俺と過去の落とし物




俺は右手で拳を作り、何の躊躇いもなく目の前の頭に振り下ろした。が、拳は相手の頭をすり抜けてフローリングの床に激突した。結果として俺の右手の第二関節に激痛が走り、イライラが増しただけだった。無駄だとわかっていながら右足の踵でも同じことを試したが、結果は言わずもがなだ。

「おい!いつまで寝てんだ、起きろ!腐れ天パ!」

仕方なく俺の部屋の床で大の字になって寝ている幽霊に声をかける。まるで自分の部屋のように寛ぎやがって腹が立つが、こいつに物理攻撃は通用しない。こうして怒鳴る以外こいつを叩き起こす方法は無いのだ。

俺の何度目かの声でそいつはようやく目を覚ます。不快だからその口からはみ出しているヨダレをさっさと拭いてほしい。

「おお……おはよう我が友。もう朝か」

「八時五十分だ。俺はもう学校に行く。お前はさっさと出てけ」

そして俺は視線で勉強机の上を指した。そこにはこいつの妙ちきりんな着物が乗っている。きれいに畳んであるのは母の仕業だ。

「オレも行く!五分で支度するから待っててくれ!」

幽霊は飛び起きて寝間着を脱ぎ捨てると、着物を着始めた。俺は放り出された寝間着を見て苦々しく眉を寄せる。確かこれは俺が貸してやったものだが、返す時はこうなのか?俺はため息をついて寝間着を拾い上げた。

部屋を出て階段を下り脱衣所へ向かう。洗濯機の前に置いてあるカゴに寝間着を放り投げた。これで母が洗濯してくれるだろう。そういえば、この寝間着はこっちの世界の物なのに、あいつが幽霊モードになった時は寝間着も一緒にすり抜けた。幽霊が着るとこの世の服も幽霊仕様になるのか?不思議だ。いや、今まで見てきた幽霊もたいてい服を着ていたが、あれは死んだ時に着ていた服が幽霊仕様になったのだと考えれば、あいつのも不思議ではないのか?なんにせよ奇っ怪な話であることは確かだ。

俺はそのまま玄関を出ることはせず、いったん二階に上がった。あいつがちゃんとこの家を出るところは見届けなければならない。俺が自分の部屋のドアを開けると、そいつはちょうど着替え終わり、細長い布を首にかけたところだった。

話を聞くに、どうやらこいつは神様らしい。神様だから強い力を持っていて実体化できる……らしい。ちなみに実体化するには力を使うので長時間の実体化は無理だし実体化すると疲れる、らしい。「らしい」ばかりなのは聞いただけの話だし、確認のしようがないから仕方ない。だが「自分は神様だ」なんて言葉そう簡単には信じられないものである。

「準備できたぞ!」

「母さんがお前の分の朝ごはんも作ったらしいけど」

「食う!」

「そうか。俺は学校に行く」

父は仕事で朝早く家を出て行ったし、母は弁当屋のパートでもっと早く家を出た。今この家には俺達以外誰もいない。こいつを放置して学校へ行ってもいいが、やはりこいつが家を出るところは見届けたい。

「えー!オレが食い終わるの待っててくれよ!」

「無理だ。家を出るまであと一分しかない」

俺はスマホを取り出して、現在の時刻が八時五十三分であることを確認した。しかも実際のところ、九時開始なのは一時間目であって朝のショートホームルームはすでに始まっているのだ。まぁ野洲高校ではクラスの半分以上が朝のホームルームにいないので、これに間に合わなくても俺の心は痛まないが。そもそも、野洲高では一時間目に間に合わない奴が多いくらいである。

「でも朝ごはん……」

「歩きながら食えばいいだろ。お前どうせ見えねーんだから」

俺がドアを閉めると、「そっか!和輝頭いいな!」と言いながら奴はすり抜けて出てきた。馴れ馴れしく名前を呼ばないでほしい。二人でしか会話できないのだから「ねぇ」や「お前」で通じるだろうが。会った翌日で友達気取りか。

