第47話 戦慄
杏里は、人類とファントムの共存に向けた各国政府との交渉に忙しい時を過ごしていた。音声メッセージやプレゼン資料を各方面に送り続け、アポイントをとっては直接交渉を行った。
しかし、世界は冷たかった。窓口になる官僚の対応は
杏里が経験豊かな経営者なら、あるいはSETに政治家を利用する文化があったなら、杏里は様々な圧力を利用できただろう。しかし、杏里もSETも政治的には純粋で、そうした手段を取らなかった。
「どうして、わからないのかしら……」
杏里は、目の前にあるはずの平和への道のりが、果てしなく遠いものに感じた。
その日、ファントム抹殺にこだわるフランス政府との交渉に疲れ、リンクボールにもぐり込んだのは朝方だった。そこに浜村から電話があった。
『まだ、お休みでしたか?』
遠慮がちな声は嫌味に聞こえた。
まだ2時間ほどしか寝ていない、と頭の隅で愚痴を言う。
「ええ、まあ。電話を頂いたということは、急用ですね」
『自衛隊が、例の立坑付近でオーヴァルに遭遇したのですが、逃げられました』
杏里は地下調圧水槽で見たおびただしい数の卵を思い出した。
『彼らが潜んでいるような場所に、心当たりはないでしょうか?』
彼の言葉に釈然としないものを覚えた。
「私にはわかりませんが……」
『ええ、それは承知しています。ファントムに訊いてはもらえないか、ということです』
「え、ああ、そうですね。連絡して見ましょう」
『それからもう一つ。そのファントムの居所ですが、私にも教えていただけませんか?』
「エッ、公安部が監視しているのではないですか?」
『それがどうも、行方をくらましたそうなのです。今朝方のことです』
後ろめたいことがあるのか、オーヴァルの話をしたときより声が硬かった。
「今朝?……すると、私も連絡が取れないかもしれませんが」
『できる限りでいいのです。では、よろしくお願いしますよ』
浜村の話に疑惑を覚え、電話を切るとSET社にいる白虎を通常モードに戻して記憶を結合した。そうして得られた衝撃の記憶は、仕事のことではなかった。白虎のセンサーは都内で発生した大きな爆発を感知していた。それはオーヴァル殲滅作戦やオクトマンが姿を隠したことと関連があるのに違いない。
社長室の端末を使ってオクトマンの携帯端末を呼び出してみたがつながらない。
「メインスイッチを落としている?」
白虎のつぶやきを耳にした玄武が、那須に連絡を入れて確認した。
『その番号以外に、連絡先は知らないそうです』
『インフェルヌスグループの企業に、事務局のようなものを聞いてもらえないかしら』
『訊いてみましょう』
杏里の眠気はすっかり飛んでいた。オクトマン探しを小夜子に任せ、不安を胸に事務処理を始めた。社長あての稟議申請や申し送り事項は毎日60件ほどある。それらに眼を通して意思決定を下す。
日本国内のインフェルヌスグループは、200社を超えた巨大グループに成長しており、その中には世界企業も15社ある。Gセブンと呼ばれる巨大企業の日本支社も含まれていた。にもかかわらず、日本国内でそれらを取りまとめているのは、最初に共同研究事業を発表した規模の小さな大東西製薬だった。
玄武が大東西製薬と連絡を取り、深夜、インフェルヌスの研究所に警察の家宅捜索が入ったことを知った。
『浜村長官に騙されたようです。嫌な予感がします。東京に行きましょう。みんなを集めてください』
依頼すると小夜子がリンクボールを飛び出した。
慎重に検討する時間はない。杏里と向日葵、千紘はコンテナのリンクボールに移動、小夜子とNRデバイスのアキナがトラックの運転席に座る。助手席にシンゴさんとアサさんも乗せた。
