第22話
冬の日暮れは早く、バス停に着いた頃にはすでに辺りは暗くなっていた。三奈は肩で息をしながら崩れるようにベンチに座ると膝に肘を突き両手で顔を覆った。
息が苦しいのは走ったせいではない。胸がずっと苦しいのは自分で自分の心を殺したようなものだから。
――変わらないと。
美桜にああ言ってしまったのだ。自分が変わらないといけない。そう自分を仕向けてしまったのだから。
思えば『死ぬまで友達でいたい』なんて自分から言ったことはなかった。美桜がそう言ってくれて、その返事をしないまま今日まで変わらない関係を続けてきたのだ。彼女にそう言われて嬉しいと思ったことは本当だ。同時にそれを拒否したい気持ちがあったことも事実。
死ぬまで友達でしかいられないなんて、そんなこと耐えられないと心のどこかでずっと思っていた。だから変われなかった。変わっていく美桜をただうらやましがって見ているだけで何もしなかった。今の状況はツケが回ってきただけで自業自得だ。
三奈は顔を覆ったまま息を吐き出す。
「――なんで」
涙が止まらない。
泣きたいわけじゃない。苦しいのも我慢できる。今までだってそうだった。辛いのは自分のせいだと理解もしている。それなのに涙が勝手に溢れてしまう。何かが壊れてしまったかのように。
バスが目の前に停車する音がした。扉が開いてふわりと暖かな空気が流れ出てくる。しかしそれもすぐに遮断され、暖かな空気の代わりに排気ガスを三奈の周りにまき散らしながらバスのエンジン音が遠ざかっていく。そのときエンジンの音に混じってザッと靴音が聞こえた。
美桜が来たというわけではないだろう。彼女が使うバス停はここではない。仮に追いかけてくれていたとしてもここには来ないはず。なぜならここはいつも三奈が使うバス停よりも一つ先のバス停なのだから。だとしたら、ただの利用者だろうか。
――なんでさっきのバスに乗らなかったの。
知らない人間がいるところで泣きたくなんてないのに。
思っていると「あの、大丈夫ですか」と聞き覚えのある声がした。三奈は答えず、ただ深くため息を吐く。
金瀬だ。顔を見なくてもわかる。この少し気後れしたような、しかし空気を読まない言葉は彼女のものに違いない。
「――放っておいて」
なんとか絞り出した言葉だったが涙声に聞こえてしまっただろうか。
数秒の沈黙の後、金瀬の靴音が三奈の前で止まった。そしてふわりと頭に何かが掛けられる。驚いて思わず顔を上げると顔に暖かく柔らかな生地が触れて視界が遮られていた。
「……なにこれ」
「マフラーです」
金瀬の声は隣から聞こえた。おそらく三奈の隣に腰を下ろしたのだろう。三奈はため息を吐いて「なんでこんなことすんの」と呟きながら再び俯いた。
「寒いのかと思ったので」
「……マジで言ってる?」
「ウソです。すみません」
金瀬の声はいつもと同じように淡々としていて、その言葉にどんな感情が含まれているのかわからない。
「ケンカ、したんですか?」
「は?」
「……御影さんと」
見ていたのだろうか。まさか話を聞かれていたのだろうか。いや、それはない。あの場には誰もいなかった。少なくとも会話が聞こえる範囲に誰かがいたような記憶はない。
血の気が引いた頭で考えていると、彼女は「校門を出たら高知さんが御影さんを置いて走って行くのが見えたので」と続けた。
「……それでなんでケンカだって思うわけ」
「横を通り過ぎるとき、御影さんがすごく悲しそうに見えたので」
それを聞いて三奈は膝に置いた両手を握りしめた。
「――美桜、泣いてなかった?」
「わかりません」
「見たんじゃないの?」
「すぐに高知さんを追いかけて来たのでよく見ていません」
意味がわからず、三奈は頭に被せられたマフラーを少しあげて彼女を見た。弱いバス停の光に照らされた金瀬の顔は青白く、ひどく心配そうな表情でこちらを見ている。
