第14話 悲劇の夜

 鈴木夫妻を賞賛するようにメディアのフラッシュが華々しく発光、パーティーの参加者は拍手を送った。


 誰もがステージに意識を向けていて、後方から近寄る者に注意を向けることはなかった。それでも強い力で肩を押されれば、不快に感じて声を上げることもある。


「押すんじゃないよ……」


 実際、そう口にする者たちが会場の出入り口付近にいた。そうした言葉も含め、会場から非難めいた声があがった。


 ざわつきがステージに向かって移動する。それが人垣を二つに割った。まるで人混みに透明の楔が打ちこまれているようだった。


 モーゼの前で海が割れたように、並ぶ観客の間に一本の裂け目ができるのが、ステージ上からはよくわかった。


 不吉なものを感じた大和がカレンを背後に隠した。その様子に向日葵は気づかなかった。濃厚なプリンに舌鼓したつづみを打っていたからだ。


 裂け目がステージまで到達すると、突然、大和の目の前に人の姿が現れた。ジャングルに潜む海兵隊員のような迷彩がほどこされた中性的な顔。ぴったり身体に張り付いた黒い服。肉体は細身で筋肉はオリンピックに出場する体操選手のようだった。


 突然現れた謎の人物に人々の拍手は止み、凍りつく会場。カレンの後ろの役員たちは、ただ蒼い顔をして立ち尽くしている。


「鈴木社長。私の要求を呑むか? それとも死ぬか?」


 明細が施された顔の薄い唇から低い声が漏れる。


「要求とは?」


 カレンに代わって大和が訊きかえした。


「インフェルヌスとの共同研究だ」


「その件なら断る。君がファントムなのか?」


 ファントムという言葉は池に投じられた石のようだった。「ファントム?」驚きと囁きが波紋のように広がった。


 二つ目のプリンに夢中だった向日葵の手が止まった。眼に留まったのはステージの後ろにある巨大なモニターだ。そこに映っているのは侵入者の黒い背中だった。


「命は大切にしろ」


 ファントムの薄い唇がゆがんだ。


「余計なお世話だ。命は天に預けてある」


 大和が己の信念を語った。


 ファントムが一歩進んだ。刹那、槍のように伸びたファントムの腕が大和の腹を貫く。ファントムはキスでもするように足を進めた。大和の両手がファントムの肩を力なく握る。


「天命」


 ファントムがつぶやいた。その刃が伸びて背後に隠れていたカレンにまで達し、切っ先は背中に達した。


 ファントムが下がると、支えをなくした大和が身体を〝く〟の字に折って倒れた。


「あ、な……」カレンの言葉にならない声が大和の後を追った。


 ファントムが大和の腹を切り裂き、肝臓を奪うと胸元に納める。一瞬の早業だった。


 立ち上がったファントムが爬虫類のような黒目で役員たちを一瞥する。


「我々の指示に従い、証拠を差し出せ。さもなければ、次はお前たちだ」


 役員たちの顔がひきつった。


「お前がファントムかぁ!」


 特殊警棒を手にした私服警察官たちがステージに駆け上がって打ちかかる。


 ファントムは余裕たっぷりに応戦。


 ――グェ!――人間のものとは思えない悲鳴と共に警察官の腕が2本、床に転がった。


 ――キャァー!――


 前列から女性の悲鳴があがる。それが引き金になって多くの客が出口に向かって走った。一部の客は立木のように硬直、腰を抜かして座り込む者もいる。


 大きな大人が邪魔で、ステージ上で何が起きているのかわからない。向日葵はステージに向かった。両親が心配だった。


「向日葵お嬢様。戻ってください!」


 小夜子の声など耳に入らない。


「どいて!……パパ、ママ!」


 向日葵は人混みをかき分けるようにして進んだ。時に、逃げ惑う人々に押しのけられ、弾き飛ばされた。


 突然、人間の壁が左右に割れて視界が開けた。


「エッ……」


 ステージをおりたファントムが向かってくる。黒い身体にまだら模様の顔、光のない瞳、灰色の唇……、それらが脳に焼き付いた。普段なら恐いもの知らずの向日葵も恐怖で足がすくんだ。


