第8話 「誓願ってなんだ?」



「鳴神亜門さまですね。私は聖リブラ教会 東京南北支部の修道院長の村上美悠みゆと申します。警察のかたからあなたさまのことは伺っております。私共のエスタ、舞花が大変お世話になっているそうで、ありがとうございます」

 そう言って村上美悠は深々と俺に向って頭を下げた。

「えっ、あ、はい、いえ。そんな・・・」

 とても丁寧に挨拶されて、何だか返答に困ってしまった。あとで聞いた話では、彼女は舞花のいた修道院の長で、準聖女という役職なのだそうだ。

 

 二十代半ばくらいだろうか、柔らかで整った顔立ち。リブラ教の修道女はヴェールを着用しない。ややウエーブの掛かった美しい黒髪が一段と目を引く。

 聖職者の衣装を身にまとっているというのに、なにかそこはかとなく漂ってくる大人の女性の色香いろか。思わず見惚みとれてしまった。


「あの、鳴神さま…、失礼ですが、その腕の傷を見せていただけますか?」

「えっ? ああ、はい…」

 言われるままに、左腕をゆっくりと差し出すと、彼女はひざまずいて俺の手を取り、すでに出血は止まっていたものの、凝固ぎょうこした血のにじむバンダナをそっとがし、痛まぬようゆっくりとライトダウンのジャケットの袖を捲り上げた。傷口は不細工にだがふさがりかけている。


 右手に巻き付けたロザリオのリブラを傷口にかざし、小さく祈りの言葉を口にする。日本語ではないようで、何を言っているかは聞き取れなかった。

 そのうちに斜めに入った傷口の辺りがほのかに輝き出した。それと共に、ずっと続いていたズキズキとうずくような痛みが次第に消えていった。


「これで痛みが少しはやわらぐかと思います」

 顔を上げ微笑むと、俺を見上げながら言った。

 少し腕を動かしてみた。

「えっ、あっ? 本当だ!」

「よかったね、亜門くん。美悠さまの癒しの秘跡ひせきよ」


――正直驚いた。これが準聖女の持つ霊験れいげんというものなのか。


「でもこれはあくまで応急処置。痛みを和らげるだけで、傷を治すわけではありません。医学的には麻酔のようなものなんだとか。ですから、病院にはあとでちゃんと行ってくださいね」

 そう言って優しく微笑んだ。なんて人を癒す柔らかな優しい笑顔なのだろう。

「は、はい…」


 はんなりとした美悠さまの姿に見惚れていると、

「ちょっと、亜門くん、なに鼻の下伸ばしてんのよ!」

 そう言って俺の頬を、舞花がまんでぎゅっと引っ張った。

「あ、イッテ!」

 我に返って頬を押えた。

「何すんだよ」

 横を向くと、舞花はフンっとそっぽを向いて、怒ったように口を尖らせていたが、気を取り直したように美悠さまに尋ねた。


「でも、美悠さま、どうしてここへ?」

「あの人形使いの魔人の情報は私たちの教会でも掴んでいました」

 美悠さまは一瞬、美咲たちに捕縛ほばくされたストリングの方へ視線を向けた。

「もう何十年も前に日本に渡って来ていたようですが、最近とみに活動が活発化していて、被害報告も増えていたので、内偵を進めていたのです。そこに今日、警察からの連絡であなたがここへ来ていると聞いて、急いで美咲たちを先にここへ向かわせたのです」

「そうでしたか…。ありがとうございます。助かりました」


「春日刑事に今日のこと連絡してあったのか?」

 ちょっと意外に思った俺が尋ねた。

「うん。三時を過ぎても私からの連絡がなければここに来てもらうように、昨日頼んでおいたの」

「だったら最初から一緒に来てもらえばよかったのに」

「警察が来ると言ったら後藤さんが嫌がるかもしれないし、何より魔人に警戒されると思ったから…」

「だけど、一つ間違ったら、お前の魂、取られていたかもしれないんだぞ!」

「そうね、私が甘かった。ごめんなさい。あいつが、――ストリングがここまで強力な魔人だとは思わなかったから」


「そうやって自分勝手な判断をするところが、あなたのいけないところです。夕美のことでエスタの職を解任されて、少しは反省してくれるかと思ったのに、聞けばいまだに無謀な真似をしているようですね。なぜそうやっていつも一人で解決しようとするのです? 教会を離れても、無茶な単独行動はつつしむように言っておいたはずです」

