第2話

アリスは、カズマを愛していた。




魂の抜け殻のような、自分を持たない剣聖は、私たちにとってもろ刃の剣であった。




アリスは、そんな彼を愛しんでいた。


それは、聖女であるがゆえの母性と慈愛であった。




しかし、カズマの本性は醜悪で邪悪な自己陶酔と獣のごとき本能であった。彼は、冷静な面の皮を被った冷酷で計算高い男だった。


人の手柄をさりげなく自分のものにする話術。相手に対して相互不信を抱かせる権謀術策の能力。


勇者としての才覚はあれど、その性格は破綻していた。




私はそのような人間を知っている。


目的は自分自身の快楽と満足。それ以外に意味を見出さない連中のことを、元の世界ではサイコパスと呼んでいた。




カズマは、異性同性問わず、その手練手管でたらし込むサイコパスであった。


私は、アリスにその事実を伝えた。


しかし、アリスは「どんな人間でも、いずれは改心する」と告げながら、不和の回避を理由に、私の言葉を聞き入れてはくれなかった。




だからこそ、赦しがたかった。


私も、カズマも。


私は、カズマが許されるならば、私自身も許された気がしたのだ。




私は状況の把握に努めた。




キリエ公女の記憶を読み取ると、公爵家における彼女は不遇な境遇であった。




ロンバルディア帝国の公爵家というのは、開国功臣である。そのため、絶大な権力と経済力を握っているのだ。


ルッフェ公爵騎士団の軍権は皇室騎士団や近衛兵にも匹敵する能力を持っている。




この公爵家には、後妻の長男であるルード、次男のハイン、三男で幼いエルがいる。ルードは、非社会性パーソナリティ、いわゆるソシオパスだ。自分の欲望ためなら、殺人すら平気で行う異常者。世が世なら即刻逮捕されるような人間だが、この世界は階級制度が存在するため、絶対的権力者の息子であるルードは、誰にも手が出せない。




次男のハインは、ルードとエルを毛嫌いしている。ハインは、権力志向が強く、ルードを押さえて公爵家の実権を握ろうと躍起になっているのだ。




三男のエルは、正常にも見えるが、いくつかの問題を抱えているため、やはり異常だ。




そんな三兄弟の他に、後妻の娘たち、次女のアリエルと三女のマリアがいる。


アリエルは、長女であるキリエがルードと並ぶ爵位継承者であることに嫉妬していた。そして、隙あらばキリエを殺そうと企んでいる。


キリエの魂と私の魂が入れ替わった背景には、このアリエルが後妻と結託して、私を毒殺したことが原因であった。奴らは医者を買収して、公爵に知られないように、熱病によって死んだことにしようとしたらしい。




三女のマリアも、キリエをいじめていた。ただし、三男のエルとほぼ同い年であり、幼いため、やることはカワイイものだったが。




公爵家の中で、唯一キリエに対して何もしなかったの三男のエルだけだった。




父親であるヘシャル・ド・ルッフェ公爵は、前妻エステルとの間に出来た一人娘のキリエを放置していた。前妻は、キリエを産んでまもなく死んだ。その原因は、エステルの自業自得であり、また、娘にもあるとしたのだ。




そのため、唯一の爵位継承者は、今では公爵家の腫物として扱われていた。侍女や使用人ですら、キリエを虐待した。


そしてトドメとなったのは、後妻の息子ルードが生まれてからだった。


そこからは言うに及ばず。




公爵夫妻が体裁を整えている間、兄のルードと妹のアリエルが嫌悪感を隠さずにやってきた。




「ちっ、生きてたのかよ」




ルードは機嫌が悪そうにカーペットの上に唾を吐いて捨てた。


アリエルは、高質な扇子で顔を覆いながら眉間にしわを寄せている。




「いいか、お前なんか生きてたところで何の役にも立たねえだろうがよ。さっさと、死ねばよかったんだよ。お前みたいな偽物はな」




偽物。




公爵は、前妻のエステルを自身の妻と認めていなかった。


後妻シルヴィアを娶ろうとしていた公爵であったが、シルヴィアは新興貴族であり、男爵の娘であった。大恋愛の結婚を望んでいた二人にとって、家臣の強い反発によって、政略結婚させられた侯爵家のエステルは目の上の瘤であった。




