(2)
(5)
ルビイは呆然としていた。白衣がじわじわと虹色に染まっていくのに、動けない。
闇医者のロールであるというのに、本来の自分の脆さが露呈してしまっているのに、ロールプレイがまるでできない。
折り重なったデッサン人形──は、まだいい。
ルビイは目の前にある虹色を撒き散らした人間の死体に、完全に動揺してしまっていた。
少し呼吸をしてから、近づく。蘇生できないか見てみる──蘇生率は、0だった。闇医者特有の治療スキルの恩恵、相手のHPのパーセンテージと蘇生率が見える能力は、今は何も役に立たない。
死体の上に出てくるサイバーな吹き出し。
そこに見える蘇生率は、見事なまでに、0%だ。HPバーも、ゼロだ。
完膚なきまでに死んでいる。
完璧なまでに死んでいた。
(キショ……!なんだよ、ありゃあ……VRゲームってみんなこうなのか?ゲームとかやったことねえからわかんねえけど!?)
ルビイはこのゲームが一回目のプレイヤーだった。
ルビイの現実は、孤児院に所属する女子高生であった。
けれど孤児院の経営は常に苦しく、身を粉にしてバイトをしてその資金を補填してもうまくいかなかった。育ち盛りの弟や妹たちが満足に食べられない現実が苦しかった。
幸い女子高生はステータス、所謂パパ活に手を出そうかとも思ったが直情的で考えるのが苦手な元ヤンのルビイには全く向いておらず、よくしてくれた”パパ”に「申し訳ねえ、この御恩は必ず」と手紙を残して失踪してしまったりした。
武士みたいな女子高生に逃げられたと界隈では話題になった。
(……これが、ゲームの中の、死体……現実よりグロいじゃねーか!!!ちくしょう!!!姉さんたちにボコボコにされた奴らのがまだグロくなかったわ!!!)
蘇る元ヤンの記憶。
熱い契りを結び合った族の仲間と吠えあって殴り合って、家族のために脱退を宣言した時、姉さんたちもダチも赦してくれた。それは義だと認められたからだ。だが義がない奴らは普通にボコされていた、族の世界、そんなものである。
パパ活するか、デスゲームの世界に飛び込むかの二択くらいに追い詰められた結果が、これだ。
VRデスゲームなんて馬鹿馬鹿しいと思いつつ、これも金を稼ぐ手段の一つと割り切って参加した、はずだったのに。
(……怖ぇえ……くそ、ちくしょう……アタシは弱い……!!!)
──与えられたロールは闇医者で、ほぼ戦う力がなかった。メス投擲くらいしかスキルがない。
それだけでルビイは最初の頃、不安になった。
誰かが敵を捕らえてくれて初めて”拷問”や”医療検査”が使えるという他力本願っぷりである。
……そこを裏からメンタルをちょっと支えてくれたのが、キャッツブルーだったのだ。
ルビイはちょっと前のことを思い出す。
彼がまだゲーム内で生きて動いていた時のことを。
昨日の昼のことだ。
ジルコン老人が車内を探索にいくと席を外し、二人きりになった時のことだった。
『一人だと危ないと思うしさ〜、就寝時間になったら隣あったブースで寝ない?』
不意に言われて、ルビイは顔を顰めた。青いふわふわの髪と青い瞳の猫耳の画家は、へらへらと笑ってこちらを見た。
『はぁ……?何言ってやがんだ!こっちを殺そうってハラか!?』
ルビイは見た目とは裏腹な苛烈なタイプの元ヤンだったので言動が刺々しくなった。黒髪ロングでも全然ヤンキーである。
他人なんて信用してたまるか。
黒髪なのはカタギで生きるという自己表明の表れである。
『いや待って待って待って殴らないで待ってぇ〜〜〜』
拳を振り上げたらベレー帽から生えた猫耳がイカ耳になってあからさまにビビられたので流石にやめた。
『ったく情けねえなへにゃへにゃしやがって』
『殴られるのとか普通に怖いでしょ〜!』
きゃんきゃんと吠えたキャッツブルーは、ふっと力を抜いてからルビイを見た。
普段のギャル男然とした態度からは考えられないほどの静けさだった。
『ルビイちゃんってもしかしなくても初心者でしょ、オレ経験まあまああるし横のブースで音したら気がつけるよん』
『……ふうん、そういうもんか』
『横にいるからさ〜、オレになんかあったら守ってぇ』
不吉なことを言うな、胸の前で両手を組んでぎゅっとされたので頭を引っ叩くと、キャッツブルーはなんだか嬉しそうだった。キショいなと素直に思った。ドMなんだろうか。
青いふわふわの髪をふわりと揺らして、彼は微笑んだ。
口調に似合わない、儚げな炎みたいな笑顔だった。
『いや、初心者だとさ、オレが死ぬっていうと不吉だと思うんだなって……』
『当たり前だろ、人間が死ぬのは不吉だろうが』
キャッツブルーは首を振った。
『デスゲーム百戦錬磨だと他人が死ぬの喜ぶやつもいてぇ、いやマジありえない倫理観っていうかぁ。経験者にこんな事頼んだら多分ねぇ、無視される。ガン無視されるよ〜』
『そう……なのか!?倫理観やばくね!?』
『そうそう、奴らは人間が死ぬの嬉しいからね、賞金の分前増えるから!マジありえないと思うじゃん!?でもあり得るんだなあぁ〜!』
ギャルみたいな口調でキャッツブルーは嘆いていた。
その時はまだ、刑事を名乗ったセイギという少女と彼の有名なブラックジャックが捜査中だったのだが、人形が積み上がったブースをちらと青い猫目が眺める。
