1-4 取るに足らない事件
ひとしきり心の内を吐露したことで整理がついたのか、それとも大した反応を返せなかったピーノに見切りをつけたのか。
何でもなかったかのようにクロエはあっさりと話題を変え、歩きながらひたすら喋り続けた。
マダム・ジゼルの誕生日が近いこと、客でもないのにソフィアへしつこく言い寄った貧乏貴族が足蹴にされたこと、レベッカの身長が少し伸びたこと。
その都度ピーノも相槌を打ち、彼女に気持ちよく話をさせようと努める。
顔なじみである市場の店を何軒か巡り、帰路についても他愛もない会話はまだまだ続きそうだった。
だが、大通りを折れて裏通りへと戻ってきたそのとき、事件が起こる。
掏摸らしき男がクロエに近づきざま、彼女の財布を抜こうとしたのだ。
もちろんそれを目敏いピーノが許すはずもない。
素早く男の細い手をつかみ、容赦なくねじり上げて石畳へと組み伏せた。
しかし結果として彼の判断は誤りだった。建物の陰から現れた二人組の男たちによってクロエが捕らわれてしまったからだ。
明らかに荒事を生業としている空気をまとった男たちである。
起こってしまったことへは悔やむよりまず対処をせねばならない。逡巡することなくピーノは掏摸から手を離し、クロエをどう助けるかの算段に入る。
掏摸の男は一目散に逃げだしたがそんなことはもうどうでもいい。どうせ陽動に使われただけだ。
弄ぶようにして彼女の首筋へ鋭利なナイフを何度も押し当てながら、青年といっていい若さの男が口を開いた。
「久しぶりだなあ、くそ野郎。おまえに礼をする機会をずっと待ってたんだよ」
だがピーノには彼の顔など記憶にない。
「ちっ、誰だかわからねえってとぼけた面だな。メルラン一家の生き残りって言やあわかるか。なあ、おい。てめえがうちの組織をぶっ潰してくれたせいで、あれからおれがどれだけ惨めに生きてきたと思ってる。あんな屑みてえな掏摸一人使うのにも頭を下げなきゃいけねえんだぞ? ええ?」
粘っこく絡むような青年の物言いだったが、ようやくピーノも今回狙われた事情に思い当たった。
確かに、スイヤール市を牛耳っていた犯罪組織メルラン一家を壊滅させたのは彼だからだ。
「そう、あいつらの仲間か。なら余計わかってるよね。どうせ使いっ走り程度だったきみがぼくに勝てるはずもないってことくらい」
「おっと動くな!」
一歩足を踏みだそうとしたピーノへ慌てて警告が送られてくる。
ぎゅっとナイフが押しつけられたせいで、クロエの顔がさらなる恐怖に歪んだ。
ごめん、と心の中でピーノは彼女へ詫びる。これはぼくの失態だ、と。
それでも彼女を助けだすことに依然問題はない、とも考えていた。
いつでも殺せるほどに目の前の青年とピーノとでは力量に差がありすぎる。
問題になるとすれば、いまだ一言も発していないもう一人の男の存在だ。
ピーノの視線に気づいたのか、青年も頼もしそうに傍らの男を見遣る。
「大きな声じゃ言えねえが、このお人はあの悪名高いウルス帝国軍にいたそうだからな。もっと前からスイヤールに来てくれてりゃあ、と思うがこればかりは仕方ねえ。ま、てめえの命さえとれればこの女は生かしておいてやるから安心して死ね」
どうやら今回のためにわざわざ依頼した助っ人らしい。
陰鬱な目つきに無精髭、その人相を見れば帝国瓦解後の身の振り方など容易に想像がつく。
しかし当の男は、値踏みするかのようにじっとピーノを睨んでいるだけだ。
「ちょっと。ぼーっとしないでくださいよ旦那。あんたにゃ身銭切って要求通り高い金払ってんだ、こいつの始末をとっととお願いしますぜ」
じれったそうな青年に焚きつけられてなお、男は動こうとしない。
そんな彼がようやく「おい、おまえ」と声を発した。意外にも少し甲高い声だ。
「ん? ぼくのこと?」
「その顔、その赤い髪……どうにも見覚えがある」
予想外の問いかけにどう返答するか、ピーノはわずかに迷った。
まったく面識がないとはいえ、同じウルス帝国軍にいたのであれば顔を知られていてもおかしくはない。
同時に、これまで隠してきていた彼の素性が露呈してしまうことでもある。
それでも優先するべきはクロエの救出、そこが揺らぎはしなかった。
「驚くにはあたらないよ。会ったことがあるんだろうね。たぶん、帝国軍でさ」
クロエを助けて、マダム・ジゼルの館を出ていく。咄嗟にそう腹を括った。
寂しさがないといえば少しばかり嘘になる。
だがピーノにとってこれからの自分の人生など、いつかどこかで朽ち果てるのをただ待つばかり、とりたてて惜しむようなものでもないのだ。
