2-2 鉄拳イザーク

「今のおまえに必要なのは」


 背中側から届いた声によって、あっけなくピーノは夢現の過去から現実へと引き戻された。


「あの頃のような、ここでの穏やかな暮らしではなかったのだろう。俺は随分と間の抜けた考え違いをしていた。本当にすまない」


 振り返ると、そこに立っていたのは齢五十を数えるとは到底信じられないほど筋骨隆々の偉丈夫だった。

 白髪の一本も見当たらず、黒々とした長い髪が緩やかにうねっている。

 男の名はイザーク・デ・フレイ、ピーノにとって恩人の一言では語り尽くせぬほどの人物だ。


 かつては屈強の傭兵であり、戦場で武器を失った後も素手のまま奮戦し続けた逸話から〈鉄拳〉の異名をとった豪傑だが、それ以上に彼には商才があった。

 敵味方を問わず敬意を込めて語られていた名声に加え、各地を転戦していった際に表裏を問わない人脈を広く築きあげたことによって、戦場から離れたイザークは一代で押しも押されぬ大商人へとのし上がった。


 いつどこが戦場となってもおかしくない時代だったにもかかわらず、彼が目をつけたのは「物資を運ぶ」ことであった。しかも海路ではなく陸路だ。

 大型船を使って大量に輸送ができる海とは違い、馬に頼った陸ではそれほど多くの荷を運ぶことができない。加えて道も荒廃している。

 野獣や野盗に襲われ、貿易商が命を落としたなんて話はどこにでも転がっていた。


 それでもイザークは陸運を主とした事業を興し、成功した。

 貿易商などから物資を預かって陸路での輸送を行うという危険な仕事への需要は意外なほど多く、かつ競合する相手がまるでいなかったからだ。

 彼の部下には腕に覚えのある強者が揃っていた。

 傭兵だった者、正規の軍人だった者、山賊や海賊だった者さえ珍しくない。

 そういった荒くれ者たちを束ね、組織化し、主要な都市間の物流を一手に引き受けている男、それがイザーク・デ・フレイである。


「夜、おまえが眠れていないことにも今朝まで気づけなかった。とんでもないぼんくらだな、俺は」


 腹の底から絞りだしてきたような声が振り返ったピーノの耳に響いてくる。傍らに並んだイザークの眉間には、切り傷と見まがうほど深い縦皺が一本できていた。


「辛気くさいなあ。寝られないってのも人生が長くなっていいじゃない」


 臀部についた草や土を払って立ち上がりながら、努めて明るくピーノは軽口を叩く。自分のことでイザークに心労をかけてしまうのは彼の本意ではない。


「ここはいい場所だよ、本当に」


「そうか」


 でもな、と眩しそうに目を細めながらイザークが言葉を続けた。


「静かで美しいこの湖畔で、おまえがゆっくりと死んでいくのを看取るつもりなど俺にはない。勝手を言って悪いが、近々別の街へ移ってもらうつもりだ」


「それは構わないけど、どこなの? ゴルヴィタ?」


 イザークが本拠を構えているのは現在レイランド王国の支配下にある都市ゴルヴィタであり、そこならばピーノもいくらか土地勘がある。

 しかし告げられた行き先はまだ彼が足を踏み入れたことのない場所だった。


「スイヤールさ。耳にしたことくらいは当然あるだろう?」


 そこは富と悦楽が集まっている巨大な街だとピーノも情報として知ってはいる。ついでに花の甘い蜜へと吸い寄せられる虫たちのごとく、悪党連中も蠢く街。

 人呼んで「悪徳の都」スイヤールである。


「いいところだぞ。何せあそこにゃありとあらゆる誘惑があるんだ。いつの日か大人になったおまえとエリオを連れて、浴びるほどの酒を飲みながら綺麗どころの女たちと豪遊するつもりだったんだがなあ。無論、ハナには内緒で」


「ばれるに決まってるじゃない。殺されるよ、三人とも」


 苦笑混じりにピーノは肩を竦めた。

 男三人で羽目を外してバカみたいにはしゃぐ、はたしてそういう未来もあり得たのだろうか。そんな選択もできたのだろうか。

 いずれにせよ、今の彼にとってはどれだけ願っても手の届かない話だ。


「でも、ぼくなんかが行っても場違いなんじゃないの? そもそも田舎者だし」


「なあに。都暮らしの人間なんて、出身をたどれば半分くらいは田舎の出さ。あの街には信頼できる友人たちがいてな。おまえの身柄はそいつらに託すつもりだ」


 ピーノの肩に節くれだった力強い手が置かれる。

 今のおまえに必要なのは、と再びイザークが口にした。


「自らの手で守るべき存在じゃないかと思うんだよ。庇護者ではなく」

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