『──特にあそこにいるブラックジャックちゃんとかね、多分人間死ぬの平気なクチだよ』
有名な配信者だもんな、とルビイは納得した。
有名な配信者がすごい勢いで死体を見つけるたびにビビってたり泣いてたりしたら話にならなさそうだ。
『死ぬのも殺すのも平気な人間っていいよねぇ〜、羨ましいよ!オレにはマジ無理!マジマジのマジで無理!』
『いや普通にアタシも無理だが?』
『ルビイちゃんがまだそういうピュアっピュアだからお兄さんも助けてあげたいと思ってさ〜、こうしてナンパしてるわけ。今夜は隣同士のブースで寝よっ』
にこ、と笑った笑みは屈託がない。ルビイはしばらく考えた後頷いてみせた。
ブースには鍵がかかるのだ。だから隣り合っていても何も問題ないだろう。
それに、彼のロールは『芸術家』。格闘術で扉をこじ開けられることも多分ない。
あと入ってきたらメスを死ぬほど投げつけるという奥の手もなくはなし。
うっかり大怪我をさせてしまうのは個人的な仁義に反するが、このゲームでは殺人鬼役に割り当てられた人間以外が殺しを行うことはできないと決まっているので万が一攻撃してしまっても安心だ。
ルビイは考えるのが得意ではなかった。デスゲームに一番弱いタイプ。
故に彼女は、経験者の気遣いを受け入れたのだった。
──受け入れて、しまったのだ。
故に死体の第一発見者になってしまうとも、思わずに。
(6)
目の前には、虹色の海。
この世界では最も悍ましい血の色だ。
正義凛は唇を噛んだ。
死人が出た。
それは、凛にとっては大変な衝撃だった。愛野がいれば、大丈夫だと無自覚に思ってしまっていた。彼女がゲームに関わる以上、まず死人は出ないだろうと、思ってしまっていたのだ。
それは単なる思い込みだった。
愛野魔法は神様ではない。
彼女はデウス・エクス・マキナではない。
人々を絶対に守れるわけではないのだ。
愛野魔法と共にいても、人は死ぬ。
自分は確かに、殺し合いのゲームの中に立っている。
それを改めて意識して、身が冷水に斬られたような冷えた感覚を覚えた。わかっていたはずなのに。
横の愛野を見るが、愛野はじっとキャッツブルーの死体を見つめていて、普段と打って変わって別人のような静かな顔をしていた。
横にしゃがみ込み、触ることはせずに彼の顔を改め、それから全身にくまなく目をやる。彼女自身のロールは『令嬢』なのでシステムから得られる情報はほぼ皆無のはずだが、愛野自身の知識があればある程度の情報がわかるものなのだろう。彼女は死体を見て──何を思ったか小さく頷く。
「アイ、何かわかったの」
「いいや、
相変わらず彼女は芝居がかった口調で言う。
それからふっと笑って、凛を見た。
「ブラックジャックを呼びに行ってくるよ。こういう場所は探偵が捜査するものと相場が決まっている!それから眠っているであろうジルコン老人も起こしてこなければね」
「──アイ、私も……」
「いいや、セイギくんはここで残っていてくれたまえ。君は捜査をするといい、刑事にしかできないことをやるんだ、いいね?」
「…………」
ピンク色のフリルがふわりと翻り、彼女は颯爽とブースから出て行ってしまった。
後に残されたルビイを落ち着かせがてら、まずは聞き込み調査でもしてみるべきか。
そう思った凛は、呆然としているルビイを立たせて死体の見えない隣のブースへと連れていく。座らせても、ルビイは紅い瞳を揺らがせているだけで何も言わない。
「……あの、ルビイさん」
「………」
「ルビイさん?」
「……あ”?」
こ、こわ。
ドスが効いている。
「──あの、ちょっと聞き込みをしたいんですけど」
「聞き込みだぁ?てめえ、アタシがアイツを殺したって言いたいのか?」
「いえ、そういうわけでは……。……夜中の間に、何か物音を聞いたりしませんでしたか」
「ああ、そういうお決まりのやつかァ……」
なんだろう、前科あるのかな。
ぎらりと紅い瞳がこちらを見据える。
「……ねえよ、なんもねえ。本当にアタシは何も聞かなかった。あんな壁が薄いブースの隣にいたのに、物音とかも、なーんも……。強いて言うなら左側ブースで寝てたジルコン爺さんの寝言ぐらいしか聞こえなかったよ」
「そ、そうですか……」
「ああ、めちゃくちゃ孫の名前呼んでた、確実に三人はいた」
実際いたんだ、孫。
唐突なリアル情報に繋がりそうな諸々にコメントに困る。
凛はちょっと何を言うか考えた後で、捜査に路線を戻した。
「──声は?キャッツブルーさんの方の部屋から悲鳴とかは」
「いや、本当になーんも聞いてねえ……ジルコン爺さんのでっっかい寝言で目を覚ました以外は何も」
「──そう、ですか」
凛はちょっとブースとブースの合間に立って、壁を叩いてみる。
──めっちゃくちゃ薄かった。
超薄い木の板で仕切られているだけだ。こんなの声がほぼ絶対に漏れるだろう。
でも、彼女は悲鳴は聞かなかったという。何の音もほぼしなかったと。
妙だ。
「……」
あれだけの量の虹色の血。
キャッツブルーは、抵抗をしなかったんだろうか。
凛は立ち上がり、ルビイに軽く頭を下げてから部屋を出る。
隣のブースに足を踏み入れた。
倒れたキャッツブルーの死体は、虹色のペンキに塗れたように鮮やかだ。
瞳も見開かれたまま透明に青い。よく見ても死亡推定時刻はわからないし、死因が撲殺だと言うことしかわからないが──明らかに死んでいる。