「なんで」
マフラーの下から視線だけを向けながら三奈は聞く。金瀬はそんな三奈を見つめて「なぜでしょう」と首を傾げた。
「……ケンカ売ってんの?」
「すみません」
青白い顔のまま、彼女は申し訳なさそうに眉を寄せた。三奈はため息を吐いて再び顔を俯かせた。
沈黙が続く。車道から聞こえる車のエンジン音が近くなっては遠くなっていく。金瀬は黙ったまま、ただ隣に座り続けていた。
いつの間にか涙は止まったが、きっとひどい顔をしている。こんな顔は誰にも見られたくない。次のバスが来るまであと何分あるだろう。先に金瀬を乗せて、その次のバスに自分が乗ればいい。このまま静かに次のバスが来るのを待っていれば、ただ美桜とケンカして泣いていただけと思ってくれるだろう。
鼻を啜りながら考えていると「好きなんですか」と金瀬の声がした。瞬間、三奈の心臓が跳ねた。
「……え、なに」
「御影さんのこと」
いきなり何を言っているのだろう。彼女は何も知らないはず。美桜と関わりだってないはず。さっきの様子を見たとしても彼女が言っていたようにケンカをしただけと思うはず。それなのに……。
「――なんで」
思わずそんな言葉が出ていた。否定するべきだったと気づいたが、もうすでに遅い。しかし金瀬は「見てれば誰でも気づくかと」と言った。
「は?」
「高知さんが御影さんを見る表情は友達に向けるものじゃないですから」
彼女は昨日、保健室で言っていたことと同じ言葉を繰り返した。三奈は身体から体温が消えていくのを感じながら「んなわけないじゃん」と笑う。
「友達以外になくない? あ、親友だから友達以上かもだけど――」
「友達に対して、いつもあんな辛そうな表情は向けません」
金瀬は三奈の言葉を遮ってそう言うと「あんな悲しそうな視線を向けません」と続けた。
「……それ、誰のこと言ってんの?」
「高知さんです」
「違うでしょ。わたしはいつでも適当に笑って適当にウソついて――」
「泣いてたじゃないですか。昨日も、今も」
三奈の肩に触れたのはきっと金瀬の肩だろう。座る位置を変えたのか、彼女の声が近くに聞こえる。金瀬は声のトーンを落として「別にいいと思いますけど」と続けた。
「なにが」
「同性を……、御影さんのことを好きになっても」
「よくない」
「なぜ?」
「もうとっくに振られてるから」
「……それは、すみません」
金瀬は謝るとそれきり口を閉ざしてしまった。
思わず素直に答えてしまった。まだ誤魔化すことができたはずなのに何を素直に認めてしまっているのだ。このことを金瀬が誰かに話したりしたら――。
「前の学校でわたしも好きな子がいたんです。女の子で」
その言葉に三奈は目を見開き、顔を上げた。パサリと頭からマフラーが膝の上に落ちる。金瀬は車道の方に視線を向けて「親友でした」と遠くどこかを見つめながら続けた。
「誰にも言えなくて、もちろん本人にも言えなくて、でも誰よりも近くにいたくて……。わたしはこんな性格なので、ますます言動がおかしくなっていたんだと思います。気持ち悪いって殴られました」
「……え、親友に?」
思わず呟くと彼女は頷いて微笑んだ。
「親友だと思っていたのはわたしだけだったんです。友達だと思っていた子たちはその子の友達であってわたしの友達じゃなかった。ある日、親友の友達たちがわたしの言動を見て黒板に書いたんですよ。わたしのことを同性愛者だって。からかい半分、本気半分ってところだったんだと思います。それを見た親友はそれを本気と取ったみたいで気持ち悪いから二度と近寄らないでって……。それからわたしは一人でした」
三奈は彼女を見つめながら眉を寄せる。もしかするとウソなのかもしれない。ただの作り話かもしれない。そう思ったが彼女の横顔を見ると、とてもそうは思えない。青白い顔で薄く微笑むその横顔は悲しそうで苦しそうで、今にも壊れて消えてしまいそうだ。
