第9話 ヴィルヘルムから見たイリーナ
皇帝ヴィルヘルムは政務室で書記官からイリーナからの御礼状を受け取り、首を傾げる。
「アイゼンハート伯爵は何を考えているんだ? ビアンカを俺に勧めてくるなんて……」
アイゼンハート伯爵の名前でドレスのお礼が書かれている。深窓の令嬢ならば保護者が代筆で御礼状を書くのは珍しいことではない。その上、イリーナは目が見えないのだから当然だろう。
それにしても、イリーナに贈り物をしたにも関わらず、やたらに『陛下はきっと気立ての良い姉のビアンカをお気に召すに違いありません。一度、ビアンカを陛下にお目通りいただきたく……』と書かれており、イリーナのことには最初の一行しか触れていないのが気にかかった。三ページに渡る手紙のほとんどがビアンカに関することだ。ビアンカはどんな色が好きでどんな趣味で、社交界でも色んな男性に声をかけられているが陛下が最もお似合いだと思う等……。暑苦しくて仕方ない。
今年皇帝の筆頭書記官になった二十歳の黒髪青目のハンスは眉をひそめて言う。
「もしかしたら、イリーナ様は伯爵家であまり大事にされていないのかもしれません。伯爵家の娘とはいってもメイドの愛人の子供ですから。正妻の子供を勧めるのは当然でしょう」
「……そうか」
ヴィルヘルムは表情を歪めた。
(あまりにもイリーナが哀れだ)
伯爵家に生まれながら不具な身の少女が、いない者のように扱われる──よくある話と言えばそうなのかもしれない。だが皇子として生まれたために幼少期を塔に押し込まれ、さらに美しすぎる容姿のせいで周囲に振り回されてきたヴィルヘルムにとって、イリーナの境遇は他人事とは思えず胸が引き絞られる。
「イリーナの家庭環境を調べろ」
ヴィルヘルムがそう命じると、筆頭書記官ハンスは深々と礼をして政務室から去って行った。
(もしも不幸な境遇にいるなら助けてやりたい)
ドレス一着程度では皇帝の命の恩人に対しての礼には足りない。だが、それは言い訳でイリーナにもう一度会いたいというのが本音だった。
イリーナのことを思い浮かべると、何かしてやりたいという気持ちがどんどん湧いてくる。
それはヴィルヘルムにとって初めての経験だった。
◆
数日後、ヴィルヘルムにもたらされたのは予想以上に悲惨なイリーナの家庭環境だった。
(義理の母と姉にいびられ、父親からも蔑ろにされているとは……)
イリーナが生家で奴隷のように使われていることを知り、ヴィルヘルムは彼女を保護する決意を固めた。
伯爵家の使用人から密かに聞き取りを行ったその報告書には『イリーナは周囲の感情の変化に敏感で、その能力を買われて家族に連れ回されている』と気になる一文もある。
(周囲の感情の変化に敏感……? 目が見えないから五感が発達しているのか?)
不具の者は別の器官が発達することがあるとヴィルヘルムも聞いたことがある。だから、そういうことなのだろうと納得した。
(だが目も足も悪い少女を外に連れ回すなど……)
皇宮に杖をついてきたイリーナの姿を思い出して顔をしかめる。それなのに家族は彼女を庭に放置したままパーティを楽しんでいたのだ。自分勝手にも程がある。
ヴィルヘルムはハンス筆頭書記官に向かって言う。
「アイゼンハート伯爵家に使者を出せ。すぐにイリーナに会わせろと」
「はっ? え……し、承知しました!」
ハンスは慌てた様子で政務室を出て行く。
氷の皇帝が少女に興味を示したと、今頃皇宮中が大騒ぎになっているのだろう。
何だか少しだけ可笑しくなってしまい、ヴィルヘルムは己の銀仮面を撫でた。
すぐさまヴィルヘルムは護衛をつれてアイゼンハート伯爵家に馬車を走らせた。玄関先で揉み手をしながら出迎えた伯爵夫妻にヴィルヘルムは「イリーナに会わせろ」と告げる。
「す、すぐに用意させますので、庭園のガゼボでお待ちください。お茶の用意を整えてありますので!」
「いや、そんなものは良いから早くイリーナを──」
ヴィルヘルムが難色を示すと、青ざめた伯爵の揉み手がさらに速くなる。
「今日は天気が良いので外が気持ち良いですよ! あの子も外にいるのが好きなんです。そっそれにイリーナは目も足も悪いから支度に時間がかかりますし……」
(そうか……なら無理はさせられないな)
イリーナの体のことを考えると、ヴィルヘルムもあまり強くは出られない。
(初めて出会った日も日向ぼっこをしていたな……)
木漏れ日を感じてうっとりと目を閉じていた彼女の姿を思い出し、ヴィルヘルムは相好を崩した。──勿論その珍しい表情の変化は仮面で誰にも気付かれなかったが。
