ナオミはそのときを待っている 〜進歩的国家と謎の部屋〜
多花居
1.目覚め
ナオミは大きく一度体を震わせたあと目を覚まし、ベッドに横たわったままきょろきょろと用心深げにあたりを見まわした。一瞬自分がどこにいるのかわからず混乱したが、すぐにそこがいつもと同じ部屋であることに気づいた。
なにか恐ろしい夢を見ていたらしく、体中から汗が吹き出している。覚醒の波にさらわれる前に夢の内容を思い出そうとしたものの、それがあるべき場所にはぽっかりと穴があいているだけで、なにひとつ想起できなかった。
少し上がった息が整うのを待つあいだ、ナオミは視線を真っ白な天井に移した。ひとつの照明装置もないのっぺりとした天井を見ていると見当識を失いそうになるのだが、それはつまり自分がまだ見当識を持っているという証明にもなり彼女を安心させた。
ナオミが目を覚ましてから三十秒後、朝が来たことを知らせる電子音のアルペジオが窓側の壁から流れ出した。
――今日も出し抜いてやったぞ。
電子音が鳴る直前に目を覚ました彼女は心の中でそうつぶやいたが、すぐに疑問が浮かび上がった。
――今日も、ということは昨日も私は出し抜いたらしい。だけどはっきりとそれを思い出すことができないのはなぜだろう? この部屋にしてもそうだ。見覚えのあるいつもの部屋。私はここで生活をしていて、その感覚は残っている。でもなぜ私はここに?
寝起きの
その環境音には、ナオミの心を
電子音が鳴り終わると、ナオミは毛布をはねのけ起き上がり、部屋に備えつけのシンプルで飾り気のない洗面台へと向かった。
ボウルに水をため、そこに顔を突っ込んで口を開き首を左右に振り、顔全体と口の中に水を行き渡らせる。彼女は毎朝この方法で、洗顔と口腔洗浄を同時に済ませていた。
白い無地のローブ型の衣服ははだけ、下着を着けていないナオミの骨張った体が
このチェストにはタオルだけでなく靴下や履きものも入っているが、ナオミがそれらをはくことはなく、彼女はつねに裸足だった。部屋の床には特殊な素材が使われており、冷たさが足裏に伝わりづらく、裸足でも問題なく過ごすことができたのだ。もっともナオミは表面に細かい凹凸があるこの床の感触を気に入っていたので、仮に床が冷たかったとしても、きっと裸足を選択していただろう。
下着も靴下もはかないナオミだが、唯一身につけているものがあった。左の足首にはめられた黒いアンクレットである。幅は二センチほどで、つるつるとしていて継ぎ目はなく、文字も数字も書かれておらず、不思議なことに皮膚に密着しているのに圧迫感がなかった。アンクレットは自分の意志で取り外すことはできず、彼女はいつしかその存在を気にかけることもなくなった。
ナオミは、顔を拭いたタオルを洗面台の下にあるダストシュートに放り込むと、背中に垂れ下がる手入れのされていない縮れた髪の毛を、彼女の数少ない所有物である麻のひもで縛った。
身だしなみを整えようにも、洗面台に鏡は設置されておらず、それ以上やりようがなかった。この部屋には鏡どころか鏡代わりになりそうなものもなく、奥の壁にある一メートルほどの丸いはめ殺し窓も、反射を抑えるすりガラスでできていた。しかもこの窓は、光こそ入ってくるものの外の景色はまったく見えず、実際に外に面しているのかどうかさえ判別のつかない代物だった。
顔を洗い終えたナオミはベッドに浅く腰かけ、縦横が彼女の歩幅でそれぞれ十五歩程度のこの小さな、しかし彼女にとってはすべてである部屋を見渡した。
部屋は重度の潔癖症の人間でさえ顔をほころばすに違いないほど清潔で、埃ひとつ落ちていない。部屋の隅の、床と壁の境目のところに仕掛けがあり、ごみや埃は自動的にそこに集まり部屋の外に吸い出されるようになっているからだ。またそれだけでなく、時折床の内部から透明な液体がじんわりと染み出し、それによって表面の汚れが洗い流され、部屋はつねに清潔な状態に保たれていた。
部屋の清潔さは物理的な面だけでなく、ほとんどものが置かれていないことから受ける印象というのも大きかった。壁際に置かれた金属製フレームのベッド、その向かい側にある洗面台と白いチェスト、奥にある透明なガラスの衝立に囲われた便器、これがこの部屋に置かれているもののすべてである。
そんながらんとした部屋を、窓から差し込む朝日が照らしている。
ナオミはその光が照らす先にある、窓の向かい側の壁に目を向けた。
そこには銀色のノブがついた一枚の赤いドアがあった。
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