第4話 優しい人

「イリーナ! さっさと来い!」


 馬車からさっさと先に降りた伯爵夫妻とビアンカがイリーナを睨みつけている。

 イリーナは目が見えないため扉に手を這わせながら慎重に杖を頼りに階段を降りた。


(まるでおばあちゃんだわ……)


 膝や腕の関節の痛みもその感覚に拍車をかける。

 はぁ、とビアンカがため息を吐いて扇を広げた。


「あんなのが半分でも血の繋がった妹だなんて恥ずかしいわ。お父様ったら、わざわざパーティに連れてこなくても良かったのに」


 ビアンカの言葉に、アイゼンハート伯爵は困ったように整髪料できっちり整えた髪を搔く。


「仕方ないだろう。商談相手がパーティに参加するんだ。イリーナには役目を果たさせたら、すぐに馬車に戻すさ」


「それなら良いですわ。パーティ会場にイリーナが入ってきたら、皆その老婆のような姿に同情しまいそうですもの。会場には入れないでくださいませ」


 ビアンカはそう言った。


「おいおい。それじゃあどこで商談相手に会わせれば良いんだ」


 眉根を下げた伯爵に、伯爵夫人が嫣然と言う。


「別にイリーナを商談相手にご挨拶させる必要もないでしょう? 今までのように離れた場所で『心読み』をさせれば良いのですわ。ひと気のない庭園の草がけにでもイリーナを隠れさせておいて、あなたが商談相手をイリーナの近くに連れて行けばよろしいのよ」


「なるほど。それもそうだな」


 そういうやり取りがあって、伯爵夫人とビアンカは会場に向かった。

 イリーナは伯爵に手を引かれて薔薇園のガゼボ近くにある植木のそばに連れて行かれる。


「そこで身動きせず待っていろ。良いな」


 そう父親に命じられて、イリーナは頷いた。

 イリーナは木を背に座り込み、そっと目を閉じる。


(気持ち良い……)


 目が見えなくても陽の光は暖かく肌を撫で、小鳥の飛び交う心地よい声が耳をくすぐる。庭園から薔薇の香りがした。


(このまま……死ぬ時まで、こんな穏やかな場所で過ごせたら良いのに)


 ほんの少しだけそんなことを思ってしまって、すぐに頭を振ってその気持ちを搔き消す。


(できるはずがないわ。何よりお父様が許すはずがないもの)


「でも、せめて、あと少しだけ……このまま……」


 すぅと深呼吸して、そうつぶやいた時──。


「誰だ?」


 存外に近い場所から声が聞こえた。張りのある青年の声だった。


「あ……」


 まさか人がいるとは思っていなかったイリーナは慌てて立ち上がった。だがバランスを崩してその場に座り込んでしまう。


(杖はどこ?)


 そばに置いたはずの杖を探すイリーナに青年が声をかけてきた。


「おい、大丈夫か」


「はい……」


 イリーナの手が温かな手に包まれる感触があった。

「失礼」と言って、声の主はイリーナの手を軽く引っ張る。それだけで簡単にイリーナは立ち上がることができた。手を貸してくれた相手は腕力のある青年らしい。

 青年がイリーナの手に杖を握らせてくれた。


「……ありがとうございます」


 イリーナが遠慮がちに微笑むと、彼が少し驚いたような雰囲気が伝わってきた。


(どうしたのかしら……?)


「お前は?」


 よく響く心地の良い低音がイリーナに問いかけてくる。イリーナの手はまだ彼に繋がれたままだ。

 高い位置から声が降ってくるから背の高い青年だということは分かる。


(どうしよう……まだお父様もいらっしゃっていないのに)


 商談相手を連れてくるはずなのに随分時間がかかっている。草むらから逃げ出すなど勝手な行動をしては怒られてしまうだろう。だが伯爵家の娘として、おそらくパーティに招かれたであろう人物に無礼な真似はできない。

 イリーナはおずおずと自由になる片手でスカートの端を持ち上げた。


「アイゼンハート伯爵の末娘のイリーナと申します」


「伯爵の? 確か、アイゼンハート伯爵の娘はビアンカという名前だったような……」


 不思議そうにしている相手に、イリーナは思わず自嘲の笑みをこぼす。


「それは義理の姉です」


 その時、皇帝とは別の方向から、従者と思しき男の声が皇帝に向かって耳打ちするのが聞こえた。


「伯爵家のイリーナ嬢は病弱で、普段は社交界に出てこないという話です」


「なるほど……そういえば末娘は体が弱いと聞いたことがあるな。どうやら本当らしい」


 彼らの憐れむような視線を感じて、イリーナは居心地が悪くなる。どうしたものか迷い、軽く会釈をして立ち去ってから青年達がいなくなってから庭園に戻ろうかと考えていると──。