俺が階段を下り始めると、奴はすっと背後から俺の身体をすり抜けてリビングの方へ姿を消した。心臓に悪いから人の身体を通り抜けるなよ。

俺が階段を下りて玄関でローファーを履いていると、リビングからロールパンを手にした奴が出できた。

「ちゃんと皿流しに置いといたか?」

「見てくれよこれ!パンと野菜だぞ!」

「……ああ、そうだな。客がいるから母さん頑張ったんだろうよ」

「すげー!うめーよこれ!」

幽霊は野菜のサンドされたロールパンにかぶりついて満足気に頬張った。普段は卵焼きや弁当のおかずの余りなどしか出てこないのに、母さんも気合いを入れたものだ。

「天国にはパンもないのか?」

「いや?あるよ」

俺は思わずずっこけそうになった。あるんならそんな珍しそうな顔して食べるなよ。

パンを頬張るこいつを見て改めて思ったが、やはりこいつが持つとこの世の物でも幽霊仕様になるんだな。今こいつの頭には輪が出ているから、こいつが持っているパンは幽霊仕様のはずだ。俺が触ってもすり抜けるだろう。いったいどういう原理なんだ本当に。俺が学校で習っている化学は何だったんだ。

「じゃあもう外出るから。話しかけんなよ」

「周りに人がいなかったら喋ってもいいだろ?」

「俺がいいと言うまでダメだ」

こいつが食べ終わるまで玄関で待っててやる義理はない。ドアを開け、ポケットからスマホを取り出して時刻を確認した。八時五十六分。遅刻かもしれない。

「なあ、今日は何やるんだ?勉強か?」

斜め後ろを歩く幽霊がさっそく話しかけてきたが、俺は聞こえなかったふりをした。話しかけんなって言ったばかりだろ。さっきの会話は何だったんだよまったく。

幽霊の言葉に答える代わりに歩く速度を早める。幽霊は相変わらずひらひらと邪魔な着物の裾を揺らしながらついてきた。

今日はなるべく遅刻したくなかったのだ。何せ今日の授業予定は新学期特有の学年テスト。教師の手製ではなく企業のテストだから国数理社英の五科目で、今日三時間明日二時間。テストに遅刻するのはあまりよろしくないだろう。まぁ開始から五分以内なら入室が認められているから多少遅刻してもテストは受けられるのだが。

「おっ、見てみろ、あの猫今日もいるぞ。そういや和輝と会ったのもここ……あっおい待ってくれよ~」

今日も塀の上にいた汚い色の猫に、ガン無視されるとわかっていながら手を伸ばす幽霊。だがそんなことに構っている暇はない。いくら家が近いと言っても、遅刻ギリギリは遅刻ギリギリなのである。ちなみにこの猫ならほとんど毎日そこにいるから会いたきゃ明日会えばいい。

「なあ何でそんなに急いでんだよ。遅刻か?遅刻しそうなのか?」

うるさいな、気が散るから話しかけんなよ。俺は何も答えないってわかってるはずなのに。そんなことよりも、今日はやけに信号に引っかかるな。家から五分の距離じゃ信号の数自体そんなにないはずなのに。車が通っていなければ赤信号でも渡るのだが、こんなところで轢かれて死ぬのも馬鹿馬鹿しい。こんなに早くこの幽霊の世話になる気はないぞ。そういえば、こいつ神なのだったら全部青信号にするとかできないのか?

「……すみません遅刻しました」

そう呟きながら教室の前方のドアを開けると、教卓に立っていた教師がこちらを振り返った。問題用紙にかじりついていたクラスメイトのほとんどが顔を上げてこちらを見た。静かな教室でこの無言の視線が痛い。俺的には全力で急いだつもりだが、ことごとく赤信号に引っかかり、結局一時間目に二分遅刻した。教師は呆れたような顔で俺が教室に入ってくるのを見ていた。

「何で遅刻した?今日テストだってわかってたろ」

「すみません、通学路にある全ての信号に引っかかりまして」

クラスの何人かがクスッと笑い声を上げた。この学校はいわゆる不良校だからノリの軽い奴が多い。まぁ、今笑った奴をそっと睨みつけている委員長タイプの奴も中にはいるが。

「まぁいい、とりあえず席につけ」

教師は俺に問題用紙を手渡した。俺は教室の一番左上、自分の席に座った。テストは名簿順に席につくのが一般的だ。昨日始業式だったこの学校はまだ席替えを行っていない。が、黒板の端の【放課後席替えするから勝手に帰るな!】という文字を見るに、朝のショートホームルームで今日席替えをすることが決まったのだろう。何故か皆さっさと席替えをしたがる。まぁ、俺も早くこの席をおさらばしたいが。この席は見張られている気がして息苦しい。