 ファントムが迫る。


 ぶつかる。……脳は警告したが、脚は動こうとしない。


 殺される。……脳内で言葉が固まり目を閉じた。


 その時、誰かに腕を握られ、強く引かれた。よろけた先で小夜子に抱きとめられた。


 驚いて目を開けると、目の前に通り過ぎるファントムの姿があった。それは半透明で、向こう側の人物や壁が透けて見えた。


 本当に幻なの?……眼球がファントムを追う。それは透明度を増し、数メートル先で完全に消えた。


「社長!」小夜子が人波をかき分けてステージに向かう。その後を向日葵と杏里が追った。


 ステージに上がると足下がヌチャヌチャと嫌な音がした。大きな血だまりだった。腕を切り落とされた警察官と、彼らを介抱する者たちがいる。


 鈴木夫妻の遺体は床に横たわったままだった。天井を見つめる大和にカレンが覆いかぶさるように倒れている。役員たちは遠巻きにして、呆然と見つめていた。


「お父さま!」「パパ!」


「触らないで」


 駆け寄り、すがりつこうとした姉妹を警察官が妨げた。


 遠ざけられた向日葵は、動かない両親を見つめていた。父親の傷は見えない。母の背中には5センチほどの刺し傷があって、赤い液体が流れ出していた。


 パーティー会場での警察の事情聴取は小夜子が対応し、姉妹はホテル側が用意した部屋で小夜子が戻るのを待つことになった。


 どうしてこんなことになってしまったのだろう。……向日葵に悲しみはなく、疑問と疲労を感じていた。姉も同じなのだろう。窓の外に広がる景色を見つめていた。


 ――トントン……、ノックの音がして専務の那須なすが顔を見せた。


「大丈夫かな?」


 老齢ともいえる彼の声は、ざらついたものに聞こえた。姉が言葉を探しているので向日葵が答えた。


「大丈夫なはずがないではないですか……」


「そうですな、申し訳ない。……お嬢様、検視やら何やらで、秘書の嶋は遅くなりそうです。とりあえず自宅まで送りましょう」


 彼に促され、姉妹は駐車場に下りた。じわじわと悲しみが込み上げてきた。


 彼が鈴木大和の車の運転席に座り、姉妹は後部座席に並んだ。


「SETの那須だ。緊急事態だ。鈴木大和宅へ、制限速度いっぱいで頼む」


『生体データ、承認しました。鈴木大和宅へ向かいます』


 自動運転システムが答えて車が動き出す。向日葵は窓に額をつけて景色に目をやった。姉は眼を閉じうつむいている。


 車はいつもの夜景の中を走った。しかし、向日葵が見る景色は、いつもの夜景と違っていた。それはプールの底から空を見るように滲んでいた。車が都心を出て闇が深くなると、心細さを覚えた。


「ところで、お父さまから何か預かってはいませんか?」


 那須の質問は唐突だった。


「なにかといいますと?」


 杏里が頭をあげた。


「小さなロボット、あるいは、その設計図です」


「さあ、私は何も……。向日葵、何か聞いている?」


「私は知らない」


 向日葵は姿勢を変えずに答えた。涙を見られたくなかった。


「そうですか。ナノサイズのロボットなのですが……。単体では目には見えないサイズなので、何らかのケースに入っていると思います。ご自宅に行けば、お父さまの大切にしていたものはわかりますね」


 那須の声は硬く、向日葵の胸を痛めた。


「ええ、それは……」


 杏里が言いよどむ。


 デリカシーのない高齢者だ。……向日葵は腹が立った。怒りを覚えると、両親を亡くした悲しみが少しだけえた。


「そのロボットがどうして必要なのですか?」


「それを提供しないと、私たちも社長と同じようになるのですよ」


 彼の言うことが向日葵には理解できない。


「どういうことですか?」


「ファントムに逆らわないという意思を示すために技術を提供するのです。それが踏み絵になるのですよ。そうしないと経営陣は、いずれ皆殺しにされます」


 踏み絵?


「警察には?」


 杏里が訊いた。


「警察は社長と副社長を守れなかった。……ファントムは独裁国家の大統領でさえ殺してしまうやつです。警察などに相談しても役に立ちません。第一、わが社は警察の保護対象ではないのです」


 那須の口調には批判めいたものがあった。それが警察に対してなのか、国家に対峙してきた両親に対してなのか、向日葵にはわからなかった。


 自動運転システムのランプが点滅し、警告を発する。


『後方から、急速接近する物体があります。追突に注意してください』


「なんだと?」


 那須がバックミラーに目をやる。


「何も見えないが……、システムエラーか?」


 まさか、ファントムが追ってきたのでは?……向日葵は身体をひねってリアウインドウから後方に目をやった。

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