第10話 保護

 イリーナは何も見えない視界を手探りで進み、厨房へと向かった。

 最近はマティアスが運んでくれた食事を部屋で取ることが多くなっていた。しかし今日は彼はどうしても外せない用事があるらしく、朝から席を外していた。


(マティアス先生にお世話になるばかりではいけないわ。自分のことは自分でできるようにならないと……)


 そう思い、イリーナは壁伝いに厨房にやってきたのだ。扉越しに楽しげな会話が聞こえてきたが、イリーナが厨房に入ると声はピタリと止んだ。

 気配から、厨房にいるのは三人のようだ。料理長とメイド二人だろうか。


「食事をもらいたいのだけど……少しパンと果物を分けてもらっても良いかしら?」


 イリーナはそう言って机の上に手を伸ばす。いつもだったらそこにパンが置いてあるはずだ。しかし、机の上を探してもそれらしきものはない。


「スープならあるから持っていけ。そこの鍋だ」


 そう料理長らしき男性から言われ、イリーナは安堵に頬を緩める。


「ありがとう」


 それはおそらく使用人用に大鍋で作られたものなのだろう。とても熱くて、目が見えないイリーナには器にすくうこともできなかった。下手をしたらぶつかって大鍋をこぼして火傷を追ってしまうだろう。


「だれか……」


 そう助けを求めかけたが、イリーナはすぐに口を閉じた。使用人達は義母からイリーナに手を貸さないよう命じられているのだ。イリーナの『心読み』の力がなくなると困るから、医師のマティアスの補助だけは許しているが、義母はイリーナに親切にするつもりがない。

 空腹で辛かったが、イリーナは一つ息を吐いただけで食事を諦めた。


(何も自分でできないなんて……)


 どんどん動かなくなる体。見えない目。誰かの助けがなければ生きられない己が情けなくて恥ずかしかった。

(私の命はもう少しで終わるから……)

 せめて最後は誰かの役に立って死にたい。その時、何故か思い出したのは皇帝ヴィルヘルムの優しい声と手だった。

 廊下から慌ただしい足音が聞こえてくる。


「イリーナ! どこにいる!?」


 アイゼンハート伯爵の声だった。


(お父様?)


 イリーナは驚いて、物を倒さないように慎重に厨房から廊下に出た。

 すると伯爵はイリーナの姿を遠くから見つけたらしく、走ってきてイリーナの襟首をつかんだ。


「お前……ッ! いったいどんな手を使って皇帝をたぶらかした!?」


「お父様、痛い……」


 シャツの襟首が締まり、布が皮膚に擦れて痛みが生じる。振り上げられた手がイリーナに襲い掛かろうとして──。


「何をしている」


 その時、地を這うような低い声が降ってきた。


(え……? この声は……)


 聞き覚えのある男性の声に、イリーナは目を見開く。間もなく伯爵の手が離れてイリーナは床に尻もちをついた。


「陛下、これは……! その……」


 慌てたように伯爵は弁解しようとしたが、ヴィルヘルムはイリーナに手を差し出した。


「立てるか?」


「あ……はい」


 イリーナがおずおずと手を差し出すと、大きな手にしっかりと握りしめられる。そしてヴィルヘルムは軽々とイリーナを横抱きに抱き上げた。


(え……?)


 困惑するイリーナをよそに、ヴィルヘルムはそのまま伯爵に向かって言う。


「イリーナは私が保護する」


「そ、そんな……! 陛下といえど何の権限があって……」


 唾を飛ばしながら捲し立てる伯爵に、ヴィルヘルムは凍えるような声で言う。


「お前達がイリーナを虐待している証拠は押さえてある。これ以上、私の機嫌を損ねるな」


「虐待!? ま、まさか、そんな……! デタラメです! 私達はイリーナを愛してます! 連れて行かないでください……っ」


 伯爵がそう叫んだ瞬間、ヴィルヘルムの纏う空気が一気に氷点下まで下がった。その殺気にあてられ、伯爵は真っ青になって口を閉ざす。


「ならば、どうしてこんなにイリーナはやせ細っている? 目が見えず足も悪いのに侍女もつけられていないのは何故だ?」


「それは……」


 続く言葉が出て来ない伯爵に、ヴィルヘルムは言った。


「これ以上不服を申し立てるなら、先ほどビアンカが私に熱い紅茶をかけたことを不敬罪に問おう。お前達夫婦には追って沙汰を申し渡す。伯爵家の領地と爵位を没収になるだろうな」


「そんな……! どうかそれだけはお許しください……‼」


 跪くアイゼンハート伯爵と義母クララ。呆然と成り行きを見つめているビアンカ。


「イリーナは私が預かる。異論はないな?」


「はい……」


 力なくうなだれるアイゼンハート伯爵家の人々。そんな彼らに背を向けて、ヴィルヘルムはイリーナを抱いて歩き出す。


(どうして陛下がここに……?)


 目が見えないので顔はわからないけれど、声と気配でわかる。ヴィルヘルムだ。先ほどから心臓がうるさいくらいに鳴っている。

 なぜヴィルヘルムがイリーナの境遇を知っているのか。だが今のイリーナにはそれを考える余裕もなかった。抱き上げられたことでヴィルヘルムの体温を感じ、緊張が解けて意識が朦朧としてきたのだ。


「イリーナ?」


 ヴィルヘルムの呼びかけに答えようと口を開いたが声が出ない。


(助けてくれて、ありがとう……)


 そう言いたかったのに──イリーナはそのまま意識を失ってしまったのだった。

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