『インフェルヌスの研究所に行ってみましょう。それから、あの調圧水槽。私と玄武は本社から先行します』
『ひえー、大忙しだね』
向日葵が素っ頓狂な声を上げ、授業を受けていた朱雀と青龍は早退し、ドローンで東京に向かった。
白虎と玄武は5分ほどで大東西製薬ビル周辺に規制線が張り巡らされているのを認めた。その内側にある研究所には別の規制線が張られていた。
月曜日の朝にもかかわらず、規制線の周りを沢山の野次馬が取り囲んでいる。大東西製薬の社員だけは、外側の規制線を越えてビル内に入ることが許されていた。
『隠れているとしたら、研究所内ね』
『大東西製薬ビルはどうでしょう?』
『その可能性は、否定できないけれど……』
インフェルヌスの研究所は窓にブラインドが下ろされていて室内が見えない。全てのセンサーの感度を上げてオクトマンを探したが、外部から気配を捕らえることはできなかった。
『やはり、外からでは無理ね。警視庁のサーバーに手掛りはないかしら?』
玄武がアサさん経由で警視庁のサーバーに侵入する。
『まだ、昨夜の実績はアップされていませんね。ファントム殲滅作戦の計画書があるだけです。警察庁と総理府の方も見てみますが、その前に浜村長官に頼んで研究所に入れてもらいましょうか?』
『今は信用できないわ。まず、自分たちで出来るところまで調べてみましょう』
その時、遠くに朱雀と青龍を乗せたドローンが見えた。
『それなら、内部は私が見て来るわ』
朱雀の陽気な声はトラブルを楽しんでいるように聞こえた。彼女は身体を灰色に変えて急降下し、研究所の隣にある大きな温室の陰に飛び下りた。すぐさま人間の形を構成しているナノマシンの数を8%まで減らして小人に変化する。
『まさか、森の妖精を気取って入るんじゃないよな?』
千紘が笑った。
『当たり前でしょ』
小人の朱雀は『エィ』と気合を入れると猫に姿を変えた。
『化けるのがうまいな』
『本当に……、うらやましいわ』と玄武。
白虎は、猫に化けた朱雀が研究所に向かって走るのを上空から見守った。
猫の朱雀が研究所に出入りする特殊部隊員の隙をついて内部にもぐりこむ。毛の色を周囲に合わせながら研究所内を移動した。まるでファントムだ。
『ファントムが死んだ形跡はないわね。酸の臭いがないもの。それより、血液の臭いがひどい』
ネットワークを通じ、朱雀の視界や全てのセンサーのデータが共有される。
『朱雀、建物をくまなく歩いて』
『お姉さんったら気安く言うのね。猫サイズだと、研究所は広いわよ』
『僕が手伝いに行こうか?』
『そうね。青龍、お願い。コンテナが本社に到着したから、私はSETの事務所に上がるわ。白虎は自立モードで上空から監視します』
『了解』向日葵、千紘、玄武が応じた。
杏里はリンクボールを出ると身体を乾かし、コンテナを下りた。小夜子が座る運転席のドアを叩いて呼んだ。
「警察庁のデータはどうでした?」
小夜子がアサさんから受け取ったデータをタブレットに表示する。
「1週間以上前から、ファントム殲滅作戦の計画が進んでいたようです。総理の指示のようですね。今のところ、ファントムの死亡も捕獲も確認できていません。警察側の死亡は5名。行方不明は15名……」
オクトマンが警官を殺した。……小夜子の報告に胸が痛んだ。
「死者を出しては、警察も手を引けない状況に陥ったということですね。私は上で情報がないか確認します。朱雀と青龍が猫に化けて研究所にもぐりこんだけど、暴走しないか心配なの。よく見ていて」
「猫に、ですか?……。あの2人、お似合いですね」
「そうかしら?」
胸の内がざわついた。何故だろう?
