Ⅴ章 大東西製薬ビルの死闘
第42話 法の支配
「昨日の襲撃も体長1メートルほどのオーヴァルが多かったようですが、調圧水槽から逃げ出したやつとは限りません。他の場所にも卵があった可能性があります」
浜村長官に向けた部下の報告は気休めだった。
「親と子供が合流したようだね。地下鉄の出入り口は自衛隊が守備していたと聞いていたが……」
「出入り口には自衛隊の監視が立っています。その網にかからないということは、どこか別の場所から侵入し、線路伝いに移動しているものと思われます」
「思われるではいけないのだよ。国民の命がかかっているのだ。早急に侵入経路とアジトを特定しなさい」
浜村が部下を長官室から追い出すと、
警備局は公安部を所管する部署で、インフェルヌスの研究所にいるファントム殲滅を度々進言していた。しかし、SETに期待する浜村は、警備局の提案を都度はねつけていた。
「速やかにファントム殲滅作戦を実行したいと考えます」
時宗は、再びその作戦を口にした。
「その件は、すでに答えを出したはずだ。こちらから約束を破っては信義に反する」
「状況が変わったのです」
「どういうことだね?」
「オーヴァルによる地下鉄襲撃が続いています。警視庁が実行した地下調圧水槽でのオーヴァル殲滅は失敗だったのです。警備局は、公安の総力を動員して日本警察の汚名をそそぎます」
遠回しではあるが、浜村を責めると同時に恩を着せる話だった。
浜村は
「過失の有無の問題ではないのです。58名の人命が失われたのです。誰かが責任を取らなければなりません」
時宗が浜村の思考をさえぎった。
「責任の取り方にはいろいろある」
「ですから、ファントムを殲滅して日本の治安を回復させようというのです」
「SETの株主総会以降、ファントムは人を殺していない。それを承知の上で、約束を
「あれから、まだ43日しか過ぎていません。これから先もファントムが約束を守ると、どうしていいきれますか?……そもそも〝不殺協定〟を結んだのはSETであって、日本政府ではありません。世界の諜報機関の中では、企業がテロ集団と取引するのを、日本政府は止めることもできない腰抜けだ、と馬鹿にされています。アメリカもイギリスもフランスも、軍を出してファントムと対決しているのです。日本だけが平和的解決を目指すなど、いい笑いものです」
時宗が強い口調で言った。
「君のあげた国々は、企業の要請で軍を出している。しかも、最近ではファントムによる経済界の要人殺害は散発的で、ターゲットはリベラルなメディア関係者に移っているというではないか。そのことについて、公安部の見解をもう一度聞かせてくれないか」
浜村は以前も聞いた公安部のファントム・テロ分析の説明を求めた。公安部の自己矛盾を時宗に自覚させるためだ。
「ファントムが当該国の保守層を扇動しているということでしょうか?」
「その先は」
「インフェルヌスグループの意思に沿った政治経済の運営が行われれば、ファントムの活動は沈静化していく。それが公安部の分析です」
「そうだ。私はそう聞いた。その時、君はファントムの活動を抑えるためにSETをインフェルヌス傘下に入れるべきだ、と主張していたな。それを今更、ファントムそのものに手を付けるとは、どういう風の吹き回しだ?」
「それはファントムが変わったということです。SET側に取り込まれてしまった」
「おかしなことを言う。まるで、SETが敵だとでもいうようだ」
浜村は冷笑した。
「そうではありません」
「SETがファントムを取り込む。それで平和になるなら、良いではないか?」
「そんなことでは警察のメンツが立ちません。ファントムが我々との共存を望むなら、出頭して法の裁きを受けるべきなのです。そうしなければ社会秩序は保たれません」
「ファントムは人間ではない。その彼らに、我々の法律を主張できるのだろうか?」
「もちろんできると考えます。日本の国土の上に立つ限り、人間はもとより、犬猫も樹木も我々の法に従うべきなのです。いや、従わせなければなりません」
「大航海時代、ヨーロッパ人は、アメリカ、アフリカ大陸に、そしてアジアに進出して土地をもぎ取り、西欧流の法を強いた。ファントムたちがそんなことをしていると考えたことはないかね?」
「ファントムが日本を支配しようとしていると?……それなら尚更、妥協できません」
「私が言っているのは、法律のことだよ」
「法の支配の根底には、力による支配があるとおっしゃりたいのですか?」
「そうは言わんよ。生物というものは、本来、必要なものしか取らないし、危害を加えてこないものには牙をむかないものだ。力による支配よりも、共存という共通した本能があると信じている。百獣の王も腹がいっぱいなら、目の前をシマウマが歩くのも許してくれるものだ」
「国民の間には、ファントムが虐殺を行ったという共通認識があります。政府が国民を納得させるためには、ファントムに法の裁きを受けさせることが必要です」
「ならば時宗さん。オーヴァルも、日本国の法に従わせてもらえるのかな?」
「それは……」時宗の視線が泳いだ。
「法というものは、係るもの全てに共通の認識があって初めて法になる。その認識が無ければ、法の執行は暴力と同じだ」
「長官のおっしゃるのはもっともです。しかし、現実社会は理論と異なります。権力は解釈を曲げてでも法を使いこなし、多くの国民は長いものに巻かれて生き残ることを選びます。オーヴァルをどう巻き取っていくのか、それはこれからの課題です」
「オーヴァルは無理でも、ファントムは巻き取る時期だということかね?」
浜村は前傾して問うた。
「理由は分かりませんが、ファントムはオーヴァルの出現にうろたえ、人間との共存を言い出したのです。つぶすなら弱っている今が好機です。自衛隊は上層部の方針が変わって特殊火力兵器を利用することが決まったようです。明日にも地下のオーヴァルを焼き払うと気勢を上げています。そうなってはファントムが態度を硬化させるかもしれません。自衛隊が動く前に、ファントムは我々警察の手で処理すべきです」
「どうやら状況を変えたのは、ファントムではなく、自衛隊のようだね。君は、自衛隊と手柄の奪い合いをしているのか……」
時宗は失望した。
「実は、もう河上総理の許可は得ているのです」
「なんだと……」
自分の頭越しに話を進められることを権力者は嫌う。浜村も権力者の端くれだった。時宗は根回しのつもりで総理に話を通したのだろうが、順番が違う。
浜村の怒気があふれると、横柄に構えていた時宗が身を縮めた。
「弱っている、か……」
怒りをのみ込み、無理やりとぼけた顔を作って時宗を見上げる。
「確実につぶせるのかね?」
「もちろんです」
時宗が胸を張る。
浜村は彼の鼻を見ながら考えた。河上総理の許可を取った計画を止めては、総理の顔に泥を塗ることになる。だからと言って自分の頭越しに事を進めた時宗は許せない。作戦が成功すれば自分の手柄とし、失敗したら立坑の水責めの失敗も含めて全ての責任を時宗に取らせよう。決断すると怒りが解消した。
「ならば、私は目をつぶろう」
「よろしいので?」
「ああ、あの時とは状況が変わった」
浜村は前回の判断に誤りはなかったことを強調し、時宗の責任転嫁を受け流した。
「失敗してはいけないよ」
自分に反抗した男にプレッシャーをかける。
「……承知しました」
長官室を後にした時宗が大きな吐息をついた。
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