エステルがキリエを産んで死んだのは、彼らにとっては晴天の霹靂であっただろう。




公爵家にとってエステルという妻は、もはや存在しなかった。


公爵も、シルヴィアも、彼女が「後妻」だと言われることを嫌悪して箝口令まで敷いた。


使用人たちも、公爵の方針に賛同していた。




哀れな身分差の実らぬ恋、それを邪魔した悪女であるエステル侯爵令嬢。これほど平民が胸躍る展開はなかっただろう。皆が公爵とシルヴィアに同情した。




「お父様、私のお母様はなぜこんなにも恨まれているのですか?」




幼いキリエが、公爵に尋ねると、彼の顔はひどく歪んだ。


その歪んだ顔は、殺意と憎悪に包まれていた。




公爵の銀髪、シルヴィアの赤毛とは異なる貴族の象徴たる金髪碧眼は、エステルとキリエのみが持っていた。公爵は碧眼であったが、銀髪であり、シルヴィアは赤い髪に灰色の瞳であった。




公爵は、その時初めて、エステルの面影を持つキリエを殴った。頬が腫れるまで思いきり何度も殴りつけた。




「屑が……」




公爵はそう吐き捨てて立ち去っていた。


キリエはなぜ自分が殴られたのかが理解できず、泣き叫んだ。


しかし、悪女エステルの娘に味方をする人間は誰一人としていなかった。




その時から、キリエは物言わぬ人形になった。誰かに何かを言われれば黙ってうなずき、自分から何かを話すことはなかった。


最小限、使用人に対する指示をする程度であったが、彼らもキリエのことを侮蔑していたため、その指示が素直に通ることも少なかった。




そんな日常を送り、キリエは理解したのだろう。


公爵家は、エステルとその娘キリエを憎んでいるのだと。




キリエが10歳の頃、膝裏まで伸びた美しい金糸の髪が揺れる度、妹のアリエルは姉に対していら立ちを覚えていた。


兄も、自分も、赤毛であり、優雅ではない。それなのに愛されない、娘とも認められていない少女が貴族の象徴を持っていることが許せなかった。




「あの髪、切ってやりましょうよ」




アリエルは、兄のルードと弟のハインに沿う話を持ち掛けた。


ルードは、キリエを暴力で屈服できるのであればなんでも良かった。ハインは、ただ面白そうだからと参加した。


ある日、キリエが庭の隅っこで、一人、花のスケッチをしていると、三人が彼女を取り囲んだ。




「おい、偽物! 散髪してやるよ!」




ルードが唐突にキリエの長い髪をわしづかみにして引っ張った。キリエは「痛い痛い」と泣き叫んだ。


ハインは、暴れるキリエの足を蹴り、地面に押さえつけた。そして、アリエルが庭師が物置に放置していたハサミを持ってきた。




「じっとしなさいキリエ! あんたの鬱陶しい髪をアタシたちが切ってあげる!」




三人は笑いながら、キリエの髪の毛を乱雑に切った。あえて、自分では手入れが難しい後ろ髪を中心に、出鱈目に切り刻んだ。




「前髪は伸ばせよ! お前の顔見るのもキモいから」




ルードはケタケタと笑った。




一通り三人が満足すると、ルードはキリエの腹を思いきり蹴った。キリエは花壇まで吹っ飛び、ただでさえ洗濯できていない衣服がいっそう汚れてしまった。


花壇の石段に頭をぶつけて血を流しても、誰も気に留める人間はいなかった。




彼女を嫌っていたのは、公爵家の人間だけではなかった。


貧相で、薄汚れた公爵令嬢は、社交界においても軽蔑の眼差しを向けられた。


キリエは、貴族の象徴を持ちながらも、わざと汚れたドレスを用意されたり、招待状を捨てられたり、パートナーを断られたりし、いつの間にか、失敗作の令嬢というレッテルを張られた。


彼女の自尊心は、ついぞ目を覆うように伸ばした前髪で守られるようになった。前髪の隙間からなら、世界がいくら醜くても、見ていられたから。




「おい、クソ女! 誰が立って良いって言った!?」




社交パーティーで、見知らぬ令息に罵声を浴びせられ、蹴られ、跪かされたこともある。




街を歩いている途中で、アリエルの友人である令嬢たちに馬鹿にされたこともある。




キリエは人のぬくもりも、愛も、生きる希望もない日々を送っていた。




そして、勇者たちが処刑された日。


勇者たちのニュースで話題がそれると考えた、シルヴィアとアリエルによって、キリエは16年という短い生涯を終えた。




これが、彼女の記憶。


そして、私のこれからの人生を暗示している。


地獄はまだ続いているようだった。

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