「ええ、2人とも影がないというか、天然というか……」
杏里はなるほどと思い、話を切り上げてエレベーターホールに向かった。
社長室に入ると浜村から連絡があった。聖獣戦隊に出動してほしいというのだ。
「すでにインフェルヌスの研究所近くにいるはずですが。……聖獣戦隊を動かす前に、本当のことを教えてください。問題を起こしたのは、ファントム側ではなく公安ではないのですか?……私と長官の信頼関係がなくては、彼女らが動くのも難しいでしょう」
指摘すると、浜村は昨晩のファントムとオーヴァルの殲滅作戦について語った。それはハッキングで得た情報と合致した。
『……君たちを騙したようになったのは申し訳ないと思っている。しかし、政府の決定だったのだ。総理は、君がファントムとの共存を推し進めるので焦っていたのだろう』
「焦る?」
『SETがこの国のリーダーシップを握っていると、国民や諸外国に見られることに、だよ』
「それだけのことで、平和交渉をつぶしてしまおうとしたのですか?」
『それだけのことが、政治家には重要なのだ。権力とは、そういうものだ』
「馬鹿な……」全身から力が抜ける。「……それだけのために、人間を信じろと言えない状況を作ったわけですね」
嫌味を言っても杏里の気持は晴れなかった。次にオクトマンがどんな態度を示すのか、ここに至っては会ってみないとわからない。
『既に20人やられたのだ。現状を打開するには君たちの力が必要だ』
懇願されると嫌とは言えなかった。聖獣戦隊を地下鉄トンネル内に入れると約束して電話を切った。
杏里は地下駐車場に降りるとトラックからシンゴさんを追い出し、NRデバイスのアキナの隣に掛けた。彼女は読んでいた本を膝に置いて「なにか?」と、小首をかしげた。
「みんなに伝えて。浜村長官から協力要請があったわ」
杏里は、ファントムとオーヴァルに対する殲滅作戦と現状を手短に伝えた。
「それでどうするの?……とのことです」
朱雀の質問をアキナが代弁する。
「オクトマン他、ファントムを保護。オーヴァルとは対決。で、朱雀、研究所内の様子はどうなの?」
「オクトマンの気配はなし。寝室に別の気配がある。警察は気づかなかったようだ、とのことです」
質問に、アキナが答える。
「子供たちかもしれないわ」
「子供たちにしては静かだった。保護するのなら元の身体に戻る。猫じゃ、食われちゃう、……とのことです」
朱雀の冗談を、アキナはそのまま言葉にした。
「警察がいる間は連れ出さない方がいいわ。隠れているように伝えて」
必要な指示を出した杏里は、再び社長室に戻って電話を掛けた。相手は河上総理だ。
「総理、オクトマンとの平和交渉から、何故、逃げるのです。研究所から警察を引き上げてください!」
杏里は責めた。それに対し、政治家の河上は冷たかった。
『犯罪者と取引するつもりはありません』
――ガチャン――
電話を切る音が、やけに大きく聞こえた。
自分が若いから河上が侮るのかもしれない。そう思い、日本人の弱点である外圧を利用することにした。初めてのことだ。
ルイスを呼び、オクトマンとの交渉をアメリカ政府から日本政府に要請するように命じた。ファントムによる被害が最も大きいのがアメリカだった。
ところが、事態は杏里が考えるほど単純ではなかった。アメリカ政府は、アメリカを拠点とする世界企業の権力者グループであるGセブンの圧力を受けて、SETの依頼を拒絶した。
「Gセブンが、何故、ファントムの脅威を容認するのでしょう?」
「推測ですが、アメリカ国内では永く人種間の反目などもあって、銃の乱射事件、暴動などの暴力事件が日常化していました。ところが、ファントムという脅威が出現以来、そうした事件は減っています。人種対人種、民族対民族といった対立構造が、人間対ファントムに変わってアメリカの市民社会が安定したように見えます。ファントムによって殺された富裕層も多くはリベラルな者たちで、Gセブンの保守的な者は殺されていない……」
杏里の疑問にルイスが応じた。
「まさか、インフェルヌスとGセブンが繋がっている?」
「その、まさかでしょう。日本国内では大東西製薬がインフェルヌスの代理人であるように、アメリカではGセブンこそがインフェルヌスのスポンサーです。ファントムやオーヴァルを世界に送り込んだ張本人の可能性さえあるのでは……」
ルイスの推理に杏里は
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