第15話 何者?

『後方から、急速接近する車両があります。追突に注意してください』


 向日葵たちを乗せた車の自動運転システムが警告を発した。


「車両など見えないが、……システムの故障か? センサーの異常か?」


 運転席の那須が機器を確認する。


 リアウインドウから後ろを見る向日葵の目に映るのも、後方に置き去りにされる街灯の明かりだけだった。車のライトも影も見えない。


「あっ? 小夜子さんよ」


 杏里が小さな声をあげた。彼女もまた、後方を見ていた。


 向日葵は、姉の頭がおかしくなってしまったのではないかと思った。


 その時だ。向日葵の目にも小夜子の姿が映った。彼女はハイヒールを手に、自分の足で走っていた。オレンジ色の街灯の下、ドレスの裾をマントのように翻して近づいてくる。


「なによ、あれ!」


 自分の目が信じられなかった。


 小夜子は瞬く間に追いついて車と並走、あっという間に前に回り込み、ボンネットに手を置いた。


 自動運転システムは、接触事故と判断して急ブレーキをかけた。


 ――ギギギギギィ――


 タイヤが悲鳴を上げ、向日葵の身体が浮いた。


「ばかな!」


 那須が声をあげた。


 車は完全に停止した。フロントガラスの向こうに、鬼の形相をした小夜子の顔があった。


「止まるな!」


 那須が怒りの声をあげた。


『事故検証プログラムの実行中です』


 自動運転システムが事務的な音声で応じた。


「那須専務、どういうことです?」


 小夜子が運転席のドアを開けていた。


「私はなにも……。君こそ、どうやって追いついた?」


 那須は明らかに動揺していた。


「質問しているのは、私の方です。会社を裏切るのですね?」


 彼女が那須の腕をつかんで外に引きずりだした。


「……社長も副社長も死んだ。今日からは、私の意思が会社の意思だ」


「まさか、こんなに早く裏切るとは……」


 小夜子が顔をしかめた。


「秘書のぶんざいで何を言う。今日見てわかっただろう。人間の力ではファントムに太刀打ちできない」


「ファントムに屈することは、鈴木社長の意志に背くことです」


「鈴木社長はもう死んだのだ。ファントムは理屈が通じるような相手ではない。社長のようになりたいのか!」


 那須は殴りかからんばかりの剣幕だった。いや、実際、殴りかかった。しかし逆に、小夜子に腕をひねりあげられた。


 向日葵は驚いた。運動音痴の彼女のどこに、車に追いつき、専務を取り押さえる力があるのだろう?


「専務は代表権をお持ちではありません。冬期休暇明けには役員会が招集されます。今後の方針については、その場でお決めください。お嬢様は私がお送りします」


 小夜子は那須を解放すると運転席に乗り込んだ。


「おい、私をこんな場所に置いていくのか!」


 抗議する那須を無視して彼女はドアを閉めた。


「大丈夫なの?」


 彼を見ながら杏里が訊いた。


「大丈夫です。10分も待てばタクシーが来ます。……スーパーマン、鈴木大和宅にやって」


 スーパーマンは大和が車のAIに与えた名前だ。


『嶋小夜子様、データが承認されました』


 音声ガイドに続き、車は音もなく走りだす。


「……申し訳ありません。ご心配かけました」


 小夜子が振り返った。


「どういうことなのですか? 専務が裏切ったとか……」


「那須専務はインフェルヌスとの共同研究に積極的なグループでした」


「パパやママとは意見が違ったのね?」


「はい。そして今日のファントムの警告です」


「えっと……、死にたくなければ指示に従え。証拠を差し出せ。……そんなことを言っていましたね」


 杏里がこめかみに指を当て、言葉をひねり出すように言った。


「インフェルヌスの指示。……それが何を示すのか、今までわかりませんでした……」


「それが、専務が話していた父が開発していたロボットのことなのね」


「さすが杏里お嬢様。ご理解が早い」


「え、どういうこと?」


 向日葵は姉と小夜子の会話が呑み込めなかった。


「インフェルヌスが共同研究を申し出てきたのは、お父さんのナノロボットの技術がほしかったからよ。それが上手くいかなかったので、インフェルヌスはファントムを使って、……ナノロボット技術のデータを渡さないと殺すと、専務を脅迫してきたのよ」


 姉の説明で向日葵は理解した。


「それって、専務はファントムがパパとママを殺すって、事前に知っていたということ?」


 杏里は返事をせず、首を傾げた。


「それはないと思います……」答えたのは小夜子だ。「……見ての通り、専務は小心者です。事前に知っていたなら、警察に保護を求めたでしょう」


 彼女の説明に向日葵は納得した。


「スーパーマン、運転を手動に」


 小夜子が自動運転を解除し、自らハンドルを握った。瞬間、車が大きく蛇行し、杏里が小さな悲鳴を上げた。


「どうして手動にするの?」


「制限速度以上のスピードで走るためです。それに自動運転システムがハッキングされてコントロールを奪われる心配がありませんから」


 アクセルを踏んだのだろう。車が急加速し、向日葵の身体がシートに押し付けられた。


「私は、小夜子さんを信じていいのですか?」


 杏里が訊いた。


「運転は久しぶりですので……」


「運転の方ではありません。専務やインフェルヌスとの関係のことです」


「私は、お嬢様を守るように、社長に命じられています。でも、信じるかどうかは、お嬢様次第です。何も証明できるものはありませんので」


「私は信じるわ」


 向日葵は正直な気持ちを言った。以前から、小夜子はもう一人の姉だとさえ思っている。


「お父様と政府の対立は、ひどいのですか?」


 杏里が質問を重ねた。


「現段階では、それは些細ささいなことです。落ち着いてから詳しく説明しますが、私は社長と副社長の判断が正しいと信じています。次期社長次第ですが、政府には妥協すべきでないと考えます」


 小夜子が淡々と話した。


 イヤリングに内蔵されたウエアラブル端末は、絶えずホテルで起きた事件のニュースを報じていた。音声は皮膚を震わせる装置を通じて直接脳内に届いている。デジタル・アナウンサーは、ファントムがこれまで起こした殺人事件を時系列で説明し、鈴木夫妻の功績を伝えていた。それだけで新しい情報はなかった。


「これからどうするのです?」


 杏里が不安そうに身を乗り出していた。


「安全な場所に案内します。とりあえず情報端末のメインスイッチを切っていただけますか? お嬢様方を拉致しようとする者たちに場所を知られる可能性があります」


 向日葵は、小夜子の指示通りにウエアラブル端末とスマホの電源を切った。脳内に流れていた音が消えると、聞こえるのは車が風を切る僅かな音だけで、世界はこんなにも静かなのだと、小さな驚きを覚えた。


 杏里は違った。情報端末の電源を落とすことなく、質問を重ねた。


「小夜子さん。あなたは、人間ではないですね?」


「まさか!……そうなの?」


 向日葵は杏里に訊いた。


「だって、走って車に追いつくなんて、運動音痴の小夜子さんとは思えません」


「そういえばそうね。オリンピック選手でも無理だわ」


 それが、姉が小夜子を信じない理由なのだろう。


「お嬢様がおっしゃる通り、今の私は人間ではありません。でも、インフェルヌスやファントムの仲間などではありません」


「警察のスパイ?」


 向日葵は頭に浮かんだことをそのまま口にした。


「いいえ。……ボディーが人間ではないというだけで、私は社長秘書の嶋小夜子です。それは信じてください」


 その声に偽りはなかった。


「わかりました」


 杏里が情報端末の電源を切った。

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