2.食事と排泄

 外界とを隔てる赤いドアを眺めながら、ナオミはいったいいつからここにいるのか考えてみようとしたが、どうせ答えが出ないことはわかっていたので、思考をそれ以上先に進めることをやめた。この部屋には時計すらなく、日数どころか一日の時間さえ正確にはわからないのだ。


 ただ、季節については漠然とではあるが推測することができた。

 室内の温度はつねにほぼ一定に保たれているものの、建物が外気から完全に遮断されているわけではないようで、夏は空調が部屋の温度を下げる方向に働き、冬は逆に温度を上げる方向に働いていた。ナオミは空調のそうした温度変化によって、季節の推移をなんとなく感じ取っていた。

 部屋が冷やされはじめると夏が来たなと思い、その働きが弱くなると秋の訪れを察知し、部屋が暖められると冬の気配を感じ、それが終わると春がやってくる。その感覚からいうと、今は冬に近い秋、ナオミが一年のうちで最も好きな季節だった。


 ――ここに来た日から、毎日壁に線を一本刻みつけておくべきだったのかもしれない。


 そんな考えが一瞬ナオミの頭をよぎったが、それはすぐに彼女自身によって否定された。なぜなら正確な日数を把握することに、たいして意味はないとナオミは理解していたからである。ここにいるのが十年か二十年、あるいはそれ以上だったところで、ナオミの生活にはなんの影響ももたらさないのだ。それに仮に線を刻みはじめたとしても、芝居じみたことをする自分に嫌気が差して、おそらく彼女はすぐにそれを放り出していただろう。そもそもこの部屋の壁は非常に硬度が高く、それに対して長期間継続的に傷をつけられるほど鋭利なものをナオミは持っていなかった。


 いつものように答えの出ない問いをもてあそんでいるうちに、ナオミは起きたばかりだというのにうとうとしはじめた。

 睡眠、というよりその欲求とそれにあらがわずに身をまかす時間は、彼女にとってこの上ない楽しみだった。ナオミは睡眠の長さを重視しておらず(そもそも時計がないので知りようがなかった)、ただ寝る瞬間の体が溶けていくような感覚をできるだけ多く享受したかったのである。


 その結果ナオミの日常というのは、短い睡眠のあいだに途切れ途切れの現実がかろうじて存在するという、連続性において頼りないものになっていた。眠りに落ちる快楽を得るには覚醒が必要であり、ナオミにとって現実とはその点において価値があるものにすぎなかった。


 まどろみの中にたゆたうナオミを現実に引き戻したのは、赤いドアの横の小さな両開き戸がぱたんと閉じる音だった。


 腰の高さにある両開き戸の前には棚が突き出しており、そこに殻が剥かれたゆで卵ひとつと白濁した水の入ったコップが、トレーにのせられ置いてあった。


 ナオミはベッドをおりて棚のところに行き、ゆで卵を手に取った。そしてそのにおいを嗅ぎ、弾力を確かめると、半分だけ口に運んで、白濁した水とともにゆっくりと胃に流し込んだ。

 その作業をもう一度繰り返し、すべて食べ終えたナオミはトレーを外に向けて押し出した。すると棚の奥からブーンという機械のわずかな動作音が響き、トレーは自動的に戸の外に運ばれていった。


 現在のナオミの食事は、量、種類、時間、そのすべてが縮小、簡素化されている。彼女のおぼろげな記憶によると、かつてはトレーの上にさまざまな食材が並んでいたのだが、年を経るごとに彼女の食欲は減少の一途をたどり、いつのまにかそれに合わせて出される食事も変化していった。




 食事を終えたナオミは、服をベッドの上に脱ぎ捨て全裸になり、便意はなかったものの便座に腰かけた。便器の前に立つとセンサーが働き、透明なガラスの衝立が曇って不透明になる。それにどれだけの意味があるのかナオミには疑問で、おそらく建前的なものなのだろうと彼女は自分を納得させるのだが、それが誰の建前なのかというところまで考えたことはなかった。


 便座に座ったまましばらく待っていると、膀胱に排泄欲求のわずかな気配を感じ、ナオミはそれを逃すまいと下腹部に力を込めてちょろちょろと小便を出し、ふうっとひとつ息を吐いた。大便に関しては日々摂取する食事の量が極めて少ないので、三、四日に一度、豆のように小さなものがころころと肛門からこぼれ落ちるだけだった。


 このような生活を続けているにもかかわらず、ナオミの体はぎりぎり健康と呼べる状態を保っている。もちろん食欲不振ではあったし、定期的に胃痛や頭痛に襲われたりするなどの不調はあったものの、いずれも死に直結するほどの症状ではなかった。


 ナオミは自らの体の中で、なにか新しい栄養吸収、分解、循環の仕組みができあがっているのではないかと想像したことがあったが、それよりも、あのゆで卵と白濁した水に添加されたなにかが細胞に最低限の活力を与えている、という考えのほうがよっぽど可能性がありそうだった。


 排尿を終え服を着直していると、またしてもドアの横の戸が開き、先ほどより小ぶりなトレーが現れた。そこにはコップ一杯の水と、小指の爪ほどの大きさの青い錠剤がひとつあった。

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