7.狂気へ至る情熱
ナオミを混乱させるこの曖昧で不確かな状態は、部屋の快適さから生じているといっていい。結局のところ、この部屋の環境に彼女はそれなりに満足していたのである。
生活に必要な衣食住のうち、衣はバリエーションこそないものの、ダストシュートに今着ているものを入れれば新たな一着がチェストの一段目の奥から出てくる仕組みになっていたし、食はナオミの嗜好に合わせて今でこそ質素なものに変わっているが、もし望めば誰しもが満足する食事が提供されることはわかっていた。そして住においては生活に必要なものがすべて備わっており、その環境も完全に清潔に保たれている。
ナオミは滅多に体を洗わなかったが、洗おうと思えば洗面台の蛇口を伸ばしてシャワーにすることも可能で、床にこぼれ落ちた水は部屋の隅から排水されるようになっていた。
ナオミにとって、ほかに望むものはなにもなかった。自由ならば、それを象徴するドアは手を伸ばせばいつでも届く距離にあるのだ。
しかしそこにはなにか落とし穴が潜んでいないとも限らない。ナオミが気がかりだったのは、その落とし穴の深さについてである。ないに越したことはないが、もしあるとしたらせめて顔が出るくらいの深さにとどめておいてほしいというのが彼女の願いだった。
――それにしても、こんなにも長くこの部屋にいて、なぜ私は気が狂わないのだろう。
実際はともかく、ナオミは自分がまだ正気を失っておらず、最悪な場合でも狂気の奈落の縁で踏みとどまっていると信じていた。
そのとき、正気と狂気のどちらの方角からもたらされたものなのかはわからないが、あるひとつの仮説(と呼べるほどの代物ではないがそれに類するもの)がナオミの頭にひらめいた。
――自分はこの部屋にいる期間を十年や二十年という単位で見積もっていたが、はたしてそんなに長いあいだこの部屋で暮らしていけるものなのだろうか。記憶の曖昧さから考えると、もしかすると一年、あるいは一週間くらいしかたっていないのかもしれない。だとすると、期間の長さがもたらす狂気が訪れなくても不思議はない。
しかしナオミは、さすがにこの部屋にいるのが一週間ということはないだろう、とすぐにそれを否定した。なにか明確な根拠があるわけではなかったが、一週間にしては体が部屋での生活にあまりに慣れすぎていると感じたし、おぼろげながらも季節の移り変わりの感覚もあったので、少なくとも週単位ではなく年単位での居住だろうと判断したのだ。
それに、もしここにいるのが一週間だったとして、たった一週間前にこの部屋にやってきたことすら忘れているというのは、すでに狂気に片足を突っ込んでいるようなものなのではないかという見方も出てくる。
とはいえここにいる期間が思ったより短いのではないかという仮説は、あながちあり得ないことではないように思えた。いずれにせよナオミは、狂気に至らない自分の精神を、なかなかたいしたものじゃないか、と自賛した。
だがその自賛はすぐに疑惑へと変わった。
ナオミは、自分には狂気に至るほどの情熱が足りないのかもしれない、と疑いはじめ、その疑いは次第に、ひょっとすると狂気にすら見放されたのかもしれない、という不安に取って代わった。
しかし、とうの昔に別れたはずのもの寂しさという感情でさえ、調査員の男が去ったときに控えめながらも姿を現したわけで、狂気もどこか死角になっているところからまだ自分をのぞいている可能性もあるとナオミは思い直した。
――そもそも今の状況において、自分が自分であると認識することにどれだけ意味があるのだろう。狂気というのは、その強い言葉の響きとは裏腹のやさしさに満ちた世界であり、私が果たすべきはその入口の鍵を見つけ出すことなのかもしれない。
ナオミの心に突如狂気への憧れが芽吹いたが、もう少し様子を見てみようと理性が弱々しくそれを押しとどめた。
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