第四章

第23話

 噂というものは真実かどうかはそっちのけで否が応でも広がるもの。その発信源が誰だったとしてもだ。しかし翌日からも三奈の日常が変わることはなかった。金瀬は約束通り誰かに話したりはしていないようで、三奈もまた彼女の過去について誰かに話したりもしていない。

 彼女はあの日、本当にただ三奈のことを慰めるためだけに自分の過去を話したのだろう。


 ――お礼を言うのは変な気がするけど……。


 小さな分厚い窓の下をちぎれるように流れる白い雲を見ながら考えていると「三奈」と隣で美桜の声がした。


「んー?」

「何が見えるの?」

「空と雲と海とたまに陸」

「だろうね」


 美桜は苦笑しながら「眩しくない?」と三奈の前に身を乗り出して飛行機の小さな窓から見える景色を見ようとしている。


「眩しいよ。めっちゃ眩しい」

「なのに見ちゃうよね」


 美桜は笑いながら三奈に顔を向けた。三奈は微笑んでから「やっぱ閉める」と窓の日除けを下ろした。


「えー」

「なんかヤバそうな人がいるし」


 言いながら三列シートの通路側に座る金瀬に視線を向ける。彼女は「いえ、わたしは大丈夫なので」と眉を寄せたまま言った。


「あ、ごめんね。金瀬さん。眩しかったんだね」

「別に眩しいわけではなく」

「大丈夫。喋らないでいいから楽にしてて」


 美桜の気遣った声に金瀬は「すみません」と力なく頷き、背にもたれて目を閉じた。顔色は真っ青だ。


「酔い止め飲んでそれってヤバすぎでしょ。そんなんで修学旅行の行程大丈夫なの?」

「三奈」


 美桜が睨んでくる。三奈は「はいはい。ごめんって」と肩をすくめるとと視線を金瀬に向けた。彼女はだらりと手足を投げ出すようにして天井を仰いでいた。そうしていないと吐いてしまいそうなのだろう。

 美桜は心配そうに彼女を見つめてから「大変だね、乗り物に弱いのって」と呟いた。


「美桜って乗り物強いんだっけ」

「え、普通」

「絶叫系って得意?」

「わかんない」

「なにそれ」

「三奈は?」


 少し考えてから「まあ、得意?」と首を傾げた。


「三奈こそ、なにそれ」

「あんま行ったことない。遊園地」

「あー、わたしもなんだよね」


 美桜は笑うと「今度行こうよ。一緒に」とスマホで何か検索し始めた。


「大きな遊園地だと待ち時間で三奈が怒りそうだから、あんま待ち時間がないようなとこ」

「……それってつまり人気がないところじゃん。面白いの?」

「たぶん面白いでしょ。逆に」

「逆に、ねぇ」

「こことかどう? 日帰りでも行けそうだし」


 美桜が見せてくれた画面には名前くらいは聞いたことがある遊園地が表示されていた。たしかに距離的にもそこまで遠くない。三奈は笑って「まあ、みんなで行けば楽しそうだね」と言う。


「みんな?」

「うん。あの人とか絶叫系苦手そうだし、無理やり乗せたら面白そう」


 三奈の言葉に美桜は少し驚いたような表情を浮かべた。きっと学校の友達と一緒にという意味に受け取っていたのだろう。彼女は小さく微笑むと「みんなと、か」と呟いた。


「行き帰りは車出してくれそうだし、そっちのが美桜も楽しいでしょ」

「……そんなことはないけど」

「え、嫌なの? あの人たちと行くの」

「そういうことじゃない」

「わたしはあの金髪の人と行くのは嫌かも。めちゃくちゃ連れ回されそう」


 三奈が言うと美桜は「たしかにミナミさんって遊園地とか張り切りそう」と笑う。


「五人だとアトラクション乗るの大変そうだし」

「あー、基本二人乗りだもんね。まあ、大丈夫だよ。そのときはわたし待ってるし」

「え……」

「どう考えてもそうなるでしょ。一人で乗っても楽しくないし」

「一緒に乗ろうよ」

「……あの人の体力が尽きたら代わりに乗るよ」


 美桜はしばらく三奈を見つめていたが、やがて薄く微笑むと視線を通路の向こうへ向けた。そこには松池と並んで座る明宮の姿がある。彼女は修学旅行が始まったばかりだというのにすでに疲れた様子で眠っていた。