「はい…。申し訳ありません…」

 美悠さまのお説教が始まったようだ。舞花はしおらしくうつむいている。どうやら流石の舞花も、このエスタたちの長である美悠さまには頭が上がらないらしい。

「自分はともかく、鳴神さまに何かあったら、取り返しのつかないことになっていたのですよ」

「はい…」


「まあまあ、もうそのくらいでいいでしょう」

 背後で声がした。振り返るといかにも上品な、四十がらみの紳士ぜんとした男が立っていた。銀縁眼鏡で、やはり紺色の教会服を身にまとっている。

「神師さま、またそのような・・・。――神師さまはいつもいつも舞花に甘過ぎです。」

 美悠さまが苦言をていした。


「ファスタ! 来てくださったのですね」

 不意に助け船を出された舞花が嬉しそうに顔を上げた。

「まあ、そうは言ってもね、彼女はもうすでに教会も修道院の手も放れていることだし」

 男が笑顔で俺の前に進み出た。

「君が鳴神君だね。」

「は、はあ…」

「私は聖リブラ教会 東京南北支部の司教で草間くさまと言います。よろしく」

 軽く目礼もくれいした草間神師しんしは、急に相好そうごうを崩し砕けた調子に変わった。

「ウチの舞花ちゃんが随分と世話になっているそうで。すまないねぇ。この子わがままで、一度言い出したら聞かないから。君も苦労してるでしょう」

「まあ、おじさまったら。そんなことないよね、亜門くん」


――お、オジサマ?


「う、ううん…」

 咳払いと共に美悠さまが眉間みけんしわを寄せ、二人をたしなめた。

「神師さま、何をおっしゃっているのです! それに、エスタ舞花。あなたも何ですか、ちゃんと神師さま、とお呼びしなさい」

「えっ? ですが美悠さま、神師さまが自分のことは『おじさま』と呼ぶようにと、私たちエスタには…」

 舞花がきょとんとした表情で言った。

「あっ! ごめんなさい、神師さま。そうお呼びするのは二人きりの時だけって話でしたね」

「ああっ・・・! 舞花ちゃん何も今こんなところでそんな話を…」

 急に草間のオジサマが慌てだした。


「ファスタ! 一体何を考えていらっしゃるのですか? 知らない方が聞いたら妙な誤解を!」

「ああ、いやぁぁ…。我々リブラの信徒は教会内では家族も同然というか、何と言うか…」

 何だかしどろもどろになっている。


「ちょっと頼りなさそうに見えるかもだけど、おじさ…、いえ、神師さまは、とてもおやさしくて、とても強い神器の持ち主。凄い実力者なのよ」

 我が事のように、得意気に舞花が言う。

「ああそう…」 

 しかし、年若い女の子であるエスタたちに、自分のことを「おじさま」と呼ばせているなどと聞いて、もはや俺にはただの変態オヤジにしか見えなくなっていた。



「舞花!」 

 美咲が俺たちに近づいて来て声を掛けた。

「よかった無事で」

「美咲!! ありがとう、助けに来てくれて」

 舞花が美咲の手を取った。

「うん。素直でよろしい」

 二人、ホッとしたように顔を見合わせて笑った。

 

「はじめまして、エスタ舞花」

 美咲の隣にいた、紫色の教会服の女が挨拶あいさつした。

「あっ、あなたもありがとう、本当に助かったわ。えっと…」

「私はレナ・マーカス。日本名は紀藤きとうレナと申します。どちらでも構いません。お好きなほうでお呼びください」

 そう言って微笑むと、俺にも目配めくばせして軽く会釈えしゃくした。

「てっきり外国の方かと」

 あおい眼、ブロンドの髪を持った美しい外国人顔のレナの口から流暢りゅうちょうな日本語で挨拶され、舞花も俺も少なからず驚いた。


「はい。私の父はドイツ人ですが、母は日本人。私も金沢の出身です。今回大学進学に合わせて上京して、聖リブラ教会 東京南北支部の神器持ちのエスタとして、あなたの後継を務めます。よろしくお願い致します」

