第29話 ベビー・ファントム

 K市の緑地公園、木々は5月の日差しを浴びてキラキラ輝いていた。まさに命が生まれて成長するのにふさわしい場所であり、季節だ。


 緑の中で曽根光司そねこうじと一つ年下の大倉麻由実おおくらまゆみが肩を並べ、愛を育んでいた。


「来年は就活ね。進路は決めているの?」


 彼女が探るように訊いた。


「SETに入り込めたらいいと思うんだけどね。SETが無理なら大東西製薬かな」


「大東西製薬?」


「インフェルヌスグループの中核企業だよ。元々は中規模の会社だったんだけど、人工細胞の医療分野への応用開発で注目されている。ここ数カ月で株価が3倍になっていて、経済界ではポストSETなんていわれているらしい」


「成長企業を選ぶか、安定企業を選ぶかというところなのかしら?」


「SETは働きやすいというので評判の会社だから、やっぱりそっちかな。インフェルヌスなんて名前も気味が悪いしね」


「どういう意味なの?」


「ラテン語で地獄という意味らしい」


「えぇー。企業に、そんな名前?」


「世の中にはインパクトで目立とうとする企業が多いからね。もっとも、インフェルヌスの設立はたった1年前で、ペーパーカンパニーだという噂もある。謎めいているんだ」


「なんだか気持ちが悪い。SETにしなさいよ」


「SETは今年、1万人も失業者を採用するから、新卒枠が減るかもしれないんだ」


「光司さんなら大丈夫よ。優秀だから」


 光司は、えへへ、と照れた。


「でも、すごいよな。あそこの社長は、僕らと同じ年だぜ」


「うん。2代目よね。うらやましいわ」


「親は選べないからな」


 光司は麻由実の腰に手をまわして歩き出す。


「でも、両親ともファントムに殺されたのよね」


「昨年のホリデーパーティーだ。肝臓を取られたって。悲惨だな」


 その時、光司は柔らかいものを踏んでバランスを崩し、彼女に抱きついてしまった。


「ヤダ、こんなところで……」


 麻由実の頬が赤く染まる。


「違うんだ。足元が……」


 何かを踏んだからだと説明した。それを証明するために下草に目をやる。ところが、踏みつけたはずのものが見えない。


「変だな……」


 脚で探るとグニャリとした感触があった。下草と同じ緑色をしている。


「これだ」


 足に力を入れると、それが転がるのがわかった。ちょうどメロンほどの大きさだ。


「何もないわよ」


「これだよ」


 屈んで感触のあった場所を指し、そっと手で触れた。ゼラチン状の球体だ。彼女の胸のような弾力があった。


 麻由美も屈み、手を伸ばした。


「本当だ。プニョプニョしているわ」


 大胆にも、彼女はそれを持上げた。その色が緑色から手のひらの色に変わる。


「保護色だな」


「保護色というより、透明よ。手が透けて見えているのよ」


 2人が球体を観察していると、突然その物体が割れた。その亀裂から小さな手が現れる。


「キャッ!」


 麻由実は驚いて尻もちをついたが、手にした球体は落とさなかった。いや、投げ捨てようとしたのだが、割れ目からあふれた液体が粘ついていて離れなかった。


 裂け目から現れた小さな手は陶器のように真っ白で、やがて白い頭が現れた。球体は割れても保護色のため、宙が裂け、異次元から何者かが這い出して来るように見えた。


 現れた生物は人の形をしていた。体長は20センチほどで、生まれたばかりの子犬のようにぶるぶると震えている。


「かわいい」


 麻由実が白い生き物を両手ですくうように抱き上げた。


 光司は、未知の生物に恐怖を感じていた。


「大丈夫か?」


「赤ちゃんだもの、平気よ。光司ったら臆病ね。でも、なにの子供かしら?」


 生き物の肌はすべすべしていて、身体はぬいぐるみのように柔らかい。髪はなく、目はくりくりとしていて真っ黒だった。


「ほら、お人形みたいよ」


 麻由実が手にした生き物を逃げ腰の光司に向けて近づけた。


「うん、カワイイ、けど……」


 光司は得体のしれない生き物に目を細める。


 するとそれは手足を収縮させ、麻由実の手を蹴ってジャンプした。


「えっ?」


 白い生き物が光司の右肩に飛び移った。


 予想外の行動に、麻由実と光司は目を丸くした。


「おお……」


