4.調査員の男
「娘を返して!」
その男を見るなりナオミは叫んだ。いや、叫ぶつもりはなかったのだが、今日はじめて声を出したため声帯の調節がうまくいかず、思いのほか声が大きくなったというほうが正しい。ナオミは自分の声帯にまだそんな力が残っていたのかと驚いた。
その言葉は画面の中の男を戸惑わせるには十分だった。
なんの意味も意図もなく、ふと口をついて出た言葉だったが、男の顔から笑みが消え失せたのを見てナオミは満足感を覚えた。
「こんにちは」
男は気を取り直した様子で、顔に再び笑みを貼りつけて言った。
ナオミはなにも答えず画面をぼんやりと眺めていた。男は思考を言語に変換するのがじれったいとでもいうように異様に早口で、なにやら長々と名乗っていたようだがよく聞き取れなかった。
「調子はいかがですか」
ようやくナオミにも聞き取れる言葉が男から発せられた。
男が言う調子とは体調のことであるとナオミは理解したものの、はたして自分の体調がいいのか悪いのか判断しかねた。見ようによっては快調といえないこともないが、死に瀕しているといえばそれはそれで間違いとはいえないからである。
あいだをとってナオミは「まあまあね」と答えた。
「さて本日お伺いしたいことは……」と、男が話を進めようとしたのでナオミはそれに割って入り、男が何者で、なぜ自分の前に現れたのかについて尋ねた。実際のところナオミは男の正体についてそれほど関心はなく、そのまま話を進めてもらってもよかったのだが、それを聞くのが真っ当な人間であることの証明のような気がしたのだ。
男はそれを聞くと少し怪訝な顔をして、自分は調査員で、世界中をまわり森羅万象あらゆることを調べていて、今はあなたを調査する役目を与えられている、あなたの身体に関してはアンクレットから送られてくる情報でおおむね把握しているので、おもに気分について教えてほしい、という内容のことをやはり早口で言った。そしてこれらのことは前任の調査員からもすべて説明されているはずだとつけ加えた。
ナオミは思い返してみたが、なにひとつとして覚えがなかったので、記憶にないことを男に伝えた。
すると「なにか手違いがあったのかもしれない。これは大変だ」と、男が慌てて手元のデータパッドを操作しようとしたので、「思い違いだった。気にしないで」とナオミはそれを制した。
それが手違いだったのか思い違いだったのか、どちらにせよなにかが違ったために起こったということを知るだけでナオミには十分だった。それにこの問題にはっきり蹴りをつけようとすると、最終的に自分の思い違いであることが明らかになる可能性が高いように思えた。なんといってもナオミは、この部屋に来てからどれくらいたっているのかさえ思い出せないのである。男がデータパッドを少しだけ操作すればこの問題は決着したはずだが、ナオミはその答えを男の口から聞きたいとは思わなかった。
――それにしても、私を調べることで男はいったいなにを得られるのだろう?
ナオミの脳裏にそんな疑問が浮かんだが、森羅万象を対象としているなら、その中に含まれている自分についても調査する必要があるのだろうと理解した。
「続けてよろしいですか」
「はあ……」
ナオミは肯定とも否定ともつかない、音がのった息を吐いた。
「今の気分は?」
ナオミは視線をディスプレイから外して少し時間を取ってから、先ほどと同じく「まあまあね」と答えた。実際はなにも考えていなかったのだが、思慮深い人間のような振る舞いをしてみたかったのだ。
「もっと詳しく教えていただけますか」
「そんなことを聞いてなんの意味があるの?」
問いかけに対するこの反応、つまり押しつけられたものを疑問で押し返すというのは人間らしさの証しであり、またひとつそれを明らかにしたとナオミはひとり悦に入った。普段のナオミはただあるがままを受け入れるたちなのだが、ときどき思い出したかのように人間らしさ(と彼女が信じるもの)を意識するのである。
「この質問は法律に則り行われるもので、この部屋の住人を調査するにあたって我々に課せられた義務でもあります。また私自身も上司からそうするようにと直々に指令を受けています」
と男は言った。
――ぼろを出したぞ!
ナオミは男の言葉の中に示された、とある事実に気づいた。
――男は“我々”と言った。つまりひとりではないということだ。
だがひとりの人間がここを取り仕切っていると男が言っていたわけではないので、それがぼろだったのかどうか途端に怪しくなった。それはともかく、森羅万象の調査という崇高な響きがする目的のためにやってきたのかと思っていた男が、なんてことはない、どうやらただの雇われ仕事としてこの調査をこなしているにすぎないことを知ってナオミは失望した。
「あなたがたに心配してもらうような状態にはなっていないと思うけどね」
あなたがた、というところを強調してナオミは言った。
「つまり普通の精神状態だと?」
「まあおそらくは」
自分の精神状態も、普通というのがなにを意味しているのかもよくわからなかったが、ナオミは男の問いを曖昧に受け流した。
「しかし叫んでいたじゃないですか」
ナオミは一瞬男がなにを言っているのか理解できなかったが、最初に男を目にしたときに発した言葉のことだと気づいた。
「あれは本意じゃないわ」
今度は男のほうがナオミの言葉の意味を理解できないようだった。男が無言で続きを促したので「叫ぶほど強めに言うつもりはなかったのよ」とナオミは弁解した。
「いや、声量のことではなく、娘がどうこうという内容についてです」
ナオミは自分が発した言葉の意味を考えてみたが、なぜあんなことを言ったのか特別思いあたる節はなかったので、「さあ?」と言って小首をかしげた。
男はそれ以上ナオミに質問することはなく、彼女がいかに恵まれているかということについてまくしたてた。
「人権意識の向上! テクノロジーの進化によるオートメーション化! 待遇改善!」
金科玉条のようにそれらの言葉を強調し、進歩的国家が
「かつては
男はナオミに問いかけるように語り、そしてさらに話を続けた。
「社会が変わっても人々の感情の根は変わらず、制度そのものも変わらない。しかし自由意志は尊重される」
男はそこで強調し忘れたことに気づいたのか言葉を止め、言い直した。
「自由意志の尊重! この場合、因果律のことは気にしなくても結構です」
額に汗を光らせ口の端に泡をつけた男はひとしきり話すと、大きく息を吐いて顎髭を触った。つかのまの沈黙はこの調査、というより男の独演会の終わりを意味していたが、ナオミには聞かなければならないことがあった。
「それで……いつここから出してもらえるのかしら?」
それまでこの男に対して権威的なものなど一切感じていなかったのに、その声の調子にはナオミも驚くほどに相手の機嫌をうかがうような卑屈さがにじんでいた。この精神のもみ手は男にも伝わったに違いない。しかし、男はあざける様子もなく言葉の速度を落とし、笑みを浮かべて言った。
「私たちの国家に強制はありません。あなたはいつでもここから出ていけるのです」
ナオミは男の言葉が信じられないというように目を見開き、なにか言葉を返そうとしたのだがなにも思い浮かばず、ただ男を見つめるだけだった。
「そこの赤いドアを開けてごらんなさい。鍵などかかっていないから」
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