「えっ? そう、なの…」


「舞花、あなたがいけないのよ、意地張って修道院を出て行っちゃうから」

「でも、私のせいで夕美を危険にさらして、その結果あの子がケガをしたのは事実だし。解任されても仕方ない。夕美のケガはもうよくなった?」

「ええ、もうすっかり。大事をとって今日は待機中だけど。――これからはエスタ レナと三人でチームを組むことになったの」

「そう、なんだ…。エスタ レナ、二人をどうかよろしく」

「ええ。もちろん」

 レナは表情を引き締めてうなずいた。


「――でも、あなただってちゃんと謝れば、美悠さまも神師しんしさまもきっとお許しくださったのに」

「そうかもね。でも私、初誓願せいがんの前に一度、修道院以外で生活してみたい想いもあったし。それにいい人見つけちゃったし…」

「いい人?」

 美咲はチラリと俺に視線を向けた。興味津々の視線を向けられた俺は、訳もなくドキッとしてしまった。たぶん目が泳いでいたのではなかろうか。

「あなたまさか、しゅそむくつもり?」

「えっ! 違う、違う、そんなんじゃないって! ところで、あなた達、いつからここにいたの? もっと早く来てくれてれば、人形に封じられたりしないで済んだのに。あれ、とっても気持ちが悪かったんだから」

