第14話
ダンスレッスン室は、文字通りダンスの練習をする場所である。
タレント達の活気に包まれるこの部屋も、普段はとても静かである。
ライブの予定が特にないことも相まって、今この部屋を利用しているのは雷志ただ一人であった。
「…………」
突如、雷志は虚空に向かって正拳突きを出した。
もちろん、彼を除きここには誰もいない。
あるとすれば空気のみで、その空気には如何に雷志が剛拳であろうと触れることは叶わない。
しかし、雷志の動きは留まるばかりか徐々に、確実に勢いを増していく。
傍から見やれば誰もおらずとも、雷志だけにはその相手がしかと視えていた。
もっともそれは、彼自身が生み出したいわば幻影であり、他者の目には決して触れないが。
要するに、現在雷志はイメージトレーニングをしている最中だった。
わざわざこのような場所を選んだのは、あまりにも最近が多忙であるからに他ならない。
(本当に忙しくなってきたな……)
研修期間が終えてからというものの、雷志が担う業務は新人からすればとてつもなく多かった。
いくらマコトとの共同作業といえど、やはり限界というものがどうしてもある。
ここ最近の彼は社宅に戻れば、その疲労から泥のように眠ることが多くなりつつあった。
(正直に言うなら、こんなに多忙になるとは思ってすらいなかったぞ……)
とにもかくにも、そのような生活が続いてようやく身体が少しずつ適応したところで、雷志は長らく休みにしていた日課を再開した次第であった。
とはいえ、貴重な休みはやはり休息に割り当てるのは至極当然である。
もともと、雷志の性格上休日はゆっくりと身体を休めることに専念していた。
外出は、せいぜいが買い物ぐらいでその他はこれと言って特にない。
そこでわずかな休憩時間を使って、雷志は修練を行うことにしたのである。
事務所ないであればすぐに動けるし、なによりも設備がとても充実している。
中でもダンスレッスン室の広さは、より実戦形式に近しい修練を可能とした。
実在する相手はおらずとも、脳内で描けば無限に戦える。
とてもいい場所だ、と雷志はそんなことを思った。
決して、誰かのために見せるつもりは毛頭ない。
もっともそれは、事務所内という場所を選んでいる時点であまり説得力がないとも言える。
やはり今からでも新しい場所を見つけるべきなのかもしれない。
雷志はそんなことを、ふと思った。
「おぉ……! 雷志さんの練習しているところ、はじめて見たかも」
「本当に誰かと戦ってるみたい……」
「でも某の方が強いぞ?」
「古代人……なんだよね、たしか雷志さんって」
「そう、なるのかなぁ……でも、未だにウチ信じられないっていうか……」
「ねぇ某の方が強いぞ? ねぇ某の方が強いよね?」
「でもでも、そんなの関係なくドリプロのスタッフとして働いてくれるのはすっごく感謝してますけどね」
「うん……そうだね!」
「ねぇぇぇぇぇってばぁぁぁぁぁ!? 某の話を聞いてよぉぉぉぉぉぉ!」
外がわいわいといつになく騒がしい。
雷志は小さく溜息を吐くと、そのまま拳を静かに解いた。
これ以上は修練に集中できそうにない、そう判断してのものである。
ダンスレッスン室の外に出れば、言うまでもなくさっきの会話の主らとばたりと出くわした。
「あ、雷志さんおつかれさまです! そこにいたんですね」
「……あぁ、少しな」
見え透いた嘘をいけしゃあしゃあと吐いたカエデに、雷志は内心で呆れていた。
あれだけ騒いでおいて、よくもまぁ嘘を吐けるものである。
気付いていない、とそう本気で思っているのならばあまりにも愚かだ。
それを直接、当人に雷志が言及しなかったのはこれ以上の面倒事を増やしたくなかったからにすぎない。
ただでさえ、ドリームライブプロダクションのタレントは癖がとてつもなく強い。
主に絡みが多い第一期生にでさえも、その手綱を完全に掌握しきれていないのが現状だ。
(こいつら、本当に自由すぎるからな……)
このままではいずれ、ストレスで脳血管が切れそうな気がしないでもなかった。
練習を終えてからは普段となんら変わりなく、スタッフとしての業務がある。
毎日、画面に向かってひたすらキーボードを打ち羅列する文字とにらめっこをする。
かつての生活では考えられなかったスタイルでも、それに適応してしまうのが人間だ。
気が付けば定時となり、しかし未だ残って作業をする。
そのことについて疑問さえ、もはや雷志は抱かないようになっていった。
これが当たり前なのだ。そう認識する彼の意識の片隅では、異なる感情がふつふつと芽生えつつある。
戦いたい……そう願うのは、彼が格闘家であるからに他ならない。
もう久しくずっと、戦いというものを雷志はしていない。