「なぁ和輝、お前怒られたのか?」

自称神様の幽霊が喋りかけてきたが、無視して答案用紙の右上の枠に名前を記入する。すぐに大問一に目を移した。

「さっき怒られたのか?怒られたんだろ」

幽霊は俺の背後から目の前に移動し、しゃがみ込んで机から顔だけ覗かせるとニヤニヤと笑った。なんて鬱陶しい奴なんだ。というか、遅刻したのお前のせいなんだぞ。くそ、これではテストに集中できない。何で誰もこいつが視えないんだ。誰でもいいから今すぐこいつをつまみ出してほしい。

「なぁ、遅刻したから怒られたんだろ?オレは遅刻してもあんまり怒られねーんだぜ。だって神様だから!」

大問一は漢字の読み書き問題。一問目は「はくらい」、二問目は「けっさく」、「ゆうきゅう」は「悠久」、「はあく」は「把握」、「ふおん」は「不…」……あれ、これ左側何だっけ。

「ほんとのこと言うと、ちょっとは怒られるんだけどな。第一補佐官っていう部下の中でも偉ーい部下がいるんだけど、こいつがすぐ怒るんだ!まぁびっくりするくらい仕事もできるから何も言えねぇんだけど……」

大問二は文章問題か……。どうやら結構な長文のようだ。読むのがダルいな。先に問題文を読んでおくか。

「そういや、天国にも学校ってあんだけどよ、寺子屋に毛が生えたレベルなんだ。病院とかもちゃんとあるんだぜ。あと散髪屋とか……」

俺は問題用紙の余白に【テスト中だ静かにしろ】と書いて、シャーペンの先でトントンと叩いた。幽霊は言われたとおりに口を閉じる。言ってすぐは素直に口を閉じるのだが、少ししたら忘れたようにまた喋り出すのだ。誰だ?こんな阿呆を神になんか選んだ奴は。

俺が文章問題の問題文に視線を落としたその時、静かな教室にガラガラとドアが開く音が響いた。顔を上げると教室の前方のドアから男子生徒が入って来たところだった。俺が言うのも何だか、テスト中に堂々と遅刻とは。しかもあいつは昨日も遅刻してた奴じゃないか。クラス中の注目を一瞬だけ浴びたその生徒に、さっそく教師が声をかける。

「何だ瀬川、五分ギリギリじゃないか。何で遅れた」

「寝坊です」

「そうか、とりあえず席につきなさい」

教師は男子生徒に問題用紙を手渡し、席に座るよう促した。男子生徒は無言で用紙を受け取りイスに座った。俺から見て三列右の一列後ろ。教卓の真ん前だ。

というか、どういう事なんだよセンセイ。お前時計読めないのか?どう考えても今九時七分だろ。決まりより二分もオーバーしてるぞいいのか?これ明らかに差別だろ。

「今の奴は遅れたのにあんまし怒られなかったな。何でだ?」

幽霊が興味津々な表情で先程の男子生徒を見るため首を伸ばす。こいつなら首なんて伸ばさなくても、当人の真ん前に座ってもバレないのにな。

「なぁ、オレあれやってやろうか?あれ、カンニング!」

その言葉に俺は一瞬頭を上げかけたが、何とか堪えて問題用紙の余白に【必要ない】と書く。何も強がりを言っているわけではない。俺は元々この学校に推薦で入っている。成績は平均より遥かに上だ。言っておくが自慢ではない。この学校で百点を取ったって、世間的には五十点なのだ。そもそもこの学校自体のレベルが低いのだから。

「ちぇー、せっかく和輝の役に立ってやろうと思ったのにな」

そんな殊勝な気持ちがあるならしばらく静かにしていてほしいものだ。だいたいどこのどいつだ、こいつにカンニングなんて教えたのは。

うるさく喋りかけてくる幽霊のせいで全く集中できなかったが、滞りなく一時間目は終了した。教師が解答用紙を回収するので生徒はいったん廊下に出される。二時間目までは十分しかないが、俺は教室前の集団からそっと抜け出すと人気のない方に廊下を歩いて行った。