凛は彼の特徴の猫耳に手を伸ばす。
その耳を触ろうとしたら──指がすり抜けた。
「………?」
すか、と何度触ろうとしても指が空を切る。
猫耳はVR装飾だったんだろうか……当たり判定がバグっているのかもしれない。
考え込んでいる凛の意識の中で、ゆっくりと列車が泊まる。
『ミステリア急行は、これよりツヴァイ駅へと停車いたします──』
二日目の停泊駅だ。
三日目の駅に着いたらこのゲームはおしまいなので、二分の一がすでに終わっていることになる。
列車が停まり、デッサン人形たちが行き交う中、それでも凛はまだ考え込んでいた。
アイがジルコンとブラックジャックを連れて戻ってきてもそれでもまだ、ずっと考え込んでいた。
(──、……もしかして……いや)
突拍子もなさすぎる何かが頭を掠めて、凛は頭を振った。
まさかそんな。あるわけがない。でも……。
もう一度検討しようとした時、愛野に不意に後ろから背中をたたかれた。
「セイギくん!」
「………あ、ああ、うん」
「探偵さんが呼んでいるよ」
これみよがしにくいと顎をしゃくって、愛野は笑って言った。
声だけがちょっと冷えていた。
今日もまた、甘い桜とローズのやわらかな香りがするのに、彼女の態度はいつだってやわらかどころではなくてバッキバキの原色みたいな女だ。ブラックジャックのことが気に入らないのがしっかり様子に現れている。
「──セイギさん」
ブラックジャックの所に行くと、彼女はジルコン老人と何か話していたようでこちらを見て美しく笑った。相変わらずどんな角度から見ても綺麗な人だ。
「おやおや、昨日は大変だったようですのう」
「ジルコンさんは……ご無事で何よりでした」
「ジジイが目を閉じてる合間に全てが起こって終わっていたんですじゃ、葬式みたいじゃのう」
老人ブラックジョークやめてくれ。
「どうせ連れていくなら列車じゃなく霊柩車に片足突っ込んどる老人にすればよいものを……」
重ねてくるのやめてくれほんとに。
「──さあて……真実は見つかりましたかな?刑事さん、探偵さん」
「おや……金貨を渡せばビューティーな真実さえも売り渡してくださいますか?商人さん」
「流石にそれは無理筋じゃのう……」
ふぉっふぉっふぉ、と笑いながら古風な言い回しをする老人に向かって、凛は暫く黙り込んだ。
ブラックジャックが美しく肩をすくめてみせる。
「死体は無数にありますが、殺人としてはまだ二回目ですからね。──麗しの真実が私たちの前に姿を見せるのはこれからでしょう」
「………あの」
ブラックジャックに向かって、凛は声をかけた。
「真実につながるかはわからないのですが、事前調査で分かったことを伝えさせてください……」
凛は話した。
ルビイは真夜中に何の音も聞いていないこと。
ジルコンの寝息が透けるくらい薄い壁越しに悲鳴一つ聞こえないのは奇妙だと言うこと。
キャッツブルーの体は死亡推定時刻が分からないこと。
死因は撲殺であること。
そして、何故かキャッツブルーの耳に謎の違和感があること。
「なるほど、この列車に乗っている”警察”は優秀なようだ」
現実とは全然違いますね、と彼女は微笑んだ。
ど偏見である。
ブラックジャックは話を一通り聞き終えると、自らもやがてブースに向かって踏み出した。
そして、凛と同じく何故か当たり判定のないキャッツブルーの耳を触って変な顔になったのだった。
「……なんでしょうね?これ。こんなにもキュートなのにさわれませんが……もったいない……こんなにもキュートだというのに」
「──ブラックジャックさんって……」
可愛いものが好きな天然なんだろうか……。
こんなに麗しいのに。と思いながら顔を見ていると、ブラックジャックは改めて空を切る指先で触れない猫耳を撫でてから考え込む。
「──私は、世の中の全ては
この人の部屋、多分塵ひとつなく履き清められているんだろうな。
凛とブラックジャックはそれから暫く調査を続行したが、──あることに気がつくのに、そんなに時間はかからなかった。
「……この、当たり判定ミス、バグ……かなと思うんですけど」
「バグ?VRDGで?そんなことが許されますか?美しくない」
きっと麗しい顔を歪めるブラックジャックのそばで、凛は困り果てていた。
こんな微妙で意味がわからないバグをどう処理したらいいかわからないのだ。
凛はキャッツブルーの死体をそっと触ってみる。
……目で見えるものと、実際に触れるその体や服の感触が、”微妙にずれて”いる。
例えば。キャッツブルーは青いベレー帽をかぶっていたが、触ってみると確かにそこには帽子が存在する。だが、目に見えるのはフェルト生地なのに、触ってみるとデニム生地の感覚がする。
例えば。指がある、とされた判定の部分から、微妙に指の長さがずれていて触れる範囲が僅かに短い。
これは、昨日は実際に死体に触っていなかったからこそ今日分かったことだった。
視えるものと、触ってわかることが、──違う。
「──苛立だしい。私はこういった美しくない事が一番嫌いですよ、謎解きというのは全てのパズルが整合性のある形で噛み合うのが最も麗しいと言うのに。余計なノイズが乗ってしまう。こんな小細工を弄して……何が目的なのでしょうね?」