 光司は尻もちをついた。麻由実の手前、生き物を振り払うのだけは我慢した。


「光司を好きになったみたいね」


 彼女は無邪気に笑ったが、肩に乗られた光司はひどく緊張していた。


 生物は匂いを嗅ぐように光司の頬に顔をすり寄せる。


「よしよし、いい子だ。動くなよ」


 恐る恐る左手で掴み上げようとした時、謎の生物の、のっぺりとした顔の薄い唇が動いた。小さな口が開くとピンク色の口内が現れる。


 光司は、目の隅で鋭い牙をとらえた。


「嘘だろ……」


 背筋を悪寒が走る。刹那、その生物が光司の喉にかみついた。


「グギャー……」


 言葉にならない音が洩れた。


「なによぉ……」


 麻由実が笑った。光司にからかわれていると思ったのだ。


「タスケ、ウグ、ウ……」


 光司の喉元から赤いものが流れ出す。


 麻由実が全身を硬直させた。


 光司は首に食いついた生き物を振り払おうとしたが、できなかった。生き物の鋭い牙がギリギリと体内に食い込んでくる。小さな爪が筋肉に食い込んでいた。


「タ、ス、……ケ、テ……」


 痛みと死への恐怖が肉体を支配する。


 生物を引きはがそうとのたうち回った。麻由実も両手を貸した。2人の火事場の馬鹿力が発動し、謎の生物を引きはがすことに成功する。しかし、生物が口を開け、爪を緩めたわけではなかった。


 ――ブチッ……、鈍い音がした。水道の蛇口を全開にしたように、光司の喉元から血液が飛散し、飛沫ひまつが麻由実の顔を汚した。


「キャー!」

 

 麻由実の悲鳴。白い生物は赤く染まり、嬉しそうに彼女に近づいた。その口は光司の肉片を咥えている。


「こないで!」


 麻由実はバッグを振り回し、生物を打った。それはググっと喉を鳴らし、肉片をくわえたまま薮の中に消えた。


 光司はゲフゲフと音にならない音を漏らしながらのたうっていた。そうして救急隊員が駆けつけた時には失血死していた。大量の血液が新緑を黒く染めていた。


 警視庁は現場周辺を捜索して卵の殻を見つけたが、白い生物を見つけることはできなかった。


§   §   §


 N区で発見された誘拐被害者の体内から発見された卵の一つは、国際先端技術大学細胞システム研究センターで解剖されていた。採取した遺伝子から、警察庁はSETとほぼ同等の生物学的な情報を得たが、その遺伝子が人為的に作られたとは考えなかった。


 もう一つの卵は、同じセンターの湯川麗子博士の研究室で保管され、カメレオンの卵のように日々成長していた。麗子は定期的に卵のCTスキャンをとり、幼体が人の形を成していく様子を確認しては喜びを感じていた。


 緑地公園で生まれたばかりの謎の生物が男性を襲って殺した事件は、研究センターに衝撃を与えた。


「どうするのだね? もうすぐファントムの子供、ベビー・ファントムが産まれてしまう」


 センター長をはじめ、多くの研究者が麗子に同種の質問をした。


 放射性物質であれ、ウイルスであれ、危険だからというだけの理由で研究を放棄した研究者を麗子は知らなかったから、浴びせられる質問が不思議でならなかった。


「手におえる範囲内で育てます」


 麗子の返事を歓迎する者は少なかった。だからといって、具体的な対処方法を指示する上司もいない。


 卵から真っ白な生物が生まれたのは、3日後だった。


 無機質なガラス製のグローブボックスの中に入れておくのは辛かったが、周囲の者を安心させるために、麗子はそうせざるを得なかった。


「こんにちは、私の赤ちゃん。ベビー・ファントム」


 DNAの分析で男女の区別があるのは分かっている。麗子はグローブに手を入れて子供を抱き上げ、性別を確認する。子供は人間とよく似た生殖器を持っていた。女性だった。


 人間用のミルクを与えたが、子供は口にしようとしない。それで用意しておいた豚のレバーを与えた。すると、ぺろりと平らげた。


「やっぱり、レバーが好きなのね……」


 麗子のつぶやきはグローブボックスの中に届き、「ミュー」と子供が応えた。


「あなたの名前はホワイト。全身が真っ白だからよ」


 麗子が目を細める。彼女の愛情は種を越えて、ホワイトを包んだ。

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