りだわ……)


 分かってはいたが、この不自由な体ではイリーナには今までどうすることもできなかった。


「だからお前を俺の元で保護したい。許してくれるか?」


 ヴィルヘルムの申し出に、イリーナは息を飲む。

 とても嬉しいけれど、イリーナはそれだけの恩に報いることはできない。誰かの介助なしに生活できないほど不自由な身の上なのだ。足手まといになってしまう。

 イリーナは唇を噛む。


「許すだなんて……どうして私に許可を求めるのですか? 何でも好きにできる立場なのに……」


「もちろん立場を利用すればいくらでも命じることはできる。だが、お前の意思を無視したくない。そんなの当たり前のことだろう?」


(当たり前……?)


 ふと父親の姿が脳裏に浮かんだ。一度だってイリーナは自分の意見を聞き入れてもらったことはない。だから最初から色んなものを諦めてきた。

 ──ヴィルヘルムはイリーナの気持ちを尊重してくれる。

 そのことに胸がジンと沁みた。


(もちろん部下には俺も遠慮なく命じるが)


 付け足されたヴィルヘルムの心の声に、思わずイリーナに笑みが漏れた。


「ようやく笑ってくれたな。ずっと硬い表情をしていたから心配していた」


 イリーナは目を丸くした。


「陛下……」


「焦らなくて良い。ゆっくり考えてくれ。無理強いはしたくないからな。もしも俺のそばにいたくないなら、他に安全に過ごせる住まいを用意しよう」


(寂しいが、イリーナがそれを望むなら仕方ない)


 そうヴィルヘルムの悲しげな心の声が聞こえてきて、イリーナは慌てた。


「いえ、そんな……! わ、私も陛下と一緒にいたいと思っていたので……!」


 思わず口をついて出てきてしまい、その言葉の大胆さにイリーナは焦った。


(これではまるで告白だわ……)


 顔面が熱を帯び、涙目になってしまう。


「違うんです。変な意味じゃなくて……っ」


(私なんかに好意を寄せられても陛下は迷惑に決まっているし)


 そう思い、急いで否定したのだが──。


(可愛いな。結婚したい)


「わっ、え……?」


 ヴィルヘルムの心の声が突如聞こえてきて、イリーナは硬直してしまった。

 彼が自分のような貧相な女に対してそんなことを思うはずがない。だから空耳だと思おうとしたのだが──。


(イリーナには何でもしてやりたいと思う。自分がこんなに世話焼きだとは知らなかったな)


「そ、へ……? え……?」


 聞き間違えようがないほどヴィルヘルムの心の声は甘くて。


(──なるほど。そうか、これが好きという感情か。俺にもそんな人並みの心があったとは……そうと分かればやることは一つだな)


 ヴィルヘルムの中でどんどん話が進んでいて、イリーナはその思考の速さに付いていけず混乱した。

 少し緊張した様子でヴィルヘルムは言う。


「イリーナ、俺は独身だ。皇宮にお前を預かるとなると、周囲にどんな噂を立てられるか分からない。お前にも迷惑をかけてしまうかもしれない。だから──いっそ俺と結婚してくれないか?」


「……けっこん?」


 イリーナは頭が真っ白になってしまう。


「ああ。いきなりそんなことを言われても困るだろうな。素顔も見せないこんな怪しい仮面の男に求婚されてお前も困惑するだろうが……」


 なぜかやたらに早口のヴィルヘルム。


「いっ、いえ、私は目が見えないので、どちらにしても陛下のお顔は分かりませんが……」


 イリーナは朱に染まった頬を両手で押さえた。


(どうしよう……とても急に言われたことだけれど……嬉しい。こんな素敵な人が私と結婚したいと言ってくれるなんて。夢みたいだわ……)


 込み上げてきたのは喜びだった。

 しかしイリーナは自分の境遇を思い出して頭が冷えていく。

 イリーナは一年以内に亡くなることが決まっている。徐々に体が動かなくなり、最後には死を迎える。結婚なんて、できるはずがない。


(こんな身では、陛下に迷惑をかけてしまう……お別れが辛くなるだけだわ。お断りしなきゃ……)