 舞花は話をらそうと話題を変えた。


「ああ、そうね。えーと…」

 美咲が思い出すふうにわざとらしく右上に視線を向ける。

「あれは確か、――短い間だったけど、あなたと一緒に暮らせて楽しかった、の辺りからだったかしら」

 長年一緒に暮らして来ただけあって、美咲は舞花の口調を上手に真似て言う。

「えっ?」

 舞花の顔色が変わった。

「なっ!」

 俺もあの時のことを思い出してちょっと慌てた。 


「そうそう、――私のこと忘れないで…。好きよ、亜門くん、とかなんとか…」

「わー、わー、わー」

 舞花が美咲の目の前で両手を大きく左右に振り、大声で美咲の声をさえぎった。レナが可笑おかしそうに笑いをこらえている。


「やだぁ、もう恥かしい…。あれはその、勢いというかなんというか…」

「彼がその『いい人』なんだ?」

 美咲がニヤニヤしながら再度俺を見た。

「えっ? 亜門くんは私の助手よ。でも、今日の働きで相棒くらいには格上げしてあげてもいいかな」

「はっ? なに言ってんだ。御免だね。お前のお祓いに付き合っていたら、命がいくつあっても足らんわ」

 さも嫌そうに横を向いて言った。

「だけど、魔人の恐ろしさが今度こそこれでよくわかったでしょう。この際だから亜門くんもリブラ教に入信したら。そしたら人助けにもなるし」

「お断りだ。ウチは代々敬虔けいけんな仏教徒だからな」


「鳴神さまはリブラの信徒ではないのですか?」

 レナがちょっと意外そうに俺に尋ねた。

「ああ、うん。ウチは正月には家族で神社に初詣に行くし、葬式の時は坊さん呼ぶし。まあ典型的な日本人っていうか」

「それじゃ、このストリングに使った剣はあなたの神器ではないのですか?」

「ああ、それは舞花のだ」

「エスタ舞花の?」

「そう、これは私の『祝福の剣』よ。でも、私が使ってもあんなふうに銀色に輝いたりしない」

 舞花がレナから自分の短剣を受け取った。

「どういうことですか?」

「よくわからないけど、亜門くんが持つと神器のように光るの。私の護身用のエアガンも亜門くんが持つと神器のように光って、ビービー弾なのに、撃たれた相手は浄化される」

 言いながら受け取った自分の剣の状態を見て確認する。


「それは本当なのかい。舞花ちゃん?」

 少し離れたところにいた草間神師が聞きつけてこちらに声を掛けてきた。

「は、はい。神師さま」

 振り返って答えた。

「ふむ。それは興味深い!」

 そう言って、美悠さまの詰問きつもんからするりと逃げ出すように俺たちに近寄って来た。

「あっ、ちょっと神師さま、お待ちください、まだお話が…」

 慌てて美悠さまが後を追う。


「鳴神君、君には何か隠れた才能があるのかもしれない。ぜひ、うちの教会に来て、私と一緒にそれを研究しましょう!」

 草間神師は真面目な顔をして俺の手を取った。

「はあ? いや、ちょっと待ってください。俺そういうの、全然興味ないんで」


 おいおいちょっと待ってくれ。何だか急に怪しげな話になって来たぞ。俺自身、なんであんなことが出来たのか、今でも全く分からないというのに…。

 しかし、まあそんなに心配するまでもなかった。


「神師さま、まだお話が終わっていませんよ、こちらへいらしてください!」

と、背後から声がして、すぐにまた草間神師は怒った美悠さまに引っ張って行かれた。

「ああ、舞花ちゃん、美咲ちゃん、助けて…」

「がんばって、おじさまぁ~!」

 舞花と美咲がふざけて声をそろえ、手を振った。


「あの、鳴神さま…」

 不意にレナ・マーカスこと、紀藤レナが俺の名を呼んだ。

「は、はい」

「・・・私と、――お付き合いしていただけませんか?」

 唐突に、だが真剣な顔で、俺の眼を見て訴えるように言った。

「えっ!?」

 周囲にいた教会関係者たちが一斉に俺たち二人に注目した。

「エスタ レナ、あなた何を・・・」

 驚いた美悠さまが、胸倉を掴んで怒鳴りつけていた草間神師を放り出してこちらにやって来た。


「もちろん、お友達からということで構いません。何しろ今日初めてお会いしたのですから…。ですが、先程の魔人と闘うお姿を見てからというもの、私、ずっと胸が高鳴ってしまって…」

 レナは周囲の雑音など耳に入らないようで、真っすぐに俺を見つめている。

「――ええっと、それは一体、どういうことでしょう…」

「鳴神さまにはもうすでに、どなたか想い人がいらっしゃるのですか?」 

「いやぁ、別にそういう特別な人は…」

「亜門くん!」

 俺の返事を聞いて、さっきまで呆気あっけにとられてポカンとしていた舞花が叫んだ。なんだか知らないが凄い形相ぎょうそうでこちらを見ているんだが…。

 

「エスタ レナ、あなた神への初誓願は?」

 美悠さまが尋ねた。

「はい、まだです。これは…」

 左手を挙げ、薬指の指輪を、美悠さまはじめ、皆に見せた。

「父から譲り受けた神器です。――私の父はドイツのリブラ正教会の神師候補でした。この指輪を使って魔人払いの任に就いていました。けれど、終生誓願を立てる前に、この日本で私の母と出会い、恋に落ちました。そうして、父は神ではなく、母を生涯の伴侶はんりょに選んだのです」


「誓願ってなんだ?」

 誰に聞くともなく俺がつぶやいた。舞花はさっきからムッとしていて、俺の質問には答えない。

「神と一生結ばれることよ。終生誓願を立てると生涯独身を貫くことになるの。まあ、簡単に言っちゃえば、神さまと結婚することね」

 隣にいた美咲が教えてくれた。


「鳴神さま」

 レナが一歩歩み寄った。

「私は大学を卒業するまでの四年間を初誓願の期間と決めております。もしその間に私が神ではなく、鳴神さまを終生のお相手に選ぶ決意をし、その時鳴神さまにも私を伴侶にお選びいただけるのなら、私は喜んで還俗げんぞくして、エスタの任を辞するつもりです。私の父がそうしたように」

 言い終わると、レナは恥かしそうに下を向いた。透き通るような彼女の白い頬が、紅に染まるのが誰の眼にもわかる。彼女にとって、これ以上に真剣な告白はないだろう。

 けれど俺に、女子から告白された経験などある訳もなく、事態がよく呑み込めていない。

「えっ、なになに? どゆこと? それに、なんで俺なの?」


「舞花、どうすんの? レナみたいな清楚系美女が相手じゃ、あんたのいい人取られちゃ…」

 冗談っぽく言いながら、舞花の顔を見た美咲が口をつぐんだ。いつも陽気な舞花が、滅多に見せない、淋しげな表情をしていたから。それは修道院の施設にいる時から一緒に育った美咲にしかわからないであろう、とても微妙なものではあったのだが。

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