彼が純粋に缶詰め状態になっているのも理由の一つである。
多忙すぎる毎日はとにもかくにも新鮮味はもちろん、刺激と呼べるものが一切ない。
ひたすら同じことを繰り返すだけの毎日だ。楽しいと思えるはずもなし。
しかし生きていくためにはどうしても金が要る。
その金を稼ぐためにも社会人は、働くしか道がないのだ。
果たしてそれを幸せと呼ぶか否かは、当人次第となろう。
雷志の心情は、まったくもって楽しくない。この一択に尽きた。
「…………」
時刻が午後8時をすぎたところで、雷志はようやく事務所を後にした。
そのまま社宅へ向かうのではなく、何故か彼の足取りは町の方へと赴いた。
今から雷志がやろうとしていることは、結果として自分の首を絞めかねない。
これはいわば完全なる私闘である。
ふつふつと湧き続ける感情を満たすために、自らを餌とした。
人間をはじめ、妖怪達がずらりと彼を取り込む。
傍から見れば立派なリンチの光景で、不幸にも現場に居合わせた者達はそそくさとその場を立ち去る。
彼らの反応は、極めて正しい。
実際、雷志を含む周辺の空間は幾重にも連なる闘気によってひどくぐにゃりと歪んでいた。
君子き危うきに近寄らず――巻き込まれてしまっては元も子のないだろう。
たった今より、ここ――大通りは戦場と化す。
「――、一応聞いておくが……それ相応の覚悟はできている。そう認識していいんだな?」
「あぁ、もちろんだ。すべては己が闘争本能が赴くがまま。我、強き者と拳を交えん」
「……感謝する。俺を、強者と……そう呼んでくれたことに」
雷志は不敵な笑みをふっと浮かべると共に、拳を静かに構えた。
戦況は多勢に無勢で、雷志が圧倒的不利な状況にあるが彼の表情から笑みは消えない。
彼らも等しく武術家であり、武人としてのプライドがある。
だから徒党を組んでまで勝つ、などという輩はここには一人としていなかった。
正々堂々、一対一で――しかし雷志にかかる負担は相当なものだった。
いくら一対一の状況であるとは言えども、やっていることはつまるところ総当たり戦だ。
後半になればなるほど、相手側は有利なり反面雷志はより劣勢に立たされる。
従って、どちらに転ぼうが雷志の敗北は濃厚なままだった。
だからと言って、その程度のことで拳を下げるような男ではない。
むしろ雷志は劣勢である方が燃えるタイプだった。
「さぁ……始めるぞ」
大通りを舞台に始まった戦いは凄烈……これ以外に相応しい言葉を雷志は知らない。
迫りくる相手を、ただ一心に打ち倒す。
正拳、蹴り、肘、果ては頭突き……超人的にまで鍛えられた雷志の五体は、いわば全身が凶器である。
その彼の場合、防御すらも攻撃へと転じ相手に肉体を徹底して破壊する。
一撃必殺……稲妻のこどき鋭さと、破城槌のごとき重い拳の前に立っている者はおらず。
程なくして、雷志の足元にはおびただしい数の敗者が倒れていた。
「それなりに楽しめたぞ。礼を言う、俺はまた強くなれた」
不敵な笑みを浮かべると共に、雷志は静かにその場を後にした。
戦いの余韻が冷めやらぬ内から、雷志はふらりと公園へと立ち寄る。
昨晩、
以前ならば数多くのカップルで賑わっていたはずが、今日はひどく寂しい。
ちょうどよかった、と雷志はそう思った。
「……やはり、俺にはこうしている方が似合っているな」
握りしめた拳に視線を落として、雷志は自嘲気味にふっと笑う。
ドリームライブプロダクションでの仕事も、確かに多忙なのはさしもの雷志も認めていた。
やることは多々あるし、休憩している傍らでも常に仕事のことに余念がない。
本音を吐露するなれば、ある意味ブラック企業ではないかと思いつつあった。
だが、彼は未だスタッフとして残っている。
本当に嫌だと思うのであればすっぱりと雷志は辞めるつもりでいた。
そうした感情がないからこそ、彼はこうして今もいる。
それでも彼の本質は格闘家で、強き者との戦いを常に求めている。
先の仕合は、正しく彼に多大な刺激と高揚感をもたらした。
「…………」
しかし、それもすぐに彼の胸中で不満へと変わる。
雷志の脳裏にはこの時、ある敵手の存在が色濃く浮上していた。
それをあっさりと浄化したカエデ――もとい、祓魔士。
(もう一度、
雷志はそんなことを、すこぶる本気で考えていた。
言うまでもなく、彼のそうした思考は自殺行為に等しい。
如何に強者であろうとも、祓魔士でないものが祓うなど不可能なのだから。
それはカエデの戦いぶりで雷志も重々承知している。
(それでも、俺は……)
もう一度戦い、そして次こそは倒したい。
雷志の胸中に、熱き闘志が激しく燃え上がった。
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