 引率教師が移動中に居眠りをしても良いのかと思うものの、隣の松池がちゃんと周りを見ているのでとりあえず問題はないのだろう。


「行こうね。遊園地」


 呟いた美桜の言葉に三奈は「今度ね」と返して日除けが降りた窓に視線を向ける。

 あれから美桜とは上手くやれていると思う。これまで通りの関係をちゃんと続けているはず。美桜も今までと変わらない様子で接してくれている。何事もなかったかのように。

 だけど時折、彼女は不安そうな様子を見せるようになった。今のように、いつ叶うかもわからない約束をしたりする。まるで何かを確認しようとしているように。

 そういうとき、ふと思うのだ。美桜にとっての自分は何なのだろう。友達。親友。それはそうなのだろう。では美桜にとっての『親友』とは何だ。

 そんな、今まで考えたこともなかったようなことを思うようになったのは三奈が意識して自分を変えようとしているからだろうか。一歩引いて自分を見ようとしているからだろうか。しかし、その疑問を美桜にぶつける気にはなれない。彼女の答えを聞くのがなんとなく恐かった。


「飛行機降りたらバスだっけ?」


 三奈は修学旅行のしおりを確認しながら言う。美桜は頷いて「札幌までバスで行ってお昼ご飯だったはず」と心配そうに金瀬に視線を向けた。


「金瀬さん、バスは大丈夫そう?」

「……はい。飛行機以外ならそこそこ大丈夫です」


 力なく答えた金瀬はさっきよりも一層ぐったりとしていた。

 三奈がいつも絡んでいる友人たちは遠くの席に固まっているので、こんな状態の金瀬をからかうような者はいない。この席順は明宮と松池が仕組んだものだろう。金瀬が少しでも馴染めるようにと。

 いつもなら余計なことだと苛つくところだが、今回ばかりは正解だったかもしれない。もしこんな状態の金瀬をからかうような者が隣の席であったら、彼女にとって心身共に地獄の修学旅行の幕開けとなっていたことだろう。それはさすがに可哀想だ。


「でもさ、飛行機がこんなに苦手ならサボった方がマシだったんじゃない? 友達もいないのに来てさ。どうせ飛行機降りたからってすぐに体調が戻るわけじゃないだろうし」

「ちょっと三奈」


 美桜がたしなめるように眉を寄せたが、金瀬は目を薄く開けて三奈を見ると「そうですね」となぜか微笑んだ。


「でも来たかったんです」


 彼女は力ない目で三奈を見たままそう続ける。


「ふうん。最低の思い出にならなきゃいいね」

「はい。きっと人生最低の思い出は更新されることはないですから、大丈夫です」

「……あっそ」


 三奈は言って膝に置いていたマフラーを金瀬の顔に被さるように投げた。


「え、三奈? なにやってんの」

「吐く感じでもなさそうだし、少しでも寝るなら暗い方がいいかと思って」

「それにしてもいきなり――」

「ありがとうございます」


 金瀬は力なくそう言うと黙ってしまった。もしかすると本当に寝落ちしたのかもしれない。美桜は意外そうな表情で金瀬を見ていたが、その視線を表情そのままに三奈へ移した。三奈は眉を寄せる。


「え、なにその顔」

「いや、金瀬さんといつの間に仲良くなったのかなと思って」

「は? 誰がこんな奴と」

「だって金瀬さんがあんなに会話してるとこ初めて見た。お礼も言ってたし笑ってたし」

「……美桜の中の金瀬は人形か何かなの?」


 三奈の呆れた口調に美桜は「そうじゃないけど」と首を傾げる。


「わたしとはあんまり話してくれないのに」

「それは美桜が話し下手だからじゃん?」

「そうかな」

「そうだよ。わたしは人に合わせて仲良いふりするの、上手いからね。美桜と違って」

「……そっか。そうだよね」


 美桜は何かを思い出したのか納得したように微笑んだ。


 ――でもきっと今は美桜の方が人と接するのは上手いと思う。


 今の三奈はもう以前のように適当に人と合わせることができない。そうすることが苦痛に感じてしまう。学校で誰かと一緒にいることに息苦しさを感じてしまう。美桜がいなければ毎日一人で過ごすことを選んでいたかもしれない。

 一人の方が楽だと思ってしまう自分がいる。


 ――なんでこうなったのかな。


 小さく息を吐いたとき、ポンとシートベルト着用サインが点灯した。三奈は視線を金瀬に向ける。彼女はマフラーで顔を覆ったまま静かに眠っているようだった。 

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