 胸が痛かったが、後でお互いにもっと傷ついた別れ方をするよりマシだ。

 皇帝である彼の貴重な時間を余命わずかなイリーナのために使わせる訳にはいかない。

 イリーナは苦しい気持ちを押し隠して、拳をギュッと握りしめて言う。


「ごめんなさい……」


「なぜ断る? さっきは一緒にいたいと言ってくれたのに」


 先ほどうっかり本音を漏らしてしまったことで逃げ場がなくなっていた。


「その……一緒にいたい気持ちは嘘ではありませんが、陛下のことはまだよく知りませんし……好きかどうかも分かりません」


 嫌いだとはさすがに言えなくて、そう誤魔化した。心とは裏腹なことを口にしてしまえば、ますます彼への気持ちが明確になってしまいそうで。


「好きかどうか分からないと? 自分がどんな顔をしているか分からないのか? ずっと真っ赤になっているのに」


 そう言って頬の線をなぞられて、イリーナは息を飲んだ。


「あ……っ」


 指摘されると、ますます恥ずかしくなってくる。自分がどんな顔をしているのかは見えなかったが、きっと説得力のない表情をしているのだろう。


(私は、陛下のことが好きだ……)


 そう自覚した。だが最初から終わっている恋だ。こんな体で──余命が一年で、好きだと告白することはできない。


「でも私は目も見えませんし、足も悪いです。これから持病も悪化していくと医師に言われていますし……おそらく短命でしょう。陛下の足を引っ張ることはできません」


 心読みのことや余命のことはさすがに言えなくて、そう言葉をにごした。

 だが──。


「そんな理由で俺の求婚を跳ね除けるつもりか?」


 不穏な空気が漂ってくる。


(そんなって……)


 皇帝の求婚を断るには十分すぎる理由だろう。こんなイリーナではきっと周囲の者達も納得しないはずだ。『もっとふさわしい令嬢がいる』と非難されるに決まっている。


「陛下、私は……」


 どうあっても否定の言葉にしかならない。言い繕うことができずに口ごもる。


「それは認められない。お前が俺のことを嫌いな訳ではないのなら、俺がお前を諦める理由にはならない。たとえお前の足が悪かろうと目が見えなかろうと持病があろうと短命だろうと関係ない。俺は皇帝だ。世界中の名医を集めて、お前の病を治してやる。何も心配するな」


 そう力強く言って手を握ってくれるヴィルヘルムに驚き、イリーナは大きく目を開いた。

 この病魔の進行は『心読み』の代償だ。彼や医者にどうすることもできない。それでも彼の気持ちが嬉しくて、自然とイリーナの瞳に涙がにじむ。


「周囲の者達にも絶対にお前を悪く言わせない。そんなことを言う奴がいたら首を刎ねてやる」


 そんな物騒なことまで口にするヴィルヘルム。

 イリーナはさすがに冗談だと思って笑みを漏らしたが、ヴィルヘルムは実は本気だった。


「俺に猶予をくれないか? 俺と結婚して、それでも俺のことを好きになれなかったら離縁してくれて構わない」


「しかし、それは……」


 顔を歪めるイリーナの手をぎゅっとヴィルヘルムは握りしめる。


(頼むから断らないでくれ。初めての告白なんだ)


 ヴィルヘルムの心の声の切実さにイリーナは凍りつく。


(イリーナ)


 ビクリとイリーナは肩を揺らした。


「あ……」


(私も陛下と一緒にいたい……)


 そんな気持ちがどんどん膨らんでいく。

 死を迎えるその時まで、好きな人と一緒にいられたらどんなに幸せだろう。それはとても贅沢なことに思えた。イリーナのこれまでの辛かった人生も無駄ではなかったと思えるかもしれない。


(良いのかしら……? 一生に一度だけ、我儘になっても……)


 この選択が、いつか彼を傷つけるとしても。

 それでも繋がれた温かな手を振り払うことはできなかった。

 イリーナは深呼吸してから言う。


「それでは一年間……一年間だけ、私と契約結婚してくださいませんか? その間に、もし私が離婚したくなったら、いつでも契約を解消できること。それを条件にしていただけるなら……お受けします」


 それならイリーナの死期が近付いた時には離縁して、密かに遠い地に移り住み、死ぬこともできるだろう。


(本当の気持ちは伝えることはできないけれど……)


 けれど死ぬ前に人を愛することができて良かった。これはきっと最期を迎えた時にイリーナへの慰めになる。

 ヴィルヘルムは微笑んだ。


「それで構わない。必ずお前を振り向かせてみせるから」


 イリーナは寂しく微笑む。

 もう心は彼に奪われてしまっていることを自覚していたから。

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