「余計な……ノイズ……」
「ビューティーでないものは、私は愛せません」
彼女は酷く大きく溜め息を吐く。
「これは盛大な茶番に過ぎない。──……犯人がわかりました」
「……え?」
そしてブラックジャックは苛烈な雰囲気で微笑む。
「こんな奇矯なやり方でゲームを乗っ取ろうとする者は、この私が美しさで切り伏せましょう。──予言しますよ、セイギさん。明日──」
死人は出ません。
この私が、今から犯人を暴き出すからです。
麗しの男装の麗人はそう囁いて、うっそりと笑った。
そして彼女は苛烈な音を立ててヒールを鳴らし、盛大に壮大な動きで──楚々とした様子で椅子に座って手持ち無沙汰にしていた少女に指をさした。
「……アイさん」
「おやおや。なんだい?藪から棒に」
「貴女が、犯人ですね?」
(8)
唐突な指名に、その場の空気が凍りつく。
一緒になって、周りの人形たちもびっくりしていた。太った老人風の人形、婦人風の人形、帽子を被った青年人形。どれもに驚いた時の固有モーションでもあるのだろうか、実に凝っている。
しかし、指名された側は実に──実に面白そうに笑っていた。
ストロベリーブロンドはいつも通り豪勢にくるくると巻かれ、それを片手で肩から払いのけて愛野魔法は微笑む。
その笑顔は、──凛が知っている、いつもの笑みだった。
彼女は、……動揺というものを、一切見せていなかった。
「──昨日までの死体は、撲殺痕がよく見えなかった。何故なら全てが木でできた人形の遺体だったからです。けれど、今日の死体を見てある程度の確信ができました」
ブラックジャックはゆっくりと愛野に近づいた。
「……貴女が彼を殴り殺したのですね」
愛野は大仰に両手を広げてみせた。
「どうしてそう思うんだい?例えそうだとして、僕は凶器をどこへ隠した?トランクの中を探してくれてもいいよ、一度出したものは戻せない──それがこのトランクのルールみたいだから」
「ほう、なるほど。それで合点が行きました。貴女が昨日無理矢理ジルコン老人から絹の布団やら枕やらを買い込んでいた理由がね」
ブラックジャックは静かに言った。
「貴女は昨日ジルコンさんから”金の延べ棒”でものを買っていたそうですね」
「………」
「金属の棒だ、強度は充分ですよ。あまりに野蛮、ビューティーでない──けれど人を殴り殺すには限りなく効果的だ。そうでしたね、ジルコンさん?」
「ええ、間違いありませんのう」
「ま、マジかよ、爺さん………」
ジルコンとルビイがそれぞれ反応を見せる。
それを聞いても。愛野は──何も言わなかった。
そこで漸く、凛の硬直が解けた。
「ちょ、ちょっと待ってください……!」
愛野とブラックジャックの間に割って入る。
水色の刑事の上着を揺らして、探偵役に凛は困惑した目線を当てた。
「アイに犯行は無理です!だって、彼女は昨日の夜ずっと私と一緒にいて……」
「セイギさんは、……その間眠ったりはしなかったのですか?」
「そ、れは……いや、眠りは、しましたが」
「貴女が眠っている間に愛野が外へ行かなかったことは保証できないのでは?」
少し面白そうな瞳をして腕を組み、そして微笑んでくる男装の麗人に、凛は必死で抗った。
反論する材料を探す。
「………っ。私の体には、最強の対人術がインストールされています。その中のどれかが、アイが動いたら気がつけるはずです」
「対人術はあくまで対人術であって、気配感知等はまた別のスキルでしょう?」
「………そう、ですが」
「もし彼女が犯人でないとするなら、何故凶器であろう金の延べ棒をわざわざ支払いに使ったのです?彼女のトランクの中には、金貨や宝石もあったというのに」
犯人の行動全部に合理性を見ようとしているとしたら、愛野相手はちょっと無理があるかも。
と凛は思った。
「──……。ただ邪魔だったから……とか」
「お話になりませんね、ビューティーでない」
こちらは既に、”答え”を用意しています。
と、彼女は言った。
ポケットから、彼女は試験管を取り出す。
コルクで蓋をされた、レトロな試験管。
その中にはいかにも何かの薬品だとわかる液体が揺れていて、列車の中は静まり返る。
「──それはなんだい?」
愛野が面白そうに試験管を見た。
「アミノフタノール酸ヒドラジッドですよ」
「おやおや、どこでそんなものを?」
「”商人”はなんでも売ってくれる──大変捜査に役に立ちます、ありがとうございます、老ジルコン」
「いえいえ、お役に立てて光栄ですじゃ」
凛もわからなかったが、ルビイもわからなかったようだ。
「……なんだあ?それ」
愛野が補足した。
「端的に言うと──ルミノール反応を表す、血液に反応する特殊な捜査薬さ」
たらたらと、試験管から金の延べ棒に向かって薬が降りかかる。
暫くして──とてもわかりやすく、VRらしく、金の延べ棒は──愛野魔法が所持し、支払いに
当てた金色のそれは──青く、反応を示した。
青い、燐光を放っている。
VRらしい演出で。けれども、残酷なまでに、はっきりと。
凛は凍るような思いで、息をした。
このまま、愛野が犯人なら。
彼女はここで終わる。
肺の中に氷を詰められたかのような寒さが背筋を這っていた。
まだ。
まだ二回をクリアしただけで。
まだ快進撃はこれからのはずで──……これからの、はずで?
