第6話 予言

「どうした?」


 ヴィルヘルムの問いかけに、イリーナは「いえ……」と首を振り、少し考えてから「お飲み物が欲しくて……」と言った。


「何を飲む? 何でもあるぞ」


「それでは林檎を絞ったものをお願いします」


 イリーナがそう遠慮がちに言うと、ヴィルヘルムが従者に持ってくるよう指図した。従者が恭しくうなずいて去って行くのを、イリーナは気配で感じてホッと息を吐く。


「イルゼ様……?」


 思わず口から戸惑いの声が漏れてしまった。

 ヒャーマン侯爵夫人はヴィルヘルムの祖母であるシルヴィアの娘で、皇帝の彼とは遠い親戚だ。イリーナはそこまで皇族の事情に詳しくないから、そのくらいしか知らない。

 ヴィルヘルムが不思議そうに眉をひそめた。


「イルゼがどうかしたのか?」


「い、いえ……」


 イリーナは慌てて首を振る。

 ヴィルヘルムは即位前に皇妃や兄弟達を屠ったが、己の後ろ盾となってくれた祖母シルヴィアには気を遣ったらしい。シルヴィアの娘であるイルゼやその夫、子供達とは敵対していなかったこともあり、何もしなかった。今のところ残った皇族は遠い血筋の彼らだけだ。

 つまり、今ヴィルヘルムがいなくなればこの国の帝位は彼らの元へ与えられるということであり──。

 その想像に、イリーナは縮み上がる。即位したばかりのヴィルヘルムの地位は盤石ではないのだ。

 イリーナは恐る恐る尋ねる。


「あの従者の方は、イルゼ様と何かご関係がありますか?」


「レオンハルトのことか?」


 ヴィルヘルムは驚いたような声を出して、仮面を撫でながら言う。


「そうだな……確かにレオンハルトはシルヴィアおばあ様の紹介で従者になった。元はシュタイヒャーマン侯爵家──イルゼの実家の使用人だったと聞いたが」


 ますます悪い想像が膨らんでいく。

 イリーナの顔が強張ったのを見て、ヴィルヘルムは再び訝しげな顔をした。


「なぜそんなことを聞く? 何かあったのか?」


(正直に話すべきかしら……)


 たとえ言ったとしても信じてもらえるかどうか。それにどうしてそんなことを知っているのか不審に思われてしまうだろう。心読みの力は秘密にしなければならない、と父親からきつく命じられている。


(でも彼が殺されてしまうかもしれないのに……それを知って黙っていることなんてできない)


 イリーナはまさかここまで大事になるとは想像もしていなかった。ただ、何かヴィルヘルムにプレゼントするために彼が欲しがっているものを知ろうと、何か些細なヒントがないか周囲を探ろうとしただけだ。それが、まさかこんな暗殺計画を知ってしまうことになるなんて──。

 少し離れたところにいる使用人のレオンハルトの方に意識を向ければ、さらに彼の『心の声』が聞こえてくる。


(決行は今晩だ。賊が侵入したと見せかけて、ヴィルヘルムが眠る前に毎晩飲んでいるミルクに毒を盛ってやる。あの男はホットミルクがないと眠れないからな。もう一生目覚めることのない夢を見るが良いさ)


 その声を聞いてイリーナは心を決めた。


「陛下」


 イリーナは決意に満ちた眼差しでヴィルヘルムに顔を向けた。その真剣な表情に、ヴィルヘルムが目を丸くする。


「どうか私がこれから申し上げることを真剣に聞いていただきたいのですが」


「申し上げること?」


(いったい何を言うつもりなんだ?)


「はい。今晩陛下が飲まれるミルクには毒が盛られるでしょう」


(毒?)


