3.青い錠剤

 この青い錠剤を飲むとしばらくのあいだ、自分が愚鈍になることをナオミは知っている。めまいに襲われ考えがまとまらず、ぼうっとして時空の認知に歪みが生じ、ときにはよだれを垂れ流すこともあった。


 ナオミは何度か錠剤を飲まなかったことがあるのだが、意識が明瞭なままだったところで特段やることもなく、錠剤を飲んで愚鈍になっているほうがましに思えたため、それからは自発的に飲むようになった(もっとも誰かに強制されているわけではないので、この錠剤を飲むときはつねに自発的なのだが)。

 それにこの錠剤には、長くは続かないもののそれなりの効果もあった。愚鈍状態から回復すると、なんだか心の奥底にたまったおりが浄化されたかのように気分がよくなるのである。


 ナオミはいつものように青い錠剤を口の中に放り込み、ベッドに腰かけた。

 錠剤を飲んでから少したつと、ナオミはどこか知らない場所に突然連れてこられた少女のように、時折視線を左右に巡らし不可解そうな表情になり、それから得心とくしんが行ったように安堵の笑みを浮かべ、そしてうつろな顔をしてだらしなく口を開いた。




 しばらくたって現実に帰還したナオミの目に入ったのは、両開き戸の前の棚にあるゆで卵と白濁した水だった。

 それらは昼食として用意されたもののようだが、ナオミは手をつけることなく戸の外に押し出し、日課である洗面台のわきに据えつけられているチェストのチェックをはじめた。


 床と壁に固定されているこのチェストは、四段に分かれている。


 一番上の引き出しに入っているのはタオルと衣類で、使用したそれらのものをダストシュートに入れると、自動的にチェストが面している壁の裏側から補充される仕組みになっていた。


 二段目の引き出しには、トイレットペーパー、液体石鹸のボトル、歯ブラシ、歯磨き粉、爪切り、綿棒といった生活用品が並んでいる。消耗品は上の段と同じ仕組みで、使いきるとすぐに補充された。


 三段目の引き出しにはタブレットが入っている。外部との自由な通信には使えないが、二段目の引き出しに入っていない生活用品を発注することが可能なほか、古今東西の映画や小説、音楽データが入っているのでそれらを鑑賞したり、文章の入力や、付属のスタイラスペンで絵を描くこともできた(もっともナオミがそれを活用することはなかったが)。


 そして一番下の引き出しには、ナオミにとって最も大切な、彼女の所有物が入っている。

 中には髪を縛るのに使っている麻ひもの切れ端、古びた香水の空き瓶、写真が入っていない写真立て、装飾のない銀の指輪が整然と並べられていた。


 実際のところナオミには、これらのものを部屋に持ち込んだ記憶がない。ただ所有の感覚は残っていて、由来はどうあれこれらは自分のものなのだという認識は持っていた。


 かつてはそれぞれのものになにか重要な意味が込められていたのだろうが、今となってはそれも風化し、所有の感覚だけがこびりついた代物になっていた。

 ナオミは自らの所有物を一度すべて床に並べてひとつずつ確認し、また引き出しの中の定位置に戻した。


 チェストのチェックを終えベッドに戻ろうとすると、突然、朝のものとは異なる電子音のメロディーが流れ出した。ナオミはぎょっとして部屋を見まわした。


 音が鳴りやむと天井のパネルの一部が外れて、そこから30インチほどのディスプレイが出てきた。

 そこに映し出されたのは、髭面の中年の男だった。グレーのジャケットを着た男は、艶のある茶色い革のソファに座り、ナオミに微笑みかけている。


「娘を返して!」


 その男を見るなりナオミは叫んだ。

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