「アイ──……」
声をかけようとした凛を遮り、愛野が立ち上がる。
いつも通りの楽しげで、派手で、相変わらずピンクフリルに塗れた姿だった。
凛の水色のフリルの服とは対をなす、可愛いに振り切ったような格好。
お嬢様めいたドレスの裾をつまんで綺麗にカーテシーをするその様は──最高によく似合っている。
「よくわかったね!僕が”犯人”だよ──」
彼女はその場で踊るように礼をした。
「と言いたいところだけど。……このゲームには自白というシステムはないんだよね。君たちが”犯人”にできるのは、犯人を安全にブースに閉じ込めて三つ目の駅まで辿り着くことだけだ」
愛野はあくまで──ずっと楽しそうだった。
ずっとずっと、楽しそうだった。
「僕が犯人だと皆が思うなら、僕をブースに閉じ込めたらいいじゃないか。別に抵抗なんてしないよ?──このゲームの主導権は、”探偵”が握っている」
「アイ……!」
「セイギくん、ごめんね。どうやら僕はここまでみたいだ」
そんなこと、言わないで。
そういう気持ちと、どうしても納得できない気持ちが綯い交ぜになって、息が詰まった。
言葉が出てこない。
言葉が、──出てこない。
これからずっと相棒として行くんじゃなかったのか。
このゲームを、死人なしで終えてみせるんじゃなかったのか。
(……どうせ死ぬなら、自分だけ、……ってこと、なの?)
犯人役はプレイヤーとしての権利を投げうつだけで、”逮捕”ではある。
キャラクターとしては死んでいない。そういう意味なのか?
──どうしても釈然としない。
納得ができない。
そういった表情で愛野をみると、彼女は──なんかすっごいにこにこしながらこちらを見ていた。
満面の笑みである。
なんだそれ。
凛が何かを問いかける前に、愛野はブラックジャックに向き直ってしまった。
「さて、──ブラックジャック。そして列車の皆さん。君たちが僕を犯人だと思うなら、僕を密室に閉じ込めたらいい。そしてよく見張りたまえ、僕を安全に護送するまでね!そして三駅目に着いた時、僕を逮捕させればいい!」
「──おや、そんな必要を私は感じませんが」
そう言われて、ついとアイは眉を上げる。
麗しのブラックジャックは──……静かに。胸元から拳銃を取り出した。
背の低い愛野の額にぴたりとそれを据えて、ばーん、と撃つ真似をしてみせる。
そして彼女は麗しく微笑んだ。
「……三日目の駅に着いた日の朝、貴女を私がこの手で射殺して差し上げましょう」
おい、と、ルビイが慌てた声をあげ、ジルコンはおやおやと瞳を見開く。
凛は喉の奥が渇くのを感じる。
それでもブラックジャックはその宣言を翻すことはなかった。
「ちょ、っと……!そんなことって……私は刑事です、そんなことをしたら私があなたを逮捕します……!」
「セイギさん、貴女はまだVRDGの火が浅いのでわからないかもしれませんが──私刑は、割合よくあることなのですよ」
彼女は相手にしなかった。
そして楽しそうに、──実に楽しそうに言ってのけた。
「愛と正義の物語も──これでおしまいというわけですね」
そうして。
──愛野魔法は、ブースへと自ら閉じこもることになった。
犯人だと言われても、否定もせず──ほとんど肯定のような真似をして、彼女は列車の四号車の一番末席のブースに閉じ込められることとなった。
それでも凛は思っていた。
──納得ができない。
──なっとくが、できない。
(8)
「あれはどういうことなの」
「ブラックジャックの茶番に決まってるじゃないか」
ブース越しに詰め寄ると、愛野はしれっと言った。
「茶……茶番?」
「そうだよ、凛くん」
彼女は窓越しに面白そうに笑う。
「彼女は何も僕を本当に犯人だと思っているわけじゃない。いや、思っているかもしれないが、僕一人でやったことではないと思っているんだろうね。なんなら金の延べ棒を僕から受け取った老ジルコンだって殺すことは可能だし、あれを借り受けたら誰だって僕に罪を着せるための準備ができる」
「………うん……」
「ブラックジャックがあんな風にあからさまに僕を犯人にした理由を教えてあげよう!」
大仰にいつも通りに演技がかった様子で両手を広げた愛野を見て、ああ、こいつは全く絶望などしていなかったのだと凛は悟る。
ここで死ぬつもりが、愛野魔法にはない。
彼女はおそらく、犯人ではないのだ。
冤罪を着せられただけで。
「まあ理由はいくつかあるだろうが、僕のことが好きだからさ!!!!」
「えっ」
エモいことを考えていた凛は、そこでちょっと言葉に詰まった。
ポジティブすぎる。
あんまりにポジティブ。
「……自信がありすぎてちょっと、反応に困るんだけど」
「そうに決まってるよ!!!」
「思い込みが過ぎない?」
凛が顔を顰めると、愛野はぶんぶんと首を振った。
「いいや!絶対やつは僕のことが好きだからこんなことをしたんだよ、少なくとも僕と老ジルコン、二人に冤罪をかけられるアイテムを使ってわざわざ僕の方を指名するなんて!僕を指名した方が面白くなると思ってそうしたに決まってるんだから!」
「アイ………それは逆に、嫌われてるんじゃないの」
「そんなことはない。やつはね、僕がゲームプランナーとして企画した最初のゲームの参加者だったんだ」
「──え?」
思いもよらぬ過去を持ち出されて、凛はぽかんとした。
「ブラックジャックは僕の最初のゲームに参加してから、僕が企画するゲーム全てに参加申請を送ってきていたからね!!こんなの熱烈なファンだろう!?今でも覚えているよ、やつが送ってきた最初のメール。『こんな形のデスゲームは初めてプレイしました、奇矯過ぎます』だよ!」
