1-5 夜明けを待つ

 日が沈み、夜になればマダム・ジゼルの館は本来の顔を見せる。

 歓楽街でひしめき合うようにして建ち並ぶ他の娼館とは一線を画しており、この館においてはそれなりの財を成し、人品骨柄まで吟味された者たちだけが客として認められるのだ。

 逆に客側としても「マダム・ジゼルに選ばれた」という栄誉を得ることができる。

 まぎれもなく、マダム・ジゼルの館は高級娼館であった。


 政治家に貴族、豪商の思惑が絡み合う伏魔殿のごときスイヤールにおいて、ここまでの地位を確立させたマダム・ジゼルには相当な政治的手腕が備わっているという他ない。


 この夜、いつもと同じようにピーノは静まりかえった食堂で待機している。

 手元に置いた蝋燭の炎だけが揺らめいているこの部屋にはもう他に誰もいない。

 とっくに食事の時間は終わっていた。むしろ朝食の方が近いくらいだ。


 少女たちの教育や世話のほとんどを引き受けているコレットは非常に多忙であり、普段ならほとんど客をとることもない。

 しかしこの日は古くからの付き合いである太客と久々に一夜を共にしている。


 ソフィアは最近よく指名をもらう銀行家の子息と一緒に、劇場へ近頃流行りの芝居観覧に出掛けていた。

 送られて帰ってくるのは夜が明けて昼前になるだろう。


 呼吸する音が響いているように感じられるほどの静けさは少し息苦しいほどだ。

 しかしこれがピーノにとっての夜だった。彼はエリオとハナを失ってから、ただの一度も眠ることができないでいた。

 眠れない夜は長すぎる。ときどき、無性に誰かと話したくなるのだ。


「だめだな、ぼくは」


 沈んでいく澱のような気持ちをどうにか紛らわそうとピーノは立ち上がった。


 台所の隅には小さいながらも常に火が焚かれているため、食堂に比べるといくらか明るい。

 なので蝋燭は置いたまま台所へと向かい、棚からある薬草を取りだす。昼に彼が買いに出掛けていた品だ。

 鉤爪草という俗称で知られており、折れ曲がった葉がまるで獣や鳥の爪を連想させる形であることからそう呼ばれている。


 だが乾燥させたこの鉤爪草を使って淹れたお茶は、見た目とは裏腹にとても甘い香りを漂わせる。

「疲れにもよく効くから」とかつて教えてくれたのは旅慣れたハナだった。


 物音一つたてずに用意をすませ、再び食堂へと戻ってきて腰を下ろす。

 だいぶ短くなってきた蝋燭の炎が錫でできた容器を満たすお茶を照らしている。遠くないうちに、この蝋燭も燃え尽きて消えてしまうのだろう。


 毎晩、ピーノはできるだけ何も考えないように努めていた。どうせろくなことを思い出しはしないのだから。

 でも今夜は気がつけば頭の中にクロエの言葉が浮かんでしまう。

 どこにも行かないでいい、そう言ってくれた彼女の言葉が。


 熱かったお茶がいつの間にか温くなってしまうほど堂々巡りを続けていた彼の耳に、廊下からかすかな足音が聞こえてきた。

 こんな中途半端な時間に誰が、と訝しがりながらピーノは体を浮かせる。

 開いた扉の陰から顔を出したのはマダム・ジゼルだった。


「へえ、自分のために淹れてるなんて珍しい」


 そう口にしながら、自然な様子で向かい合わせになるよう腰掛けた。

 彼女の言う通り、普段であれば仕事を終えてきた女たちのために鉤爪草のお茶を用意するのがピーノの役目となっている。


「私にももらえるかい?」


「淹れ直すよ。ずいぶん冷めてしまったから」


「いいよ。時間もかかるし、そのままで大丈夫」


 ピーノに断りなく、彼のお茶をぐいっと喉へ流しこむ。

 慌てて覗きこみ確認してみれば、およそ半分にまで減ってしまっていた。


「そのままってそういう意味なの? ぼくの分は?」


「ん? 一緒に飲めばいいじゃない。それとも恥ずかしいの?」


 悪戯小僧みたいな笑顔でピーノをからかってくる。


「ま、こんな美人とじゃね。緊張するのもわからなくはない」


「自分で言うかな、それ」


 呆れてみせたが、実際にマダム・ジゼルの美貌が飛び抜けたものであるのは衆目の一致するところであった。

 すでに四十近い年齢でありながらいささかの衰えも見られない。

 だが彼女の真の魅力は、その器の大きさにあるとピーノは認識していた。いつだって陽気で大らかで、相手を丸ごと包みこんでしまうような、そんな女性なのだ。


 小柄なため、長身のコレットと並ぶと優に頭一つ分くらいの段差ができる。

 自分とエリオが並んだ姿も他人の目からこのように映っていたのだろうか、そうやってピーノが自身と重ね合わせたことも両手の指では足りないほどだった。