相対する男は「ううむ」と唸った。
「やはり〈名無しの部隊〉にいた、赤毛のピーノか……。同じく裏切った剛腕エリオともども、潜入してきた帝都宮殿で死んだと噂が流れていたが。まさかこんなところで遭遇する羽目になろうとは」
男の決断に時間はかからなかった。
「悪いがおれはこの仕事から下りさせてもらう。こんな怪物とやり合ったんじゃ、命が千や万あっても足りやしない」
返すぜ、と言うが早いか、男は懐から取りだした巾着袋を無造作に投げ捨てた。
石畳に落ちた音から判断するに大量の貨幣が報酬として入っていたようだ。
「お、おい! ふざけんな! こっちは人質までとって圧倒的に有利なんだぞ!」
取り乱した様子の青年へ、男は諦観をにじませながら応じる。
「小僧。目の前にいるのはな、そういうのでどうにかなる相手じゃないんだよ。おれたちみたいな単なる使い捨ての兵士とはわけが違う」
「どうにかしろよ! してくれよ!」
二人の内輪揉めを冷ややかに眺めていたピーノだったが、そろそろ結論を促さなければならない。
「で、どうするの」
「もちろん、おれにはあんたと争う気なんて一切ない。自分の身の程はわきまえているつもりだからな。虫のいい話とは思うが、どうかこのまま見逃してほしい」
そう言って男は敵意がないことを示すように両手を上げた。
ピーノとしても、彼からの提案を断る理由はなかった。
「そうだね……なら、二度とこの街に近づかないって条件で手を打とうか」
「言われるまでもないぜ。あんたみたいなのがいたんじゃ、裏社会を渡り歩いて飯を食ってるこっちは商売どころじゃない。命あっての物種だからな。都スイヤールで荒稼ぎ、なんて欲はたった今捨てた」
「交渉成立。行っていいよ」
ありがたい、と軽く頭を下げた男は警戒を緩めず静かに後ずさりし、そのまま細い路地へと姿を消した。
「嘘だろ……?」
呆然と立ち尽くす青年だけがこの場に取り残された。
「さて、後はきみだけだ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、ピーノが距離を詰める。
ほんの一瞬だった。
彼の動きは止まらない。クロエの首筋に突きつけられているナイフの刃を人差し指と中指とで挟みこみ、二本の指だけで根元から一気にへし折ってみせた。
何が起こったかさえ理解していない青年の鳩尾を蹴り飛ばし、ようやくピーノはクロエの身柄をその手に取り戻す。
「ごめんね、ずいぶんと怖い思いをさせてしまった」
安心したせいか、力が抜けて膝から崩れ落ちそうになる彼女を優しく抱き止め、そのままゆっくりと座らせてやる。
ピーノにはまだやるべきことが残っていた。
災いの種が芽を出したのであれば、すぐに摘みとっておかなければならない。
腹を押さえてうずくまっている青年はピーノを見上げながら歯をがたがた鳴らし、哀れなほどに怯えていた。
まるでこれから屠殺されるのがわかっている羊のようだ、と遠い過去の風景に重ねながら冷徹に見据える。
しかし、そんな彼の腕が震える手でつかまれた。クロエだ。
「もういい、もういいよピーノ。こいつにもさっきの人みたいにこの街を出ていってもらえればそれでいいから。ね?」
人質となっていた彼女自身から懇願されれば、さすがにピーノの心も揺れる。
筋違いの復讐を目論むような者を野放しにするのは賢い選択とはいえない。ましてやかつてのメルラン一家の生き残りだ。
だが彼女の目の前で血を流すのにも抵抗があった。
折り合いをつけるようにしてピーノは大きなため息をつく。
「クロエがそう言うなら」
それから青年へとぐっと顔を近づけ、その喉を潰す寸前まで握り締めながらにっこりと微笑んでやる。
「スイヤールであろうとなかろうと、次に会ったら必ず殺す。せいぜい遠くまで逃げることだね」
恐怖のあまり涙目になっている青年を解放して、この小さな事件は終わった。
そしてスイヤールにおけるピーノの日々もまた。
「送るよ」
彼の口から出てきた言葉は「帰ろう」ではなかった。
なのにクロエはまだピーノの腕をつかんだままだ。
「知ってたから」
聞き逃してしまいそうなくらい、か細い声だった。
「ピーノのこと、本当はみんな知ってる。きみがウルス帝国出身で、おまけに軍にもいたと知ってて、その上でわたしたちはきみを受け入れたんだから」
より一層、クロエの手に力が込められる。
「だから、どこにも行かないでいいんだよ」
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