「…………」
褒められてるのか貶されてるのか微妙なラインすぎる。
「しかも!知り合ったら知り合ったで、貴女の掲げる幸福理論は他人に伝染しません、貴女の理想は貴女にしか通用し得ないので貴女はずっと一人だとか言いつつ、私がパートナーになりましょうか?って言ってきたんだよ!向こうが一人で寂しかっただけだと思うんだけどね」
暴露されている。めちゃくちゃ暴露されている。
ちらとARデバイスを確認すると配信はずっとブラックジャックについてまわっているので問題はないだろうけど。
「…………」
「だから僕のパートナーの凛くんが”欲しい”んだろう、やつは。あいつと僕はちょっとだけ似ているから……僕に寄り添える子なら、自分にも、と思ったんだろう」
「……そう」
凛は、思い出した。
愛野について語る時、ブラックジャックがしていた不思議な目の色。
凛が、愛野の考えを継いで動いていると知った時の、彼女の言葉を。
『私は今、とてもビューティーな状況にいるのかもしれませんね』
「とにかく、ブラックジャックは僕のことが好きすぎてこんなことを──」
「──聞き捨てなりませんね」
廊下の向こうから声がして、愛野は一瞬黙り込んだ。
凛は振り返る。
真っ黒な漆黒のマント。まるで美しい青年のようなショートカット。エメラルドに輝く瞳、それでいてぴったりとしたスーツに包まれた体には女性らしい曲線がある。かつんと床を叩くヒールの音すら美しい──ブラックジャックが立っていた。
「……私が単なる狂気じみた好きというだけでこんなことをしたと?ビューティーでない」
「ブラックジャックさん……」
「凛さん、”犯人候補”の見張り、精が出ますね。ありがとうございます」
そんなつもりではなかったのに、にこりと微笑まれて凛は微かに眉を寄せた。
美しいけれど、圧がある。美人の真顔は怖いというけれど、彼女は怖い笑顔とそうでない笑顔を使い分ける術を知っている。
ブラックジャックは真っ直ぐに愛野を見据えた。
「──ちゃんと理由はありますよ」
「へえ〜?僕のファンはどんな理由で僕を犯人に仕立て上げたのかな?僕を犯人にしたら面白いと思った以外で……」
「勿論視聴率は考えていますが」
考えてるんだ。
パフォーマンスの鬼だ。
彼女の言葉を借りるならば、ビューティーの鬼だ。
「貴女を犯人に仕立て上げれば、本物の”犯人”が釣れるかもしれない」
「……へえ?」
「このデスゲームに参加している犯人候補は残り四人。私の視点では、私を除けばセイギさん、ルビイさん、ジルコンさんということになりますね」
愛野は目でブラックジャックを促した。
凛は急に始まった探偵の語りをおとなしく聞く体制に入った。
「セイギさんとルビイさんが犯人だった場合。──このまま貴女を犯人だとしておけば、三日目の朝に撃ち殺される貴女を案じて自主する可能性が出てくる」
「そうだね!」
「…………」
「どうしたんだい複雑そうな顔をして」
「……そう見られてるんだ、と思って」
「事実だろう」
「そうだけど」
君のその精神の美しさが好きだよ、と言って笑いかけてくるアイに複雑な気持ちを抱きながらも、凛はブラックジャックに先を促す。
「老ジルコンが犯人だった場合はわかりませんが──彼は温和で気の良いところがあるご老人だ。孫と同じくらいの少女が自分のせいで撃ち殺されるとなれば、あっさり自白してくれそうな気もするのですよ……彼はビューティーだ」
「なるほどね?」
「ジルコンさんは……ちょっと胡散臭い感じが、私はするんですけど」
凛の言葉に彼女は頷いた
「老獪な紳士というイメージが確かにありますね。けれど、彼は老獪であり紳士であるというロールプレイを常に保っているように見える。──そのイメージを崩すようなひっくり返し方をしてくる可能性もありますけどね。彼が犯人だった場合は、美しい自白劇は見られない可能性もあるでしょう……」
ですが、とブラックジャックは言った。
「私を除き三分のニに刺さる戦略を取るのは分の良い賭けなんです」
「……ブラックジャックの名に恥じないギャンブラーだね、君は!」
「好きなのは闇医者の方なのですけれどね。彼はビューティーですよ」
凛は小さくため息を吐いた。
「その三分のニのうち一人から言わせてもらいますけど……効果的だと思います」
「そうなのかい!?」
「……そうだよ」
目の前の彼女が殺されるとなったら、ゲーム資格とかはどうでもよくて、ただただ助けたいと思う。自分が自白して全てが丸く収まるならそうすることだろう。
「私とか……ルビイさんみたいな人にはすごく効くはず」
「古典的な情に訴えるやり方ですけれどね」
くすり、とブラックジャックは笑ってから、腰から拳銃を抜いてかちゃりと音を立てて愛野の額へと向けた。
「ああ、そうそう。本当に貴女が犯人だった場合でも三日目の朝には皆の前で銃殺しますので、そのつもりで」
「怖いじゃないか!僕が犯人だった場合はもう詰んでるっていうわけだね!」
「……ミステリにおいて、貴女みたいな犯人がいたら一番最悪なんですよ」
ブラックジャックは麗しい手つきで拳銃をくるくると回した。
「愉快犯で何をするか予測がつかず、証拠を出したとしてもそれが明確な証拠にならない。”あの時間に貴女はあそこにいましたね?何故ですか?”に対して”なんとなく意味はない”を素でやりそうですからね……」
「実際そうだよ!」
「論理が通用しない人間が犯人なのが、ミステリでは最も恐ろしい」
ですがこれはデスゲームですので。
そういったブラックジャックは愛野と凛を見た。
「私は”正しい探偵”としてこのゲームを終えてみせますよ」
