第13話
空がまだ東雲色の頃から、雷志は外にいた。
時刻は午前五時をようやく迎えたばかりとだけあって、周囲に人気は皆無である。
穏やかな静寂に未だ包まれた中、彼の足音だけが静かに奏でられる。
毎朝10kmのランニング――最初は修練の一環にすぎなかったが、今となっては雷志の日常の一部である。
「…………」
ランニングをする傍らで、雷志は沈思する。
つい先日、雷志はようやく研修生という立場から脱却し正式のドリームライブプロダクションのスタッフとなった。
如何せん、研修期間があまりにも短いことにさしもの雷志も違和感を憶えずにはいられなかった。
とは言え、早くに就職できることになんら問題はない。
当面の間は、マコトのサポート役として務めるよう辞令が雷志に出ている。
むろん、一介のスタッフである雷志に拒否権はなく。彼自身も特に拒むつもりは毛頭ない。
どんな業務内容であろうと、ただ愚直なまでにこなしていくだけ。
しかしながら、これから先どのようなことが起きるのか。それを雷志が知る術はない。
「とりあえず。頑張るだけだな」
不安と期待……これらの感情を混ぜ合わせた彼の心境は、雷志に不敵な笑みをふっと浮かべさせた。
「――、ひどい! ひどいひどいひどい! どうして某の配信にきてくれなかったのさぁ!」
「そんなことを言われてもだな……」
「カエデとはいっしょにやったのに……某だけいっしょにしないなんて、えこひいきだぞ!」
「えこひいきしているつもりはないぞ?」
「嘘だ! 絶対にカエデだけひいきしてるんだもん!」
「はぁ……」
出勤して早々、茨木アカネからの苦情に雷志は頭を掻いた。
彼女の言い分としては、先日の果たし状……もとい、コラボの誘いである。
雷志はそれを一蹴し、今日に至るまで記憶にすらなかった。
それがアカネと相対したことで脳裏に蘇ったのである。
(人間っていうのは、どうしてこうも余計なことばかり思い出すんだろうな……)
雷志はそんなことを、ふと思った。
「ねぇねぇ! ちょっと聞いてるのぉライちゃん!」
「……ちょっと待て。なんだ、そのライちゃんっていうのは。俺のことか?」
「そんなの、ライちゃんしかいないじゃん。そんなことより、某とも一緒にゲームしてよぉぉぉ!」
「…………」
未だかつて呼称されたことのない愛称に加え、幼子のように駄々をこねる鬼娘。
これらを目前にした雷志は頭を抱えてしまう。
「……とりあえず、俺にも俺でやるべきことがある。お前のコラボ配信には参加できない」
「えぇぇぇぇっ!? ねぇねぇいいでしょう!」
「こいつ……」
71歳でありながらも、その仕草から言動は外見相応と言わざるを得ない。
これでは本当に子守りをしているのとなんら変わらないではないか。
雷志が胸中にて、こうひっそりと思う傍らでアカネは未だ駄々をこねる。
これをどうにかしないことには、業務にも滞りが出るのは明白だった。
すでに始業時間はすぎているし、アカネ自身にも配信する時間が少しずつ迫っている。
配信のための準備や機材のチェックをするのであれば、もう悠長にしていられる時間は彼女にもないはずだった。
しかし、当の本人は駄々をこねるばかりでそのことに対して
当然ながら、この事態を雷志が黙認するはずもなく。
とは言えどうしたものか、とうんうんと頭を悩ませるしか雷志はできなかった。
そこに、ひろりとやってきたマコトは正しく雷志にとっての救世主となる。
「アカネさん、いつまでもワガママを言っちゃだめですよ」
「うっ……まこっちゃん……」
「雷志さんだってこれからもっと多忙になっていくんですから、無理を言っちゃだめですよ――やっと私の仕事を押し付けられる人ができたんだから」
「……聞こえているぞ、マコト」
「あ、これはその、冗談ってやつですよ冗談!」
「はぁ……とにかくだ。コラボ配信をするのなら、まずはきちんと日程とかをある程度決めてからにしてくれ。突発的に言われてもこっちも無理だ」
「うぅぅ~……」
すっかり落ち込んだ様子のアカネを他所に、雷志はもくもくと作業を続ける。
傍から見れば、彼という男はなんと薄情なのだろうか。こう口にする者が出ても致し方がない。
とはいえ、彼が担う業務は彼女らを思っているならばこそとても重要なものばかりである。
配信時間の管理などはもちろんのこと、撮影に関する場所取りなどなど。
やるべきことは実に多々あって、休まる暇がまるでない。
それこそ、研修期間がいかに楽なものだったか。こう思い知らされる。
(しかし、これをマコトはほとんど一人でずっとやってきたってことか……さすがとしか言い様がないな)
むろん、スタッフは他にもいるが主な戦力としてマコトの存在はドリームライブプロダクションには必要不可欠だ。
いわば心臓部のようなものであり、ここに支障をきたせばおそらく。たちまち立ち行かなくなるだろう。
現在ももくもくと、エナジードリンクを片手にキーボードを無心で叩いている。
その姿はある種雷志に尊敬の念を抱かせ、しかしあぁはなりたくないものだと彼に切実にそう思わせた。
余談ではあるが、マコトのデスクにはすでに10本もの空き缶が置かれていた、
もちろん、中身は等しくエナジードリンクである。
「……ちなみに、今年で何本飲んだんだ?」
「さぁ……100から先は数えてないですし、憶えてもいないですね」
「……その内、心臓が破裂しても知らないぞ?」