 ヴィルヘルムは凍りついた。


「何故そんなことが分かる? まさかお前が……」


「いいえ。私は犯人ではありません。犯人は……」


 イリーナが従者の方へ引きつった顔を向けた。それでヴィルヘルムも犯人を察したらしい。


「レオンハルトが?」


「はい……あの、信じてくださいますか?」


 イリーナは怯えつつ尋ねた。


(もしかしたら皇室侮辱罪で捕らわれてしまうかも)


 本気にしてもらえないかもしれない。からかわれたと思って怒るかも。

 今日会ったばかりのイリーナより従者の方を信じる方が自然なのだ。

 イリーナはぎゅっとスカートを握りしめた。

 顔を伏せて押し黙るイリーナを見て何を思ったか、ヴィルヘルムは「ふむ……」と顎を撫でた後に言った。


「分かった。心に留めておこう」


 イリーナは弾かれたように顔を上げる。


「信じてくださるのですか?」


「半信半疑ではあるが。お前が嘘を吐く理由もないからな」


 イリーナはほっと息を吐く。


(これがお礼になれば良いんだけど)


「だが、どうしてそんなことを知っているのか理由を聞いても?」


 ヴィルヘルムの静かな問いかけに、イリーナは口ごもる。


「それは……言えません」


(さすがに能力のことは明かせないわ)


 父親にきつく言い含められているというのもあるが、『マリアンネの手記』にも秘密は守るべきだと書かれていた。そうしなければ悪い人に利用されてしまうと。

 皇帝が悪い人とはとても思えなかったが、彼の周囲の人は良い人とは限らない。どこから秘密が漏れるか分からないのだ。

 硬く口を閉ざしているイリーナに、ヴィルヘルムは「そうか」と頷いた。


「追求しないのですか?」


「興味はあるが、無理に秘密を暴こうとは思わないさ」


 その寛容な言葉に、イリーナは驚いた。

 今までイリーナの家族は、イリーナの隠し事を許さなかった。こっそりとイリーナに贈り物をする者がいたら『身分不相応だ』と花束も手紙も捨てられた。大事にしていた母親の形見のネックレスも奪われた。自分の意思で自由にできるものなど何もなく、イリーナ自身もそれは仕方のないことだと諦めてきた。

 けれど、この皇帝はイリーナの意思を尊重してくれたのだ。誰よりも強い権力を持ち、イリーナの意見など無視できるにも関わらず。

 それは決して少なくない衝撃をイリーナにもたらした。

 ──それと共にかすかな罪悪感も。


「あ、あの……」


 秘密を漏らしてはいけないというのに、ヴィルヘルムの前では口が緩みそうになる。

 その時、従者のレオンハルトが林檎ジュースを手に戻ってきた。

 イリーナは「ありがとう」と言ってそれを受け取り冷静になる。


(やっぱりダメよ。『心読み』の能力は知られてはいけないわ)


 そう思い直し、冷たいグラスを手で包み込む。

 ふとグラスに毒が入れられていないか気になったが、状況的にレオンハルトがイリーナに毒を入れる必要などないはずだ。


(これはきっと大丈夫)


 ここで騒動を起こしては今夜の警備も強化されて計画も狂ってしまうかもしれない。レオンハルトもそんなことをしたくはないだろう。

 イリーナはそう思い、安心してジュースに口をつけた。甘酸っぱい林檎の味が口の中に広がる。


「お前は不思議な女だな」


 ヴィルヘルムがそう言うのをイリーナは首を傾げて聞いた。イリーナからしたらヴィルヘルムの方が謎めいている。

 しばらくゆったりとした時間が流れたが、アイゼンハート伯爵が戻ってくるのを見てヴィルヘルムが舌打ちした。

 そして彼は「もし何か困りごとがあれば俺に連絡しろ」とイリーナに耳打ちして立ち上がる。


「陛下、イリーナがご迷惑をおかけしました」


「いや、なかなか面白い時間を過ごせた。イリーナ、ありがとう」


 伯爵の言葉に、ヴィルヘルムはそう言い残して去って行った。

 イリーナはぽっかりといなくなった前の空間に寂しさを感じつつ立ち上がる。父親が怒っているのが伝わってきた。


「帰るぞ」


 イリーナは腕を引っ張られ、伯爵に連れられて馬車に乗り込んだ。


「先に帰っていろ。まったく余計なことをしやがって。商談が台無しだ」


 そう吐き捨てて乱暴に扉を閉める。

 馬車はイリーナだけを乗せて動き出した。

 父親はまだパーティに参加するらしい。家族が同席しないことに安堵した。きっと帰宅後に叱られるだろうが、今だけは誰もイリーナを害する者はいない。


(陛下がご無事でいれば良いんだけど……)


 今夜の暗殺計画を阻止できると良い。そう切なる願いを込めて、両手を組んで祈りを捧げた。

 また彼に会ってみたいと、イリーナは思っていたから。


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