Ⅳ章 オーヴァル

第32話 好々爺

 日本では、富裕層の中から毎月4人前後の命がファントムに奪われた。役員や理事といった職業は危険なものになったが、それでも成り手がなくなることはなかった。命を懸けてでも権力や金銭を得たいというのが欲というものだ。


 そうした中、、という都市伝説がささやかれ、雪崩を打つように多くの企業がインフェルヌスグループに加わった。結果インフェルヌスは、経済界を通じて政界での発言力を強めた。


 一方、警察庁は、インフェルヌスとファントムのつながりを疑い、警視庁と全国の県警本部にインフェルヌスの極秘調査を指示した。


 ところが、企業団体連合会は、警察庁の捜査は根拠のない不当なものだと政府与党に抗議、警察庁の調査を止めることに成功した。


 そうした動きをつかんだのは、警察組織のサーバーからデータを入手していた小夜子だった。


『今が好機です。浜村警察庁長官と会談を持ちませんか?』


『浜村長官と、ですか?』


 杏里は、小夜子の意図を理解できなかった。


『SETは政治と距離を取ってきました。政治家に利用されるのを恐れたからです。しかし、インフェルヌスやファントムと対峙するためには警察の力が必要だと思うのです。亡きお母さまも、浜村長官は骨のある人物だとおっしゃっていました。経済界に横やりを入れられてインフェルヌスの調査を中止させられた今なら、浜村長官も我々と協力する道を選択するのではないでしょうか?』


『確かに治安を守る者としての使命感があれば、私たちの言葉に耳を傾けてくれるかもしれませんね』


 理屈ではわかっても、過去の経緯を考えると、政府機関との交渉には二の足を踏んだ。


 杏里は、まる1日熟考し、小夜子の提案を採用することにした。その日のうちに法務部のルイスが動き、浜村長官との会談が設定された。


 杏里と小夜子が警察庁を訪ねると、浜村は渋い顔をして出迎えた。


「その御様子では、内閣の方から釘を刺されたのではないでしょうか? 御心中、察するに胸が痛みます」


 杏里が同情を示すと、浜村は相好を崩した。


「いや。さすがにSETのトップに座っただけのことはありますな。お若いのに、こちらの状況を熟知されておられる」


「ファントムによる犯罪の抑止とその背景調査のために、相互協力協定を締結したいと考えています」


「ほお……」


 彼が驚いて見せる。それが芝居じみていて可笑しい。


「以前、両親に接触してきたインフェルヌスの使者は、レディー・ボンドと名乗るトアルヒト共和国人でした。彼女は入国直後、大使館に腰を落ち着けていたようです……」


 インフェルヌスの情報に加えて、ファントムの創造にユリアナ・トトが関係している可能性を告げた。


「なるほど。……ファントムに関する協力については否やはない」


 一度腹を割ると、浜村は好々爺こうこうやに変わった。それが本来の彼なのだろう。


「しかし……」彼が難しい顔を作った。「……すると問題は、インフェルヌスよりトアルヒト共和国ですな。……たとえ小さな国とはいえ、外交問題となると厄介だ。……実は我々のところには、公式の資料がほとんどないのです。ここだけの話にしてほしいのですが、これは公安部が大東西製薬内の研究所を盗撮したものです」


 浜村が、ファイルから1枚の写真を取ってテーブルに置いた。


「この男、インフェルヌスの幹部社員と思われるのですが、姿が見られるのはこの研究所内だけで外部に出た形跡がない。地下に別ルートでもあるのではないかと探っているのですが、今のところそれも見つかっていない。長期間の内定を行った結果がこの程度です」


 写真を前に、杏里と小夜子が顔を見合わせた。


「この男は、……ファントム」


 写真の男の目は、白虎の腕と足を切り落としたファントムだった。杏里はあの日の恐怖を思い出し、頭を振ってそれを抑え込んだ。


「本当ですか?」


 浜村が腰を浮かす。


「100%とは言えませんが、間違いないと思います」


 小夜子が写真から顔を上げた。


「姿を消すことができますから、長期間監視していても出入りする場面を撮ることができなかったのでしょうね」


「あなた方は、このファントムを直接見たということですか?」


 杏里はうなずいた。


「先日、K市の廃工場で行方不明者が発見されたとき、私もその場にいたのです」


 浜村が目を点にした。


「……あの場にいたというのですか。それで、良く無事でしたな」


 その声に猜疑の色が生れていた。


「聖獣戦隊を御存じでしょう。両親の葬儀の場にも来てくれた若者たちです。彼女らに私たちは守られていたのです」


「どうやら、聖獣戦隊はSETの関係者のようですな。時折、空を飛んでいたと報告があります」


「彼らは、わが社が資金提供しているボランティア団体です」


 大人の世界には曖昧な方が良いことがある。事実を明確にすると、お互いに都合の悪い事態に直面するからだ。機転を利かせた小夜子が冗談めかして誤魔化すと、浜村は苦笑いを浮かべただけで、深く追求することはしなかった。彼は企業団体連合会の鼻を明かすために、聖獣戦隊とSETの関係に目をつぶったのだ。


「ファントムが隠れているとわかっても、相手は大東西製薬。社長は企業団体連合会副会長だ。我々も証拠もなしに踏み込むわけにはいきません。何とか、確たる物証を手に入れないと……」


 浜村は皺の多い顔に苦渋の色を浮かべた。


 容易な打開策はない。SETと警察庁は、ファントムが現れた場合には速やかに情報を提供する、といった情報提供協定を結び、専用回線を設置した。

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