一杯のごほうび(花梨と志真⑥)

胡桃ゆず

あの日、あの時

 あれは、その冬最大の寒波がやってきて、風がとても冷たかった日の話。でも、天気は良かったので、雪は降らなかった。空が高くて気持ちよかったのを、後になって思い出すのは、これから話す何気ないことが、ずっと頭の中に残っていたから。そういえば、あの日はあんな日だったな、っていうことも、なんとなく引っ張り出されて来るのだろう。


 あの時の花梨は、顔を覚えている常連のお客さんというだけだった。夜、おそらく仕事が終わった後に、週に何度か来る。いつも決まって頼むのは、ブレンドコーヒー。それから、その日の気まぐれで、何かフードメニューを注文して、夕食を取っていくこともある。


 この前来た時は、ナポリタンを食べたっけ。


 いつの間にか、そんなことを考えるようにもなっていて、何でそんなことまでいちいち記憶しているのか、それに気が付くと、自分でも何だか変だと思う。そういうふうになっていた。


 今日はコーヒーだけか、何か食べるかな。


 そんなことを考えているのも。今日来るとも限らないのに。

 どうしてだろう。店のドアが開いて、あの日のように、寒いとつぶやきながら入って来る姿が、何度も過る。


 そうなったのは、あの言葉を聞いてから。

 あの言葉を聞く前は、その日も店にやって来た時、本当に、どうということはなく思ったものだ。


 ああ、またこの人来たんだ。そのくらいに。


「いらっしゃいませ」


 誰にでも言うのと同じように、挨拶をした。その人は小さく微笑んで、軽く会釈する。暖房の利いた室内に入ってきて、少し強張っていたものが緩んだように、一息つく。


「今日は寒いですよね」

「はい。だから、朝から絶対あったかいコーヒー飲もうと思ってて」

「コーヒーなら、こんな時間まで待たずに、朝や昼に飲んだ方がいいでしょう」

「ここのがよかったんです」


 消え入りそうなくらい小さな声で言う。でも、しっかりとこちらの耳には入った。思わず笑ってしまう。


「じゃあ、ブレンドコーヒーですか?」

「お願いします」

「はい。他には?」

「今日はいいです」


 こんな風に、常連客としてお互い顔見知りであるので、他のお客さんよりは気安く話すこともある。それが特別であったかどうかは、この時はわからなかった。


 立ち去ろうとした瞬間、少し離れたテーブルのお客さんの話が、耳に入って来る。若い女性の二人連れ。大学生か、社会に出たばかりの頃か。


「もうすぐバレンタインだよね。でも最近はさ、ちょっと奮発していいチョコレートを自分のために買う人も多いよね」

「ああ、わかる。自分へのご褒美っていうやつだよね」

「そうそう」

「誰かにあげるにしても、あげないにしても、今度デパートの催事場見に行こうか」

「うん」


 この会話を聞いていない風に見えて、やっぱり耳には入っていたのであろう。常連客の彼女は、コーヒーを運んでいった時に、こんなことを訊ねて来た。


「そういえば、このお店はバレンタインメニューってあるんですか?」

「いえ、特には……でも、二月だけじゃなくて、冬の間はホットチョコレートもメニューにありますよ。チョコレートケーキもあります」

「なるほど」


 ゆらゆらと湯気を揺らめかせるコーヒーに目をやりながら、彼女は小さく頷いた。さっきの別のテーブルのお客さんの話が耳に入っていたのであろうとはいえども、何故そんなことをわざわざ訊ねて来たのか。

 一つの推測が、閃いてしまった。


「もしかして、バレンタインに誰かと……」


 余計な詮索であるのは間違いない。お客さんに対して、こんなプライベートな詮索をするものでもない。何でそんなことを口走ってしまったのかと、自分でも後悔したが、言ってしまったことは取り消せない。彼女は一瞬きょとんと目を丸くしていたが、やがて苦笑した。


「え……いや、そんなことは……ここへ来るのは、私の自分のための楽しみですし。誰かと来るより、一人で来たいです。いわゆる……自分へのご褒美、ってやつですかね」

「ああ、喫茶店でちょっと一人でゆっくりする時間が、っていうことですか」

「いえ、そうじゃなくて……」


 そこで一度言葉を切った彼女は、少し不満そうにこちらを見た。たしかに、さっきから会話が噛み合わない。わからず屋、とでも言いたいのだろう。その証拠のように、小声で、さっきも言ったのに、と、つぶやく。


