2章 悪徳の街の罪と罰と希望
2-1 それは過去の幻
ピーノがマダム・ジゼルの館へとやってくる直前の話だ。
えらく年齢の離れた友人と呼ぶべきか、それとも父親代わりと呼ぶべきか。
三十歳以上も年長であるイザーク・デ・フレイという男の世話になっていた彼は、心身の傷を癒すべく人里から遠く隔たったヌザミ湖のほとりで静養していた。
昼は湖で魚を獲り、ときどきはイザークと言葉を交わす。
そして獲った魚を調理し、食い、日が沈めばあとは夜風に吹かれながら、眠れない夜の時間が緩やかに流れていくのをひたすら待つのみだった。
離れた場所から、闇夜を切り裂く野獣の哭き声が聞こえてくる。
それを合図のようにして、水際近くの草むらに座りこんでいるピーノを湖の彼方から昇った朝日が照らしはじめる。
かすかに揺らめく水面には光の帯ができていた。
これまで暗闇に明かりを灯していた星々は眩しい輝きを放つ太陽によって追い払われ、いずこともなく夜が消えていく。
だがそんな幻想的な風景を前にしても、ピーノの目はまったく焦点が合っていない。彼の瞳にはまったく別の光景が映っていたからだ。
まだほんの一年ほど前、ウルス帝国からの脱走に成功した彼は、ゴルヴィタという都市を経たのちに風光明媚なこの地で穏やかな日々を過ごしていた。
連れだって逃げだしたエリオやハナとともに。
もしかしたらあの頃が最も幸せな時期だったのかもしれない、と思っていたのはピーノだけではなかったのだろう。
鷹揚に見守ってくれていたイザークもそう感じていたからこそ、エリオとハナを失ったピーノを再びここへ連れてきたのに違いなかった。
今、在りし日の幻を視ている彼の眼前にいるのは、年相応にはしゃいでいる三人の少年少女だ。
「おらッ!」
「甘い甘い」
「おまえがな!」
「ところがどっこい」
互いに上半身裸となり、浅瀬で遊びの延長としての近接格闘を繰り広げているピーノとエリオ。
たしかこの時は「顔を三回水面につけてしまった方の負け」という取り決めでやり合っていたとピーノは記憶している。
そんな彼らから少し離れた場所で、あきれたような視線を送りながらぶんぶんと釣竿を振り回している褐色の少女、ハナ。
さすがに軽装ではあっても少年二人のように諸肌脱ぎとはなっていない。
「あのさ、どっちでもいいから早く決着つけてくんない? あんたらが暴れ回ってるとこのあたりに魚が寄ってこないんだから」
そして速やかに食材調達を手伝え、と要求を突きつけてくる。
「んなこと言ってもなあ。こいつはすばしっこいからなかなか捕まえられねえんだよ。おいピーノ、ここはひとつ、ハナの要望に応えるためにも力比べといこうぜ」
「やだよ。何でわざわざ負けにいかなきゃならないのさ」
「美しい敗北ってのも人の心を打つもんなんだぜ? てなわけで潔く散れい」
「へえ。じゃあ負けてあげる代わりに夕食の燻製肉は全部ぼくがもらうけど、いいかな」
夜の食卓に少しだけ出される燻製肉、二人はそれを賭けて戦っていたのだ。
総取りか無か。
焼いた肉もいいが、手間暇かけて燻した肉にはまた一味違った魅力がある。
「ふざけんなって。勝つ意味そのものがなくなるじゃねえか」
「はい交渉決裂ー」
言い終わるか終わらないかのうちにまた勝負が再開された。
近づいては離れてを繰り返しつつ、的確な打撃を数多く放つピーノに対し、速さに劣るエリオは翻弄されているように見える。
だが膂力に勝る彼の一撃は常に必殺だ。掴まれてしまっただけでも敗北を覚悟しなければならない。言ってみればこれは距離をめぐる攻防であった。
緊張感に満ちた遊びへ興じる二人をしかめっ面で眺めていたハナだったが、とうとう諦めたのか釣竿を投げ捨ててしまった。
「もう頭きた。あんたらお仕置き決定ね」
大きく息を吸いこみ、朗々と節のついた文言を彼女が唱えだす。
ゆらゆらと頭を左右に揺らし、素足が軽快にリズムを刻んで地面を踏みはじめる。
右腕で宙に大きく弧を描いたかと思えば左腕は不規則に跳ねるような動きをみせた。
初めて目にする型であったため、この奇妙な踊りがどういった結果をもたらすのかはピーノにもわからない。
ただ、怒れるハナから何らかの魔術を食らうことだけは間違いなかった。
舞踏こそが魔術への扉を開く彼女の鍵だからだ。
慌てて相棒を説得にかかる。
「やばいよ、ハナが踊りだしたよ。さっさと謝りなよエリオ」
「そりゃこっちのセリフだっての」
しかし言い争っているだけの時間の猶予はもはやない。
ハナの周囲にはすでにいくつかの光点が浮かんでいる。魔術を行使するための力、それを世界から引きずりだすための扉がいくつか開かれた証だ。
こうなってしまえばもう、ピーノもエリオも謝罪をするより他になかった。
「ごめんハナ、ぼくらが悪かった」
「おれらもちゃんと魚を獲るからさ、な?」
勘弁してくれませんかねえ、とエリオが上目遣いをしつつ頭を下げる。
が、ハナからは何の返事もない。
代わりに彼女から投げつけられたのは大きな水の塊だった。優に人の頭を超えるほどの大きさであり、美しい球形に整えられた水の塊。
その水球がまったく身構えていなかったエリオの顔面へと直撃し、彼は衝撃で後方へと倒れてしまい、盛大に水しぶきを上げてしまった。
「顔が三回水についたら負けなんでしょ。じゃあエリオはこれで一気に二回ね。おっと、逃げんなピーノ」
飛んできた一つめの水球はどうにかかわすも、ハナの追撃は早かった。すぐにピーノもエリオ同様の醜態をさらす羽目になる。
髪までびっしょりと濡れ、浅瀬でようやく体を起こした二人の少年を見下ろしながらハナが告げた。
「感謝して。三発目は同時に食らわせてあげるから」
先ほどまでの不機嫌さもどこへやら、屈託のない笑みとともに。
ピーノは彼女の笑った顔がとても好きだった。
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