「お前、目が見えないのか」


(だから俺の姿を前にしても平然としていられるんだな)


 青年の生身の声と共に飛び込んできた『心の声』に、イリーナは硬直した。


「え……」


(俺の姿を前にしても……って……)


 嫌な予感が全身を襲った。見た目で相手に恐怖を与えるような──たとえば先ほど馬車の中で噂になっていた皇帝などでなければ、そんな台詞は出てこないだろう。


「まさか……ヴィルヘルム陛下ですか?」


 青ざめ震えながらイリーナがそう問いかけると、彼が首を傾げたような気配を感じた。さらりとした銀髪が銀仮面にかかる。その目元を彩るのは青空のような瞳だ。


「うん? ああ、名乗ってなかったな。そうだ、俺はヴィルヘルム・ハインツ・ローゼンシュタイン。一応、この国の皇帝をやっている」


 イリーナは一気に血の気が引き、慌ててその場に膝をつく。


「知らなかったとはいえ、ご無礼を」


「いや、気にしなくて良い。地面は冷たいだろう。立つんだ。俺は病人に身を屈ませる趣味はない」


 口調はそっけないが話している内容は優しい。

 ヴィルヘルムはそっとイリーナの手を引いて立ち上がらせてくれた。

 馬車の中からずっと身内の冷たい言動に耐えてきたイリーナは、思いがけないヴィルヘルムの優しさに、つい気が緩んでしまう。ポロリと涙がこぼれ、予想外の自分の体の変化に驚き、手早く目元をぬぐった。

 困惑しているヴィルヘルムの空気が伝わってくる。イリーナは何か言わなければと焦った。


「すみません、陛下の優しさに感動してしまい……」


「感動? 本気で言っているのか? こんなことで? 俺は人として当たり前のことをやっただけだと思うが……」


(当たり前のこと……?)


 イリーナはヴィルヘルムの言葉を反芻する。それがごく常識的な言動なのかすら、愛情を持って育てられたことのないイリーナには分からない。だがイリーナには彼が嘘を言っているようには思えなかった。


(冷酷非道な皇帝だなんて、やっぱり噂なんて嘘ばかりね)


「どうした?」


 急に黙り込んでしまったイリーナに、ヴィルヘルムが心配そうに問いかける。


「……いえ、なんでもありません」


 そう言ってイリーナはその場から立ち去ろうとしたが、ヴィルヘルムに止められる。


「どこへ行くつもりだ、そんな目と足で。行きたい場所があるなら連れて行こう」


 イリーナが足を引きずっていることも見抜かれてしまったらしい。ヴィルヘルムの声には気遣いがあった。

 慌てたのはイリーナだ。皇帝と従者を巻いて、彼らが立ち去った後にそっと元の場所に戻るつもりだなんて言えるはずもない。


「それは……」


 しどろもどろになっているイリーナに、ヴィルヘルムは察したように頷く。


「ああ、もしかして不浄処に行きたいのか?」


「えっ」


「よし、中までは一緒に行ってやれないが入り口まで運んでやろう。安心しろ、中では侍女に介助させる」


 そう言って彼はイリーナの体を抱き上げた。突然の行動にイリーナは驚いてしまう。


「えっ、あ、あの! 違います……! 別にお手洗いに行きたいわけじゃなくて……!」


 予想外の世話を焼かれそうになり、イリーナは大慌てだ。このままでは望んでいないトイレに運ばれてしまう。庭園が遠ざかるのは困る。目が見えないイリーナには一人で戻るのも大変だ。


「何だ。じゃあどこへ行くつもりだったんだ」


「え、えっと……」


 困窮したイリーナが思考を巡らせていると、急に腹部が「きゅう」と鳴った。


(そういえば、朝食も食べていなかったから……)


 もうお昼時だ。伯爵夫妻とビアンカはパーティ会場で軽食をつまんでいるのだろうが、イリーナはずっと外で待っていたから何も口にしていない。元々食が細く使用人と同じものを食べているイリーナだったが、今朝はいきなりパーティに連れてこられたので空腹だった。

 とはいえ、年頃のイリーナはお腹が先に答えてしまった状況が恥ずかしくて仕方なかった。イリーナのお腹は本人の意思とは無関係によく鳴るのだ。

 顔を赤らめて腹部を押さえているイリーナに、ヴィルヘルムは大きく首を縦に振る。


「今日のパーティの料理は料理長の自信作だ。後悔はさせない」


 そう言ってイリーナを抱いたまま会場に向かおうとした。慌てたのはイリーナだ。このままでは伯爵達と建物内で鉢合わせてしまう。


「へ、陛下! 私は良いので……っ! どうか置いて行ってください!」

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