「ここのコーヒーを飲むことが、自分への小さなご褒美なんです。他の喫茶店じゃなくて、ここの」


 全部のお客さんに自分がコーヒーを淹れているわけじゃない。他の店員がやる場合もある。けれど、記憶にある限りで、彼女に出したコーヒーは、全て自分が淹れていた。つまり、あなたが淹れたコーヒーがご褒美だ、と、言っているのだろうか。


 いや、まさか。今まで飲んだコーヒーを誰が淹れたかなんて、お客さんは知るはずもない。誰がじゃなくて、単純にここの店で飲むのが好きだ、という話のはず。

 どう捉えるべきか迷っている間にも、彼女は次の言葉を繰り出した。


「なんか落ち込んだりモヤモヤしてたり、嫌なことがあっても、ここのコーヒーを飲んで自分を甘やかすんです。それぐらい、ホッとするし、美味しいんです」


 何と返事をしたらいいのだろうか。自分に向けられている、というのは勘違いだとしても、そうじゃなくても、嬉しいということは、素直に感じている。この店で出されるコーヒーが、彼女にとってそういうものだということだから。

 それが、どういう嬉しいなのかは、わかっていなかったけれども。


「ありがとうございます」


 少しの間、じっとこちらを見てから、彼女は笑った。そして、あたたかいコーヒーに口をつけ、一口飲んで、この店に入って来た時と同じような、ホッと緩めるような様子を見せる。


 ああ、言っていることに何も嘘はないんだな。だから、余計に何かが胸の奥でうずうずと動く。

 本当に何でもなくて、短い会話だった。だけど、混じりっ気のない、まっすぐな言葉。だから、ずっと刺さって抜けない。傷つける棘じゃない棘も、あるんだな。そんなことを、知ったような気になってしまう。


 それはきっと、自分で思っているよりも、ずっと嬉しかったからだ。


 ありがとう、にしても、ちゃんと伝えるにはもっと言い方があったんじゃないのか。でも、どう言えばよかったのかは、まったく思いつかなかったけれど。

 だから、それから彼女が店に来ても、今まで以上に交わす言葉が空疎になってしまった。言いたいことがあるほど、何も言えなくなってしまう。

 どういうことが言いたくて、それをどう言う言葉が適切に伝えてくれるのか、さっぱりわからない。


 そんなある日のこと。いつものように、仕事帰りに店にやってきた彼女は、メニューを見ながら言う。


「ブレンドコーヒーとチョコレートケーキをお願いします」

「はい」


 彼女がケーキを頼むのは珍しかった。そういえば、この間、バレンタインのメニューは何かあるかと訊かれた。もともと今日はそうしようと決めていたのだろうか。

 バレンタインデーであるのだし。


 ここへ来て、一人でケーキを食べる。誰かのためじゃなく、自分のために。今日という日を、そういう日にした。


 実際どうなのかなんて、知りもしないし、聞く権利もないのに、彼女の物語を勝手に頭の中で作り上げてしまう。


 馬鹿らしいと、自分でも思う。


 コーヒーを出すと、いつもみたいに、ホッとした顔をして一口目を飲む。それでまた、自分の中にじわじわと嬉しさが込み上げてくるのを、はっきり感じていた。

 でもなぜか、少し落ち着かないように、いつものようにゆっくりすることもなく、飲食が済むと、彼女は直ぐに帰ってしまう。


 ごちそうさまでした。


 どこかぎこちない笑顔と、そんな言葉を残していって。

 彼女が使っていたテーブルを片付けていると、椅子の上に紙袋が一つ忘れておきっぱなしになっているのを見つけた。


 やっぱり、これを、誰かに渡すつもりだったんじゃないのか。忘れていくなんて、うっかりしすぎだろう。

 いろいろ考える前に、足が動き出していた。今ならまだ間に合う。


 でも、どこかぎこちなかった今日の様子を思うと、もしかすると、その約束が反故になって、がっかりしてここに来たのかもしれない。そうだとしても、ちゃんと返さなければ。

 どれほどの想いが、この紙袋の中に詰まっているのか。それを他人が捨てちゃいけない。


 店を出てまだ姿が見えるところに彼女はいた。


「すみません、ちょっと待ってください!」


 大きな声で叫んだら、街の音にかき消されずに、届いた。彼女は立ち止まって、ゆっくりと振り向く。驚いているのでも、戸惑っているのでもなく、どこか泣き出しそうにも見えるような顔だった。

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