殺人犯を暴き、列車の安全を守り、最後には罪をこの手で断罪する。
そういった正しい探偵であろうと思います。
そう言ったブラックジャックは、コートを翻し颯爽と去っていく。
「……アイ、だいじょうぶなの」
小さく問いかけた凛に対して、愛野は小さくため息を吐いた。
ブースの窓にぴったりと片手を押し当てて瞳を細める。
「……だいじょうぶだよ」
凛はちょっと考えた後で、その片手に自らの片手をガラス越しに合わせて見せた。
愛野がびっくりしたように目を見開く。それから、窓越しに額を押し当てるようにする。凛もおずおずとそれに倣うと、ピンクブロンドのご令嬢はとてもとても嬉しそうに笑った。
屈託のない笑みだった。
「凛くんがこんなにも優しくしてくれるなんて、犯人扱いされるのも悪くないね!」
「……おこるよ」
もしかして、こんな日々ももう終わってしまうのだろうかと、凛は目を伏せた。
愛野がもし、明日の朝死んだら。彼女は二度とこのゲームに復帰してくることはないのだ。ブース越しにでも窓のはめ方が甘いのか、桜とローズの香りがふわりと薫る。
目線を上げると、微かに口元を綻ばせて嬉しそうにこちらを見ている無邪気な愛野の姿がある。ピンクブロンドに水色の瞳も、フリルみたいな服を着てデスゲームを一緒に駆け抜ける経験も、もう、終わりなのだろうか。
そう思ったら少しだけ、さびしくなった。
まだ一ヶ月だ。
死ぬなら死ねばいい、プレイヤーとしてそんなのは自由な世界なのに。
他人に情を持ったらやっていけない、それがこのVRDGの世界で、裏切りは上等、他人の信頼は利用する前提に得るものだというのに。
愛野魔法に、死んでほしくないのだと、凛は思う。
「………ねえ」
「ん?なんだい?」
「………明日、もし魔法が死んでも。……リアルに戻ったら、またうちにきて、いいから」
それには何の意味もないとわかっていても、そう思う。
愛野は一瞬だけ目を見開いた。
「………意外だ。僕が死んだら、君は面倒な人間から解放されて人を殺さない前提なんていう無茶なデスゲームをしなくて済むようになるのに」
「私は、別に望んでこのゲームにいるわけじゃないし……助かる母数は多い方がいいから。それに──」
それに。
言いかけた言葉は、喉の奥に押し込む。
「なんだい?」
「なんでもない。……明日の朝、また来るね」
あなたといるの、案外嫌いじゃないよと。
言おうとした言葉を、凛は喉の奥に押し込める。明日言えばいい。明日、言おう。
それを言い訳にして、──明日、反乱を起こしてやろう。
明日の朝、ブラックジャックの銃殺を最悪組みついてでも止めようと、凛は思っていた。
こっちは最強の古今東西の体術をインストールされているのだ。
だから真っ先に朝方愛野のところへ来て、ブラックジャックが来るのを迎え撃たなければ。
そのためには、今眠っておかないと立ち回りができない可能性がある。
「──ああ、また、凛くん」
愛野が微かに笑っていうので、凛は小さく頷いてくるりと踵を返す。
ふわりと水色の刑事のコートが広がって、夜の闇の中揺れた。
ブースから離れる。近くにある自分のブースに入って、扉をゆっくりと閉める。
星が流れているのが見える。
窓の外では、月が追いかけてきている。
昨日の夜、愛野が散らかした布団と枕がそのまま残っていて、フリルだらけの布団からはサクラローズの香りがした。
たたんでもいないし片付けてもいない、愛野らしい。
凛は小さく笑ってから、布団に身を潜り込ませる。
──目を閉じた。
(9)
黒髪の少女が去っていく後ろ姿を見送って、愛野は小さくため息を吐いた。
名前の通り凛としたその佇まい、無造作に切り揃えられたショートヘアのさらさらの髪も、アメジストみたいな紫色の瞳も、何もかもが──一見しただけで殺気のようなものを静かに纏っていて、それだけで彼女が何を考えているのかわかってしまった。
正義凛は、ロールを逸脱しようとしている。
刑事役のロールを投げ捨て、こちらを助けようとしてくれている。
可愛くて、凛としていて、芯が強くて──そしてまっすぐだ。
そんな彼女にロールを逸脱させたくはない。
人が役目と違うことをした時炎上するのは割と世の常である。しかし、だが、まあ……。
「……でも、凛くんはやっぱり僕の理想の子だ!!!」
その意識をかなぐり捨てて、それでも人を助けようと思える真っ直ぐな意志。それが、愛野は大好きだ。愛していると言ってもいい。
楽しそうにしてから、愛野はさて──と小さく声を溢す。
時計が12時を回った頃、こんこん、と部屋をノックする音がする。
愛野は数秒じっと闇に覆い尽くされたガラスの向こう見つめてから、ブースの扉を開いた。
──そこには──人形が立っていた。
(10)
真夜中に──なんとなくざわめきを感じて、ブラックジャックは目を覚ました。
目を覚ました瞬間に、ARコメントを常に流している画面を覗き見る。VRの中で使えるARデバイスは機能を制限されているが、リアルタイムのコメントを見ることができる。尚、ゲームのネタバレに感ずるようなことは自動的にAIが弾くので、ゲームに支障はない。
そのコメント欄を常に──本当に常に、ブラックジャックは眺めながら行動をする。
他人からは見えないように設定をした上で、常にコメントの求めるロールプレイをする。
小さく欠伸をして、体を伸ばし──その一挙手一投足は、求められたものだ。
“ブラックジャック様今日もお美しい……”
“犯人役の愛野魔法を射殺するって言ってたけど大丈夫かな”
“まだゲーム内時間夜の三時だけど早起きすぎ”
“変な音しない?”
