6.ここではないどこか

 目を覚ますと、先ほどまで荒れ狂っていた胃は我に返ったのか静まっていて、ナオミの体は少しだけ回復していた。


 室内にはいつのまにか明かりが灯っており、横たわるナオミにやわらかな光を落としている。その明かりは目に見える照明装置によるものではなく、天井全体が均一に明るくなることで照明の代わりを果たしていて、特定の時間(とナオミは思っていた)が来ると自動的に消え、ナオミの意志で点灯させることはできなかった。

 ただこれに関しては、時計のないこの部屋では就寝時間の目安になるので、ナオミにとっては不便さよりも有益さのほうがまさっていたといえる。


 床に漏らした小便は、寝ているあいだに部屋の外に排出されたらしく跡形もなくなっていた。このまましばらく横になっていたかったが、口の中が鉄を噛んだように苦かったので、しかたなく立ち上がり洗面台で口をゆすいだ。


 日はとっぷりと暮れ、すりガラスをはめ込んだ窓は黒一色になっていた。もっともそれが外界の日没と同期している保証はどこにもなく、ナオミにとってはそうであると信じるほかはなかった。

 いや、実際は信じるという意志すら働かず、彼女はただそれをそのまま受け入れているだけである。もし窓の外のライトの電源を落としているだけならば、この部屋の窓から感じられる日の出と日の入りが二十四時間周期かどうかさえ怪しくなってくるが、そんなことはナオミの関心の対象外なのだった。

 窓に映る日の光や月明かり、雨が窓を叩く音、それらがすべてコンピューター制御によりそれっぽく作られているものだとしても、真相を知るすべをナオミは持っていないのだから、そのことに関して気にかける必要はない。これは合理性の皮をかぶった諦念ていねんがもたらしたものである可能性が高いとはいえ、彼女にとって十分に受け入れる価値のある判断といえた。


 ベッドに移動し、淡い光を放つ天井を眺めながら、ナオミは鈍い思考の足を精一杯頭の中にかけ巡らせてみた。しかし彼女の記憶はあまりに限定されていたので、その足は小さな円のまわりを回転し、結局元の場所に戻ってくるだけだった。


 ただナオミは、自分がある日突然この部屋に産み落とされたわけではないことは確信していた。

 かつては、調査員の男が言うところの愛と寛容をうたう進歩的な国家、そしてそこに存在する社会に暮らし、ここに至るまでには重厚長大といえるかはともかく、それなりに中身のある物語を紡いできたはずだと。

 そんな日々のなか、突然不測の事態が起こり、彼女はここに連れて来られたのだ。


 しかしながらナオミは、自分と関わりのあった人や、それにまつわる出来事について考えようとしても、


 ――私の親は今どこにいるのだろう。まあ墓の中だろうな。


 と、こんな調子で、単純化して推測することはできても、それを過去のある地点の具体的な出来事と結びつけて考えることがいつしかできなくなっていた。

 とどのつまりナオミにとって、昨日までの過去はないも同然であり、未来もまたしかりであった。


 現在にのみ生きるナオミの最大の疑問は、なぜ自分はここにいるのだろうか、ということである。


 その言葉だけを取り上げると、人生に対する根源的な深みのある問いに思えるが、実際は旅先で道に迷ったときに感じるものと同じ、とまではいわないが、それに近い、今この瞬間の状況に即したものにすぎなかった。


 この問いに対する直接的な解答ではないものの、そこに至るいくつかの道のうちのひとつの入口と思われるものは、すでに目と鼻の先にある。

 それはつまり赤いドアのことであり、それを開けてここから出ていくことが、解答に近づく一番手っ取り早い方法だといえた。


 そうすれば、少なくともナオミは“ここ”ではないどこか別の場所に立つことになり、その場所がもたらす新たな視界によって、“なぜ”の部分に迫ることができる。仮になんの手がかりもなかったとしても、その問いは、なぜここにいるのか、から、なぜあそこにいたのか、と過去形になり、ほどなく彼女の関心の外に追いやられるだろう(もっとも新たな場所での“なぜここに”が頭をもたげる可能性はあるが)。


 いずれにせよドアを開けることで状況は確実に変わるはずで、そのドアについても、いつでもこの部屋から出ていけるという調査員の男の言葉通り施錠はされておらず、ナオミの妨げになるものはなにひとつなかった。

 それにもかかわらず、ナオミはなぜか自分が閉じ込められているように感じており、それと同時に、ここから出てはいけないのだという心に根を張った思い込みを取りのぞくこともできず、さらには、そもそも自分が本当にここから出ていきたいのかどうかもわからなかった。


 いや、わからないというより、その決断を先延ばしにしてこの部屋で暮らし続けたいという願望に近いものが、胸のうちにこびりついていたのである。ドアの外に一歩でも踏み出せば、ここでの生活がすべて崩壊する、そんな予感がナオミを脅かしていた。

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