 ほとんど黒に近い濃さである茶色の髪をかき上げて彼女が言う。


「本来であれば今夜、あの子にとって初めての仕事が待っていたんだ。娼婦としてのね」


 淡々とした口振りのマダム・ジゼルだが、ピーノに事情を説明されてからはずっとクロエに付き添っていた。当然、初仕事など延期だ。


「でも、私は少しほっとしているんだよ」


 そう述懐した彼女の目元は優しい。


「ねえピーノ、知っているかな。クロエが密かに君へ憧れていたってこと。もちろん色恋沙汰の話じゃなく、レベッカをはじめとするうちの子たちを、君が体を張って守ってくれていたから」


「──ぼくにはたまたま、それをできるだけの力がある。他に使いようもない力なんだ、間違っても憧れられるようなものじゃない」


「君らしいねえ、その言い方」


 マダム・ジゼルの苦笑いがぼんやりとした蝋燭の灯りに浮かびあがる。


「クロエはね、それはもう頑固な子なんだ。自分もみんなを助けなきゃって、たぶんそんなことばかり考えていたんだと思うよ。あの子のセス教嫌いは筋金入りだけど、そこらの俗に塗れた教父どもよりよほどセス様とやらの教えを体現しているよね」


「だから娼婦になることを望んだ、と?」


 返事を待つことなく、ピーノは先を続けた。


「思うんだけど、クロエが本当に憧れているのはジゼル、あなたでありコレットであるんじゃないかな」


「んー?」


「ここにいる者は全員、あなたたちに対してどれだけ返しても返し切れないほどの恩がある。でも、その恩を返そうとしたってきっとあなたたちは笑いながら手を横に振るだけなんだ。大したことはしていないとか何とか言ってさ。それがわかっているからこそ、クロエは自分より年下の子たちへあなたたちの想いを繋いでいこうとしているんだよ」


 日々ここで彼女たちと生活を共にしていればすぐに気づくことだ。マダム・ジゼルとコレットなしではこんないびつな大家族など成立しない。

 当のマダム・ジゼル本人はわかっているのかいないのか、ぽつりと一言呟いた。


「そんないいもんじゃないんだけどな」


 そのままぐいっと身を乗りだし、思いっきり顔を近づけてくる。


「だって。憎くて憎くて仕方がないこの世界へ復讐したかっただけなんだから、私もコレットも。それはもう、とーっても穏やかな復讐をね」


「穏やかな、って」


 ちょっと意味がわからない、とピーノは首を傾げる。


「ふふ、考えてみて。世界から見捨てられたみたいな女の子たちが、そこからたくましく生きて幸せになったなら、これ以上ないくらいとても痛快な復讐劇になるじゃない。幸せになってやったぞざまあみろ、ってさ」


「それって復讐……なのかなあ。でも、いいね」


「でしょう? とはいえ、まだまだ不甲斐ないんだけど」


 再びピーノのお茶を奪った彼女が、今度は最後まで一気に飲み干してしまった。

 そして勢いよくカップを卓上へ叩きつける。


「決めた。クロエにはもう少し待ってもらう。あの子の選択を尊重はするつもりだから、時間が経っても結論が変わらないようであればそのときは受け入れる」


 誤解しないでおくれよ、と彼女はピーノの目を真っ直ぐに見据えてきた。


「私自身、娼婦という仕事には誇りを持っている。自分で選んだ生き方だから。だけど、いえ、だからこそと言うべきなのかな、どれだけ厳しい道なのかもよくわかっている。お金と引き換えに荒れ野を裸足で歩むみたいなものさ。他に選べる道があるのならそっちへ進むべきなんだよ。

 私はねピーノ、ここの子たちが可愛くて可愛くて仕方がないんだ。これ以上心ない言葉と暴力にさらされて、傷つきながら生きてほしくはないんだ」


 一瞬の沈黙が訪れたあと、話に聞き入っていたせいですっかり無防備だったピーノの額を、マダム・ジゼルの指先が軽やかに弾く。


「あいたっ」


「当然、君にもだからな!」


 ピーノは思わず声を漏らしてしまった。まるで痛くないのに。


「はっはっは、じゃあ私は寝るぞー」


 破顔一笑してマダム・ジゼルが席を立つ。


「うん、おやすみなさい」


 食堂から去っていく彼女の後ろ姿を見送りながら、ピーノはどうしてクロエが彼の過去を知っていたのかについて聞きそびれたのを思い出していた。


 まあいいか、と独り言を口にして新しい蝋燭の準備へと取りかかる。炎は明るい輝きを放っているものの、そろそろ終わりの時を迎えようとしていた。

 夜は長い。夜明けまでにはまだ随分とかかりそうだ。

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