“本当にブラック様美しい、寝顔も美しかったけどお美しい瞳も最高”
“顔がいい”
“外ざわざわしてる”
ブラックジャックはいつでも完璧であらねばと思っている。
否、まあ完璧でありすぎても疲れるので自分らしさは出しつつ完璧であろうとしている。
持ち込んでいたデバイスからスムージーを実体化させて飲む。それだけでコメント欄が大盛り上がりするのを見て、ブラックジャックは満足した。
“朗報、我らがブラック様デスゲーム列車でもスムージーを飲まれる”
“VRの中でも習慣化してるのか……”
“美に取り憑かれた化身すぎる”
“本当に美しい人ってVRの中でも行動が美しいんだな”
ところで、外が騒がしい。ブラックジャックはふっと目を上げる。
空中で手を離したスムージーは、きらきらと光になって溶けてしまった。
外のざわつきは人間の気配ではなく──木彫りの人形たちの動く気配だ。
彼女は扉を開く。
まだ深夜三時だ、今愛野に会いに行っても朝に”撃ち殺す”約束を破ったことにはならないだろう。
──。愛野と二人になれる。
愛野魔法は、ブラックジャックのVRDGの人生を創った。
彼女の描いたシナリオの上でブラックジャックという配信者は育ち、有名になった。彼女が主催するゲームには全て参加し、毎回事細かな感想を送った。途中からなんかきしょがられている気配を感じてはいたが、とにかく参加したものは全てフィードバックをした。ブラックジャックはかなり真面目なファンだった。最も細かなところの批判はしまくったせいで周りからは粘着アンチだと思われることもあった、うっせえよ。
「──アイさんに最後の事情聴取にいきます。真実を暴きに行きましょう」
口に出して宣言をすると、コメント欄がわっと盛り上がる。
“ブラック様かっこいい〜”
“本当にリアルでもVRでもお顔が素敵”
“こんなに探偵役が似合う人他にいる?いねえよなあ!”
──他人からの憧れ、称賛、過剰な盲信。
ブラックジャックも、愛野も受けているものだ。
けれど……今の愛野には、ペア相手がいる。
それだけが、無性に許せないとブラックジャックは思う。
私が一人でいるのだから、あなたも一人でいればいいのに。
アウロラルーンのあの塔の屋上で、飛び降りたフリルまみれの彼女がもう一人の黒髪の少女に抱きつくショート動画は死ぬほどREXで見た。
貴女だって、かつては私と同じ塔の上にいる偶像だったのに。
そんなことを思いながら、ブラックジャックはブースを出る。
こんな真夜中でも起きている人形は起きているらしい、いくつかのブースには明かりがついていて、紳士風のコートを羽織った二人の人形が楽しそうにしている。その横のブースではトランプを使って賭博をしている人形たちがいる。その横では兄妹か恋人同士だろうか、ぴったりくっついている帽子の青年人形と少女人形。
それをなんとはなしに見ながら廊下の奥へ進──
──んだ、ところで。
彼女は凍りついた。
木彫りの人形たちが、倒れた人影を囲んでいる。
列車の廊下に、人間が倒れている。
周りのデッサン人形みたいな人形たちはそれぞれに身を寄せ合って震えている。
──にじいろが。
鮮やかなにじいろが、世界を染めていた。
ピンク色のフリルは虹の色に溺れて、眠るような顔はただ目を閉じていて。
それこそ、踊り疲れて倒れ込んでしまった少女人形のようだった。
ピンクブロンドは床へと広がり、それもまた虹の色に汚れている。
外側からしか開かないようにしていた彼女のブースの扉はなぜか開いていて、その扉にも返り血が飛んでいた。
ブラックジャックは立ち尽くした。
偶像が死んでいた。
そこで、愛野魔法が──絶対に死なないと思われた、デウス・エクス・マキナが、死んでいた。
“え……?”
“愛野ちゃん逝った?”
“嘘だろ、絶対死なないと思ってた”
“ブラック様絶望顔もおうつくしい……”
“アイちゃんマジ?”
“ブラックジャック様泣き顔も見たい”
“ブラック様は泣いたりしないから美しいんだろ、静かに祈りを捧げてほしい”
流れていくコメント欄の、こちらにもろもろを望む声に応えることもできない。
ただ茫然と、ブラックジャックは冷えた愛野魔法の脈を確かめる。
──まるで、無機物のように固く冷えて、──脈はなかった。
ブラックジャックは叫ばなかったが、彼女がそれを見つけてひゅっと息を飲み、よろめいてヒールで床を踏み締めた音がやけに高かったからか。
ブースの中の人形たちがわらわらと出てきて、様子を見にくる。
そして、車両の中は──、一瞬で、パニックになった。
“一般人役の人形”たちが逃げ惑い、他の車両へと逃げ、声も出さずにばたばたと走り去り、互いに我先にとこの血の香りに満ちた場所から逃げていくのを──ブラックジャックは、見もせず、ただ死体と対峙していた。
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