「あはは、大丈夫ですよ。こんな生活をもうかれこれ数年間ずっとやってますけど、どういうわけか至ってピンピンしてますから」
「それは……」
果たして大丈夫だと自信満々に言うべきことなのだろうか。
からからと笑うものの、一切輝きが宿っていないその瞳で明後日の方を見やるマコトについて、雷志はすこぶる本気でそう思った。
ひとまず、彼女にはまとまった休日が即必要だろう。
「それにしても……いくらなんでも多すぎやしないか?」
雷志がそうもそりと口にしたのは、ドリームライブプロダクションに所属するタレントについてのものだった。
ヤマトだけでも、ざっと数えれば30人を優に越す多さだ。
そこに海外にある支部も含めれば50人を超えるのだから、雷志もすごいと言う他ない。
それだけの数がいるのだから、名前を憶えるのも一苦労である。
なんなら雷志は未だに、絡みがまったくないタレントについては名前はおろか顔さえも憶えていなかった。
(たった数日でどうこうできるだけの数じゃないぞ……)
今でも必死になって、アーカイブを見てはそのタレントの特徴を少しでも憶えようと雷志は必死に務めていた。
とは言え、肝心の成果についてはぼちぼちと言ったところ。
より正確に言えば、ようやく半分ぐらいの顔だけを憶えたところだった。
先はまだまだ長そうだ。雷志はそんなことを、ふと思った。
「――、とりあえずスケジュール表はまとめておいた。後は撮影、配信に使う時間帯と場所の確保、そっちについても一応できている。ダブルチェックを頼みたい」
「……雷志さん。本当に有望すぎじゃないですか?」
「俺も自分がここまでできるとは、正直思ってもいなかった……」
午前の作業もとりあえず無事に終わったとして、雷志は屋上へと赴いた。
屋上はもはや彼にとっての憩いの場であり、そのため先客がいたことに雷志はわずかばりに残念に思った。
どうやら今日は一人でゆっくり、とはいかないらしい。
「あ、雷志さん」
「フウカか」
「あ、はい。ウチもここが大好きなんです」
「そうか」
一言だけ言って、雷志は適当な場所に陣取った。
屋上は、とても広々としている。
だからわざわざ隣にくる必要がないにも関わらず、ちょこんと座るフウカに雷志ははて、と小首をひねった。
別段、フウカが隣にいること自体に雷志はさして異論はない。
屋上は誰のものでもないのだから、好きなように使えばいい。
だが、何故あえて隣なのか。雷志はこの疑問についてフウカに尋ねた。
「……俺の隣に座る必要はないんだぞ?」
「うぇっ!? いや、えっとその……な、なんとなく……」
「……まぁ、別に構わないが」
「あ、あはは……ありがとうございます」
特に大した会話もなく、ただ時間だけが穏やかに流れる。
第三者から見やれば、彼らの食事はなんとも味気のないものに映ることだろう。
談笑するわけでもなし、おかずを交換し合うわけでもなし。
ただ肩を並べてお互いのペースを保って、各々食事を堪能する。
それならば個々に食べているのとなんら変わらない。
そんな昼食も終盤に差し掛かった頃――
「あ、あの雷志さん」
不意に、フウカがおずおずと口火を切った。
「なんだ?」
「あの、ドリプロはどうですか?」
「どう、というのは……」
「その、すごしやすいなぁとか。楽しい場所だなぁとか」
「……正直に言えば、未だによくわかっていない」
「そ、そうですか……」
「……どうしてお前がしょげるのかはわからないが。だが、悪い場所じゃない」
「え?」
「ここには活気がある。それにみんなが生き生きとして働いているように感じる。俺は、こういった企業に勤めたことがないからわからないが……多分、理想の職場っていうのはこういうところなんだろう」
それは嘘偽りない、雷志の本音だった。
ドリームライブプロダクションのスタッフは、その多忙さ故に余裕がまったくない。
毎日をとてもあくせくとしていて、誰一人として愚痴や不満をもらさない。
笑顔が絶えず、お互いに協力し合って現場を支るその姿勢は雷志にははじめての経験だった。
ずっと、一人だった。
頼れる者は己を置いて他にあらず。
とにもかくにも、強くなるために毎日をがむしゃらに、死に物狂いですごした。
自分にはなかったものが、ここには山のようにずらりとある。
明確な違いは新たな刺激となって、雷志に新鮮さを憶えさせた。
「そう、ですか――あ、あの! 今度ウチの配信にもいっしょに出演してくれませんか?」
「いや、それは少し無理だな」
雷志は内心で呆れつつ即答した。
「えぇぇ~!! どうしてぇ~!?」
「……そもそも、何故お前といいフウカといい、俺が承諾すると思ったんだ?」
「だ、だって……」
「あいつにも言ったが、俺の本来の立ち位置はスタッフなんだ。お前達みたいに表舞台に立ってやるのが仕事じゃない。それに、配信を見に来ているやつらはお前達が見たいわけで俺があれこれするのを見たいわけじゃない」
「そ、それはそうかもですけど……でも、ウチだって……」
「……とにかく、突発的なコラボの誘いはやめてくれ。やるのならしっかりと企画や――」
「わかりました! すぐに作ってきます!」
「時間帯を……って、おい!」
颯爽と去っていくフウカは、雷志の制止は届かない。
あっという間に見えなくなったフウカに、雷志はただ立ち尽くすだけだった。
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