第28話 杏里の憂鬱

 杏里は大学に通いながら社長業をしていた。母親のレベルに追いつくためには猛烈な勉強が要った。そのために白虎の自立モードは役に立った。学習に8時間、仕事に8時間、そしてファントム対策に8時間。


 8時間、リンクボールの中で休む時でさえ、白虎と記憶を共有するのに多くを使った。それは脳にとって過酷な作業だった。それほど無理をするのは、ホリデーパーティーの席で母親が宣言した勤務時間の短縮と、失業者の大規模な雇用を実現するためだった。


 その日は人事担当役員の須賀川と採用について打ち合わせていた。


「お母さまと打合せを重ね、採用計画はある程度できていたのですよ」


 彼女の態度はとても穏やかで杏里をホッとさせる。


「それでは早急に実行に移しましょう」


 須賀川の言葉に勇気を得て、杏里は前のめりになった。そんな彼女を、須賀川は微笑みで受け止めた。


「大変な仕事になりますが、やり抜く覚悟がおありですか?」


「もちろんです。協力してください」


「社員の指導や育成には人員と時間が要ります。一度に10万人増やすというわけにはいきません。採用は月々千人程度から実施します。新規採用者の成長に合わせて、業務時間短縮を部門別にすすめましょう。それなら可能だと思います」


 同席していた製造担当役員の豊田が引き継ぐ。


「採用も業務時間の短縮も、経営者に意志さえあれば簡単にできることなのです。それができないのは、世界中の企業が利益という手かせと経営効率という足かせに繋がれているからです。前社長がそういった足かせを断ち切ろうといい、新社長がそれを実践する。私はお嬢様を社長として尊敬しますよ……」


 その言葉が心からのものか、世辞か、杏里は判断できなかった。


「……但し、懸念材料が一つあります」


 彼が表情を引き締めた。


「何でしょう?」


「アフリカと南米でのオーヴァルとかいう連中のテロ活動です。それが工場を襲えば、計画は滞ります」


「もちろん承知しています。場合によっては工場を閉鎖し、社員を安全な地域に避難させなければなりませんね」


 覚悟を述べると、須賀川が小さく首を振った。


「社長。もう、世界中に安全な場所はないかもしれませんよ」


 NRデバイスを公安組織に提供すべきだろうか?……そんなことを考えながら彼らの手を握り、協力に感謝した。


§   §   §


 ファントムはほぼ10日に1人のペースで人を襲っていた。それに伴い、インフェルヌスと共同研究開発を行う企業が増えた。インフェルヌス傘下企業の役員はファントムに襲われない、といった噂が都市伝説のように広まっていたのだ。


 巨大化したインフェルヌス・グループ、……インフェルヌスは本性を現し、資金と暴力の両面から傘下企業の役員たちを支配した。彼らはインフェルヌスに望まれるものを作り、望まれるものを売った。その影響はSETにも及んだ。


「インフェルヌス傘下にはいった三元精機と中央電子科学工業から、部品供給ができなくなるといってきました。これからも似たような事案が続くと思われます」


 役員会の席上、資材担当のボブが深刻な顔を作った。彼は那須専務の一派だ。


 ビクトルが手を挙げる。


「インフェルヌスは、我々が初めにやったことを真似ているに過ぎない。アメリカには前副社長が買収した機械部品企業が多々あります。そちらを使いましょう」


「部品や資材の国内調達を減らすことに、政府は良い顔をしないと思いますが……」


 ボブが牽制するように不安を口にした。


 白虎は皮肉交じりに応じる。


「政府筋が国内調達のことを言ってきたら、三元精機他の企業に同じことを言ってもらってください。日本のメーカーに対して優先的に部品を売るように、と。そんなことはできないことを承知で、政府は口にしているのです。……まして世界企業の当社は、日本だけではなく世界の人々の生活を支えていかなければならないのです。日本経済のためという理由で悪党に屈するわけにはいきません」


「社長のおっしゃる通りです。我が社は4月から失業者の雇用を促進しています。それを政府も無視できないでしょう。ボブ、臆することなく政府と喧嘩をしなさい」


 白河副社長がボブに命じた。


 役員会後、リンクボールから出た杏里は椅子に掛けて大きなため息をついた。インフェルヌスと戦わなければならないのに、役員会内にさえ反目する人間がいる。それが情けない。


「資材調達でトラブルにならないのは、ご両親の功績ですね」


 リンクボールから出てきた小夜子が杏里を慰めた。


「ええ。今のところは、母が考えていたように進むだけで何とかなると思います。でも、来年はどうでしょうか。今のままでは難しい局面を迎えるような気がします」


「那須専務やボブのような人を、どう処遇するかということですか?」


 杏里は正直にうなずいた。


「どんな状況下にあっても、意見を異にする人はいるものです。その人たちを無理やり従えることはできない。インフェルヌスのように従えたところで長くは続かないと思います」


「それはわかっているつもりです。でも、短期的に見れば……」


「前社長が短期的な戦略を選択しなかったから、SETは政府やインフェルヌスの圧力にも屈せず、こうして経営を続けられるのです。短期的な解決方法は、すぐに別の問題に突き当たるものですから。ご両親がそんな戦略を選んでいたらナノマシンの開発はなく、NRデバイスも出来なかったでしょう。今頃、会社はつぶれていたかもしれない。……本当の敵はインフェルヌスという組織であり、その先にいる科学者です」


「ええ。それもわかっているつもりです」


 杏里は、インフェルヌスに協力していると思われるユリアナの聖女のような顔を思い出した。


「前社長は、専務に裏切られても切り捨てなかった。たとえ専務を切っても、インフェルヌスは別の役員に手を回すだけですから……。そんなことで役員たちが疑心暗鬼になるのを恐れたのだと思います。今回も、長期的な成果を目指して組織の骨格をつくるべきではないでしょうか。痛みを恐れて力で仲間を抑えつけては、私たちもインフェルヌスやファントムと同じになってしまいます」


「仲間?……」専務を仲間という小夜子の気持ちがわからない。「……小夜子さんの言うのは理想です。良い人は危害を及ぼさない。だから、恐ろしい者に追従して身を守るのが人間のさがではないでしょうか?」


「そうですね。人間は弱いから、多くの人がそうするのはしょうがない。でも、リーダーは、そうあってはならないと思います。自分の身に危険が及ぼうとも、理想を実現しようとする人こそが真のリーダーなのだと思います。最初の役員会の時のようにインフェルヌスやファントムと向き合っていれば、いつか専務やボブもわかってくれるはずです」


「それまでは耐えなければいけないということですね」


 理屈は理解できても、杏里の憂いが晴れることはなかった。


「頑張りましょう」


 小夜子の言葉はうわべだけのものではなかったが、疲れている杏里にはうつろに響いた。

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