第26話 神の所業
白虎と玄武はI市の生物化学研究所に向かっていた。クルミ博士の報告書にはファントムの生物学的な分析だけでなく、彼女の推測が多岐にわたって記載されていた。しかし、文字にできない何かがあるものだ。それを確認するためだった。
研究所は海辺にあって、サザエの貝殻を模した形をしていた。敷地内の磯には藻やプランクトンの養殖池があって、それらを使って地球環境を改善する研究が進められている。
2人を迎えたのは、雑務を担う中年の総務社員だった。彼は就任間もない社長の来訪に驚きと喜びを隠さなかった。
来意を告げると、会議室に案内された。
白虎は、海に面した窓に近い席に座る。
『きれいな海ですね』
『海水温が上がって、プランクトンや海藻が死滅したためです。森も同じです。経済的価値の高い樹木や観光用の花をつける樹木ばかりを植え、あるいは農地として、工場として、住宅地として切り開いたために、景色としては美しくなったけれど数々の生物が死滅しました』
玄武が美しさの背後にある冷厳な事実を持ち出して白虎の顔を曇らせた。
『外観と内実の
二人は一言も発しなかったが、ネットワークの中で意思の交換は続いていた。
白虎が養殖池の先に広がる駿河湾に眼をやる。その時ドアが開き、コーヒーの香りが漂った。金属製のカップにコーヒーを淹れてきたのはクルミ自身だった。
「滅多に客など来ないものですから、お茶くみロボットも置いていません」
クルミが白虎と玄武の前にコーヒーカップを置いた。その様子は総務社員と違い、社長を歓迎しているようではなかった。
「ファントムの腕の分析結果を読ませてもらいました」
玄武が用件を切り出した。
「今のところ、報告書以上の事はわかりません。今、遺伝子を元に成長シミュレーションを行っているので、いずれ体内構造は分かるはずです。それまで新たに言えることはありませんが……」
「今日は、ファントムではなくユリアナ・トトのことを聞きに来たのです」
白虎が告げた。
「それを聞いてどうするのです?」
「ファントムを知るためには、ユリアナ・トトを知る必要があると思うからです」
「ファントムを創ったのがユリアナだというのは私の推測です。確たる証拠があるわけではありませんが……」
「福島博士がそう思うだけで十分です。私にユリアナ・トトのことを教えてください」
クルミが腕を組んで白虎を見つめた。
「私の話はつまらないですよ。社長は時間の無駄だったと思うかもしれません」
クルミは自分の時間を惜しんでいるのだろう。
「博士の貴重な時間を割かせて申し訳ありません。それでも私は知っておきたいのです」
「……そうですか、それほど真剣ならば。……私は遺伝子工学研究室でユリアナ・トトと一緒でした」
クルミがコーヒーで口を潤してから話し始めた。
「やはり、そうでしたか。ユリアナの写真は研究室の集合写真ですね」
クルミが遠い眼をした。彼女が見るのは学生時代の希望か、想い出か……。
「私は当時から食料危機対策として生物を研究していましたが、彼女はそうではなかった。純粋に、生命の神秘を解き明かそうとしていました」
「神秘というと、起源や心といったものですか?」
「そうですね。……生命とは何か。それは科学者でなくとも興味を持つことです。ましてヒューマンレース……、人類そのものには謎が多い。人類はなぜ生まれたのか、それは神の意思なのか……」
「ちょっと待ってください。それは科学ではなく、宗教や哲学ではないのですか?」
玄武が口をはさんだが、クルミは
「人間の心が神を生んだのか、神が宇宙を創造したのか……。私には分かりませんが、ユリアナはその秘密が生物自体の身体に刻み込まれていると考えていました。そして、それを知るために人類は生きているのだと」
「人類は、宇宙の成立を解き明かす特別な存在だということですか?」
白虎が問う。
「社長だって、人間は他の生物とは違うと考えていませんか? 人間は言葉を使いこなし、道具を発明して他の生物を圧倒している。その在り方は、生態ピラミッドの仕組みには収まらない。つまり、人類は自然界の法則を超越した何かなのだと」
「そうですね。私自身は特別な存在でありたい。でも、そうであってはいけないのだとも考えています。人類は科学によって自然の制限を超えましたが、他の生命を摂取しているという意味では生態ピラミッドの中にいる。特別なものではないし、驕ってもいけない」
白虎の言葉にクルミの瞳が輝いた。
「ユリアナは、社長と似ていました。彼女は、自分の身体が他の動物と違わないタンパク質などで構成されていると知りながらも、それ以上の何かでありたいと探し求めていたのです」
「ある種の選民思想ということでしょうか?」
玄武が言った。