「ならば待とう。焦らなくて良いからゆっくり支度をして来てくれるよう伝えてくれ」
そうヴィルヘルムが言うと、伯爵は首振り人形のようにコクコクと首を縦に振った。
庭園にある白いガゼボに案内され、間もなくティーセットが運ばれてきた。春を過ぎて初夏に差し迫る今は、花壇にあるピンク色のアトランティアの花が目に美しい。
(イリーナの瞳はもっと深いクランベリー色だったか)
しばらくの間、ヴィルヘルムは光を映さない彼女の瞳を思い浮かべていた。
(なぜ彼女のことが気にかかるのか……あの日から気が付けばイリーナのことばかり考えているような気がする)
目や足が悪いから、目の前にいたら助けてやりたいと思うのは自然なことかもしれない。
だが、そばにいなくても気になってしまうのだ。
あの全てを見通しているかのような預言者めいた神秘性と、浮世離れした雰囲気。それなのに一人では歩くこともままならないほど不自由な体。ふと見せる達観しきった弱々しい微笑みと、時折見せるヴィルヘルムへの気遣い。それに内から溢れる優しさ。そのアンバランスさに、妙に惹きつけられる。
ふと邸の方から一人の女性が近付いていることに気付き、そちらに顔を向ける。そこにいたのはビアンカ・アイゼンハート伯爵令嬢で、怯えたような表情でヴィルヘルムの覚えのあるクランベリー色のドレスをまとっている。ガゼボのそばに立っていた護衛が警戒するような眼差しをビアンカに向ける。
「どうしてお前がそれを着ている?」
ヴィルヘルムが低い声で問いかけると、ビクリとビアンカは肩を震わせた。すぐに取り繕うように引きつった笑みを浮かべる。
「あの子が『私には似合わないから』って私にくれたんです。でも実際私の方がこのドレスは似合ってますし。イリーナの代わりにお礼を申し上げたくて──」
「そんなことは聞いていない。お前に用はないぞ。俺はイリーナに会うために来たんだ」
そう言って立ち上がったヴィルヘルムに、ビアンカは慌ててティーポットを手に取って言う。
「つれないことをおっしゃらないで。どうか一杯だけでもご一緒してくださいまし」
(父親に命じられて来たのか?)
どう見てもビアンカはヴィルヘルムに恐れを抱いている。血も涙もないと噂の皇帝で、不気味な銀仮面をつけている男に愛想笑いをしている姿はいっそ哀れだった。父親に皇帝を陥落しろとでも命じられて渋々やってきたのだろう。
内心舌打ちしたヴィルヘルムがどうするか迷っていると、ビアンカはヴィルヘルムに近付いて空のカップに紅茶を注ごうとし──己のドレスの裾につまずいてしまった。
「あっ!」
宙を飛んだティーポットの中身の熱湯がヴィルヘルムの頭にかかり、ポットが地面に落ちて粉々になった。
「……っ」
熱さにヴィルヘルムは顔を歪める。
「陛下、ご無事ですか⁉」
慌てた様子の護衛がヴィルヘルムにハンカチを差し出し、ビアンカを睨みつける。ビアンカは真っ青な顔でブルブルと震えていた。
「す、すみません。そんなつもりじゃ……っ」
ヴィルヘルムは仕方なく仮面を外して、隙間から顔に流れてきた紅茶をぬぐった。表面の汚れ程度なら気にしないが、さすがに熱湯をかぶってしまったら頭と顔を拭かないわけにはいかない。
「お怪我は?」
「大丈夫だ」
そんなヴィルヘルムと護衛のやり取りをしているさなか──。
「は? え……? な、なにその顔……」
首まで真っ赤に染まったビアンカがそう声を上げた。彼女はその場に座り込んで放心したようにヴィルヘルムを見つめている。
どうやらあまりの彼の美貌に腰が抜けて動けなくなってしまったらしい。
(しまった。こうなるから素顔を見せたくなかったのに……)
ヴィルヘルムは苦々しい気持ちで護衛から新しい銀仮面を受け取り、即座に装着した。
できる限り素顔を見せないように生活していたのに、おしゃべり好きそうなビアンカに見られてしまったのは失態だった。
「……陛下がそんなに麗しいご尊顔をなさっていたなんて……この世の者とは思えないほどの美貌だわ……」
呆然とつぶやくビアンカに、ヴィルヘルムは冷たい眼差しを向ける。
「忘れろ。このことを誰かに言えばお前の命はないと思え。紅茶をかけたことは不問にしてやる」
そう言ってヴィルヘルムは邸の玄関に向かう。ビアンカとのお茶の時間に付き合う義理もない。
「そんな……ま、待って!」
熱に浮かされたようなビアンカが手を伸ばそうとしてきたが、ヴィルヘルムは無視して玄関に入っていった。
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