第52話 踏み潰された宝物
(ジェセル、様……っ!!)
舌なめずりでもするかのようにニヤニヤと楽しそうに笑いながら、その人、ジェセル・ウィンズレット侯爵令息が私のもとに歩いてくる。
「……っ、…………っ!!」
途方もない恐怖で頭が真っ白になった。何?!……一体、何をするつもりなのこの人たち!まともじゃないわ……!
ジェセル様は私が倒れているソファーにどっしりと腰かけると、その手を伸ばして私の頬にゆっくりと指で触れる。輪郭をなぞるようねっとりと触られ、一瞬にして全身に鳥肌が立った。
「あなた天才だから、これから何が起こるかはもう分かってるわよね?それとも、一応教えてあげた方がいい?」
エルシー嬢は窓のカーテンに手を伸ばしながら明るい声でそう言った。シャッ、という無機質な音とともにカーテンが閉められると、部屋の中は不気味に薄暗くなった。恐怖のあまり全身に汗がうかぶ。心臓が大きく脈打ち、呼吸がどんどん早くなる。
「あなたはね、メレディアさん。放課後のこの第三応接室で、ウィンズレット侯爵令息と密会していたの。王太子の元婚約者という、この王国の筆頭公爵家のご令嬢という立場でありながら、ここで情事に溺れていたわけ。きっとすごくストレスが溜まっていたのよねぇ。小さな子どもの頃から勉強ばっかりで、未来の王太子妃になるために厳しく躾けられてきてさぁ。それなのに肝心の王太子は私にベタ惚れになって、あなたのことあっさり捨てちゃった」
エルシー嬢は悪魔のように微笑みながら、向かいのソファーに腰を下ろす。つい少し前まで私に見せていたあの弱々しい姿は、もう影も形もなくなっていた。まるで別人のよう。彼女は背もたれに寄りかかると、そのまま足を大きく上げて組み、さらに語り続ける。
「完全無欠の公爵令嬢のはずなのに、惨めだったのよねぇ。せめて第二王子と結婚できればと必死にトラヴィス殿下に言い寄りながら、あなたはそのかたわらウィンズレット侯爵家の次男にも愛想を振りまいていたの。好意を寄せられてまんざらでもなかった。そうよね?そのうち魔が差して身を委ねるようになっちゃったわけよ」
ジェセル様はエルシー嬢の口上を聞きながらクックッと楽しそうに笑っている。気付けば私の瞳からは涙が次々に零れていた。
「そのうちあろうことか、学園の中にまで情事の相手を手引きするようになってしまった。私は今日、たまたまその現場を目撃してしまったのよ。凄まじいショックを受けて、泣きながら教師たちを呼びに行く私。だって信じられる?あの気高き公爵令嬢が、誰もが一目置いてる完全無欠の公爵令嬢様が、学園内で部外者の男とまぐわってるのよ。純真無垢な乙女の私には耐えられる光景じゃなかったわぁ。……で、あなたはもう既成事実があるわけだから、このウィンズレット侯爵と結婚するしかないの。そしてトラヴィス殿下は不埒なあなたに愛想を尽かして別の乙女と結ばれることになるでしょうね。ふふ。アンドリュー様よりだいぶ立派なあの方ですもの。彼なら……」
「おい、もういいだろ。いい加減黙れ。そろそろやらせろよ」
「ああ、はいはい。どうぞ~」
ジェセル様はエルシー嬢を制すると、私に向き直りニヤリと笑った。
「……ったくよぉ。何が“特定の殿方と親しくする気はない”だ。王子には愛想を振りまいておきながら、お高くとまりやがって」
パンッ!
(──────……っ!)
頬に衝撃が走ったかと思うと、その部分にジリジリとした痛みと熱が広がる。
そんなに強い力ではなかった。けれど、生まれてこのかた男の人に暴力など振るわれたことのなかった私にとってはあまりにも大きなショックだった。
「あーあー可哀想に~。泣いちゃってるじゃないの。ふふふふふ…」
「いいんだよこれくらい。これまで袖にされてきた憂さ晴らしだ。ははは」
そう言うとジェセル様は私の両手首をグッと掴み、強い力で頭の上に押さえつけた。
「や……、めて……!止めて、よ……っ!!」
必死で抵抗した。冗談じゃない。ここでこんな下衆な男に手籠めにされるくらいなら、もう死んだ方がマシだ。
「チッ。……まだ抵抗する力が残ってるじゃねぇか。面倒くせぇな」
「えぇ?もっと嗅がせる?」
ジェセル様に強く掴まれた手首をどうにか振り解こうと無駄な足掻きをしているうちに、私の左手首から大切なブレスレットが外れ、床に落ちてしまった。シャラ…、とチェーンが手首を伝う感覚に、慌ててその行方を目で追う。
すると靴音を立てながらこちらに歩いてきたエルシー嬢がその足を伸ばし、私のブレスレットを踏みつけると、床を滑らせながら自分の方に手繰り寄せた。
「っ!や……やめ……」
エルシー嬢は足を高く上げ、思いきり力を込めてその足をブレスレットの上に振り下ろした。
パキ、という小さな音が聞こえた。絶望して彼女の足元を見つめる。エルシー嬢の靴の下から、チェーンが千切れたブレスレットが現れた。
「…………っ!!ひ、どい……!」
どうして。
あれだけは、絶対に壊れてほしくなかったのに。
毎日肌見離さず、大切に大切に磨いていたのに。
胸が張り裂けるほどの悲しみに、涙が次々と溢れてくる。そんな私を嘲笑うかのように、エルシー嬢は何度も何度もブレスレットを踏みつけた。ドン!ドン!と彼女の靴が鳴るたびに、私の心がズタズタに切り刻まれていくようだった。
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