「どこ行くんだ?次もあるんだろ?テスト」

一番端の空き教室に入る。皆自分のクラスの前で雑談や予習に励んでおり、こちらを気にする者はいなかった。

「お前なあ、テスト中に喋んなって言っただろ」

「だって暇なんだよ。オレの声聞こえるの和輝しかいねぇし」

「だったら天国に戻ったらいいだろ。お仲間と好きなだけ喋ればいいじゃねーか」

「やだよまだ現世ライフを満喫しててぇもん」

俺は自分勝手な幽霊によく聞こえるように大きなため息をついた。

「なんでもいいけど、とにかくテスト中は喋るなよ。絶対にだ。あと二時間だけ我慢しろ」

少し強めの口調でそう言うと、幽霊は「はあーい」と渋々返事をした。本当に約束を守るのか非常に心配だが、もうすぐ二時間目が始まる。教室に戻らなければならない。俺が教室に入ると、すでにほとんど全ての生徒が席についていて、監督の教師がやって来たところだった。

二、三時間目は一時間目と比べてかなり平和だったと言えるだろう。一応こいつにも俺の忠告を聞き入れる意志があるのか、ほとんど何も喋らなかった。ただ、こいつは思った瞬間に口に出す癖があるのか、不意に突然何の前触れ無く喋ることが多かった。いきなり声を出されるとこちらが困る。皆静かにテストを受けているのに、俺だけ突然びくついたらおかしいし目立つだろう。

本日のテスト三科目が終わり、生徒達の顔にホッとした表情が浮かぶ。明日も残り二科目あるのだが、皆今日今のこの開放感を味わっているようだ。俺はその空気を、自分の席に座って背中で感じていた。

しばらくしてこのクラスの担任の三宅が教室に入って来た。三宅はさっさと帰りのショートホームルームを始める。連絡事項は明日のテストについてくらいで、これといって特別なことは話していなかった。ショートホームルームが終わると皆が待ちわびていた席替えをすることになった。

席替えの手段は簡単だ。くじ引きである。三宅が適当な紙にクラス人数分の縦線を書く。その線の下に一からランダムに番号を振ってゆく。そして番号が隠れるように紙の下部を折る。これで面倒くさがりな三宅のお手製くじ引きの完成だ。あとは席順に紙を回してゆき、線の上部に自分の名前を書く。全員書き終わったところで三宅が紙の下部を開放、読みあげられた番号の位置に机を移動するのである。

一番初めに線を選ぶ権利を得た俺は、とりあえず適当に選んだ左から十番目に【朝波】と書いた。興味津々で俺の手元を覗き込む幽霊をなるべく意識の外側に置くようにし、紙を後ろの席に回す。全員が名前を書き終わり、三宅が読み上げた俺の番号は十七番だった。三宅の合図で一斉に机の移動が始まる。

俺の新しい席は左から三列目の前から五番目。ちなみに後ろからは二番目だ。黒板が少し遠いが見えないことはない。俺の右隣りは戸田彩香、左隣りは矢崎俊一、前は瀬川陸、そして後ろが大名瑞火だ。なんだろう、さっきの席より居心地が悪い気がする。だが二、三ヶ月もすればまた席替えがあるだろう。それまでの我慢だ。

「明日テスト終わったら教科書販売だからなー。今から配る紙に名前書いとけー」

三宅がプリントの束をひらひらと振り、列の先頭から順に配りだした。俺は無言の前の生徒から無言でプリントを受け取り、無言で後ろに回した。

「ありがとう」

後ろの席の大名は冷めた声で礼を言ったが、俺は聞こえなかったふりをした。そのやり取りを見ていた自称神様が不満そうな顔をする。

「礼言われたんだからもっと愛想よくしたらいいじゃねぇか」

俺は今もらったばかりのプリントに【黙ってろ】と書いて消しゴムで消した。シャーペンで書いて良かった。このプリントは明日提出しなければならないのに、ボールペンで書いたら終わっていたところだ。シャーペンなら消しゴムで擦ればすぐ消える。

いや。俺は思い直した。あいつはボールペンどころか、俺にとっては油性ペンなのかもしれない。



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