5.赤いドア

「そこの赤いドアを開けてごらんなさい。鍵などかかっていないから」


 そう男に言われたものの、ナオミは身じろぎもせずベッドに座ったまま男から視線を外さなかった。


 「さあ」と男に促され、彼女はついに観念して視線を赤いドアに向けた。ためらう気持ちはまだあったものの、ベッドからおりてドアに近づき、ノブをつかんで下げ、意を決してそっと押してみた。すると男の言葉通り鍵はかかっておらず、ドアは外側に少し開いた。


 ナオミは慌ててドアを閉じ、まるで熱いものを触ったかのように、ぱっとノブから手を放した。振り返ってディスプレイを見ると、男は微笑みながら言った。


「我々が望むことはあなたが決断することであり、そのときが来れば、あなたにもきっとそれが理解できるでしょう。そしてそれは我々にとっても決断と同じ強い意味を持つものとなるのです」


 “そのときが来れば”というのはいつのことだろうかとナオミは疑問に思ったが、なぜかそちらではなくそのあとの、“決断と同じ強い意味”という言葉が意味することについて聞いてみた。


「ひとつかたがつくということです」


 と男は言ったが、それがナオミの求めている答えなのかどうか理解できなかったし、なにを決断すればいいのかもわからなかった。


「時間が来たようです。もしまたなにか聞きたいことがあればいつでも呼んでください。あなたにはその権利がある。あらゆるものに権利が!」


「でもどうやって?」


「ベッドのわきにボタンがあるからそれを押してください。これも前に説明したはずなんですがね」


 男は苦笑しながら言った。




 男が姿を消したあと、部屋はいつもと同じ静寂に戻ったのだが、話し声の残響が吹きだまりとなって部屋に散在し、ナオミはいつにないもの寂しさを覚えた。ナオミが感じたそれは孤独というほど高尚なものではなく、反射に近いものといえる。つまり今まであったものが突然なくなったときに生じる心の空隙くうげきと、それを埋めようとする心の反作用である。窓から入ってくる茜色の光がそれを増幅させたことは否めない。


 男に問われたときに「まあまあ」と答えた体調が、男の話の異様な速度と量、そしてその内容にあてられたのか、今はひどく悪いほうに傾きはじめた。


 ナオミは体を休めるために、ベッドに横たわった。

 天井をぼんやり眺めていると、先ほどの男の言葉が頭に浮かんだ。


 ――“そのときが来れば”……それはいつ訪れるのだろう。少なくとも今ではないような気がする。


 ナオミは頼りない思考をなんとか前進させようとしたが、じりじりと強まってきた胃のむかつきがそれを押しとどめた。

 ベッドの上で膝を抱えてうずくまり、なんとか胃を落ち着けようとしていると、部屋の外から機械の動作音が響き、ドアの横の戸からトレーが出てきた。最も望ましくないタイミングで現れた夕食のゆで卵だ。


 よせばいいのに習慣にはあらがえず、ナオミはゆで卵を取ってにおいを確かめてみた。いつもと同じにおいのはずだが彼女の嘔吐中枢はそうとは受け取ってくれなかったようで、ナオミは強烈な吐き気を催し便器を抱えて嘔吐した。といっても吐き出すものなどほとんどなく、微量の胃液と朝に食べた卵の白身の残滓ざんしが精液のようにぴしゃっと喉から漏れただけである。そしてその拍子に、膀胱にたまっていたわずかばかりの小便も漏れ出て床を濡らした。


 血を吐いたほうがまだ悲劇的な心持ちになれてましだったのに、とナオミは思った。


 嘔吐後のつかのまの安息の時間は激しい頭痛によって終わりを迎え、ナオミはベッドに戻る気力もなく便器の前の床に倒れ込んでそのまま眠った。

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