「それを選民思想というのか、アイデンティティーというのか、あるいは私の解釈が誤っていて、ただの幼稚な好奇心の表明にすぎなかったのか……。問い質したことはないので何とも言えませんが、彼女が現代人を肯定していなかったということは間違いないと思います」
「肯定できないのは人類ではなく、現代文明ですね?」
白虎の問いに、クルミが小さくうなずく。
「しかし、彼女にとっては、生物の身体と、生物が作り上げる巣やコミュニケーションといった文化、文明は切り離せないものでした」
「すると、現代文明を築いた人類にも問題があるということになりますが?」
「矛盾しますね……」博士が口角を挙げた。「……彼女はクロスを手放すことがなかった。
「そんな人がファントムを創ったと、どうして考えるのです?」
「種を超えて遺伝子を合成する理論も方法も、彼女しか知りえないことだからです」
クルミが姿勢を正した。
「博士はユリアナの理論を信じているのですね?」
「ええ。彼女は正しかった。でも、当時の私は一介の研究者で、それを支持する権威も勇気もなかった。彼女は、孤高の天才でした」
彼女が窓の外に視線をやった。
「ユリアナの論文を信じた誰かが、ファントムを創ったということはないでしょうか?」
「彼女が発表したのは、異種間の遺伝子結合の基礎理論です。確かに、彼女が創造した卵細胞のデータはありましたが、誰かがそれをまねることは簡単ではありません。発表された論文は純粋理論であり、製作手法に関する技術論文ではありませんでしたから」
「ユリアナと研究を行った福島博士なら、キマイラを創り上げることができるのではありませんか?」
クルミの目が、真っ直ぐ白虎に向いた。
「正直に答えましょう。……私には無理です。悔しいですが……。万が一できるとしても、対象は爬虫類どまりだと思います。……彼女の研究が発表されたのは11年前。論文を目にした何者かが、この短期間でキマイラ遺伝子の合成に成功し、かつ、人間に対抗するほどの巨大な生物に仕上げることは不可能でしょう。できるのはオリジナルの研究を続けている彼女だけだと思います」
「そうですか。……南米やアフリカに現れたオーヴァルも、ユリアナが創ったものだと思いますか?」
「もちろんです。他の誰かにできることではありません」
「敬虔なクリスチャンのユリアナが、その生き物を社会に送り込んで殺人を犯させる。世間や学会に対する復讐でしょうか?」
「彼女の知性は
「それならなぜ……」
「社長は、彼女がファントムを送り込んだと決めつけているようですが、彼女は、ファントムを創っただけだと思います。それを人間の社会に送り込んだのは、別の誰かに違いありません」
クルミの瞳には確信の色があった。
「ユリアナがファントムやオーヴァルを創ったのなら、目的はなんでしょう? 無目的にやったこととは思えないのですが」
「雇主の要請ではないですか? もし研究を支援しているのが死の商人なら……」
玄武が言った。
「なるほど。……金のなる木を生み出すのなら、どんな研究でも許してしまうのが企業ですからね。ここで研究している自分が言うのもおかしいですが……」
クルミが薄く笑った。
白虎に閃くものがあった。
「もしかしたら、ファントムが人類と共存できると考えたのでしょうか?」
「……その可能性はあります。ある種の生き物は、自分たちが生きるために体内や周囲に共生関係にある生物を置くことがあります。人間だって腸内に菌類を置いて食物の分解に利用している」
「ユリアナが、神の代理として人類の天敵となりうるファントムやオーヴァルを創った。そんな可能性なら、博士は受け入れられますか?」
白虎の型破りな仮説に、クルミが黙考する。そしておもむろに口を開く。
「そうですね。世界は人類が増えた分だけ、一部の上位消費者、……たとえば熊や狼といった種が絶えたに過ぎない。それは生存競争という自然界の摂理でもある。……しかし、人類は生存競争というルールに甘えて増えすぎた。ユリアナはそう考えたのかもしれません。……うがった見方をすれば、ファントムが富裕層だけを狙うのは、経済的ピラミッドをも回復させようとしているのかもしれない」
「正に、神の所業……」
玄武がつぶやいた。
「ファントムやオーヴァルを野に放ったのは誰の意思なのか、知りたいですね」
それが本当の敵なのだ。
「ファントムもオーヴァルも生物です。それを誰が創り、誰が世に放ったのかを知っても、彼らの繁殖は止められない。ユリアナの研究所を突きとめて出来ることといえば、更に危険な生物が生まれることを阻止できる、ということだけです」
「ファントムやオーヴァル以上に危険な生物……」
白虎は絶句した。
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