「……なんでそんなことわたしに話すの」
すると金瀬はゆっくりと三奈へ視線を向けた。
「えっと、フェアじゃないと思ったので」
「は?」
「昨日の保健室でのことを考えるに、おそらく高知さんの御影さんへの気持ちは秘密なんだろうなと思ったんです。高知さんの秘密をわたしが一方的に知ってしまったらフェアじゃないですから、わたしの秘密も話しておこうと思っただけですが……」
不思議そうに首を傾げた彼女に三奈は思わず息を吐いて笑った。
「バカなの?」
金瀬は少し考えるようにしてから「そうかもしれません」と笑う。そして車道に視線を戻した。
「バカの方が、気持ち悪いよりマシです」
「……ごめん」
三奈が謝ると彼女は驚いたようにこちらへ視線を向けた。
「前に、あんたのことニヤニヤしてキモいって言った」
「ああ」
彼女は思い出したのか、はにかむように笑って「あれは確かにキモかったなって自分で思ってますから」と視線を再び車道へ戻した。
三奈はそんな彼女の横顔を見つめる。
好意を寄せていた相手に、それも親友と思っていた相手にそう罵られて殴られて、いったい彼女はどれだけ傷ついたのだろう。
彼女はよく自分自身を傷つけるウソをつく。それはもしかすると彼女の過去が原因なのだろうか。今のような喋り方や他人との関係を上手く作れなくなったのも、きっと……。
――昔はどんな子だったんだろう。
冷たい風が吹き抜けて金瀬がわずかに首を竦ませた。三奈は手元に視線を向ける。そういえばマフラーをずっと持ったままだった。
「これ、ありがとう」
マフラーを金瀬の首にかけようと手を伸ばすと彼女はビクッと顔を俯かせた。
「なにその反応。別に何もしないよ?」
マフラーをそっとかけてやりながら三奈は眉を寄せる。
「あの、はい。分かってます。すみません」
彼女は頷くとマフラーをグルグル巻いて顎を埋める。青白かった顔に少し色味が戻ってきたような気がする。そのとき、バスがゆっくりと二人の目の前に停まった。しかし立ち上がらない三奈を見て金瀬は「乗らないんですか?」と首を傾げる。
「わたし次のやつに乗るから先に帰って」
「え、でも駅までは一緒ですよね?」
「……メイク、崩れまくってるから明るいところで顔見せたくない」
三奈が視線を逸らしながら言うと金瀬は首を傾げた。
「かわいいですよ?」
「へー。皮肉も言えるんだね、あんた」
「いえ、そうじゃなくて――」
バスの扉が開いた。彼女は三奈を見てきたが、三奈が顎で先に行くよう促すと仕方なくといった様子でバスへ乗り込む。
「あ、そうだ。今の話は誰にも――」
「言いませんよ。これは二人の秘密ですから」
金瀬は真面目な表情でそう言うとバスの奥へと入って行く。
「――二人の秘密って」
三奈は苦笑しつつ、ベンチの背にもたれた。
事情を深く聞いてこなかったのは彼女が言うところのフェアじゃないと思ったからだろうか。それともそこまで三奈に興味がなかっただけか。
逆に自分は少し彼女に興味を持ってしまった。彼女自身にというより、彼女の過去に好奇心を。
――最低じゃん。
秘密にしておきたかった過去を少し聞いたから興味を持ったなんて、もし三奈がそう言われたらきっと殴るだろう。嫌な奴だと罵るだろう。
三奈は深くため息を吐くと「バカなのはわたしか」と呟く。
彼女は自分の過去を話すことで三奈を安心させようとしたのだろうから。
「……いや、やっぱバカなのは向こうかな」
結局、彼女はそうやってまた自分を傷つけたのだろう。
三奈は遠くなっていくバスのテールランプを見つめた。それが見えなくなるまで、ずっと。
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