第5話 「泣き人形」



「ああ、あなた、奥さんに裏切られてしまったんですね」

 突然現れた男は、飛び降りようとしていた私の腕を掴んで言った。

「誰だ、離してくれ、俺はもう死ぬんだ!」

 私は思わず男の腕を払って振り返った。おかしい。この屋上には誰もいなかったはずだ。


 その男は片頬に妖しい笑みをたたえ、「死ぬなんて馬鹿らしいですよ、おやめなさい」と首を軽く左右に振りながら言った。

「アンタに何がわかる! 俺のことは放っといてくれ!!」

 背を向け、私は再び屋上の手すりに手を掛けた。


「そうですか。あなたの奥さん浮気して、その挙げ句、有り金全部持って男と行方ゆくえ知れず。なるほど、そりゃぁひどい。死にたくもなるってもんです」

 驚いて振り返り、男を見た。

「アンタ、なんでそんなことを知っている?」

「はい。私、なんでも知っているのですよ。――そんなことより、どうです、あなた死ぬほどの覚悟がおありなら、いっその事、あなたの魂を私に預けてはもらえませんか?」


「魂?」

「そうです。あなた…、その奥さんのことが憎いんでしょう? だったらそんな奥さんに、復讐してやりたいとは思いませんか?」

「復讐?」

「そうです。悪いことをした人は、その報いを受けて苦しむべきです。当然のことです。そうは思いませんか?」

「それは、確かに…。だけど、復讐なんて、どうやって」

 私は思わず訊き返した。

「あなた、泣き人形をご存じですか? ――ねえ、後藤さん」

 すでに日も落ち、その男の不気味なシルエットだけが夕闇の中に浮かんでいた。



 *****



 都心のタワマンの一室、村田家で起きた、あの魔人ガウの一件から十日ほど。以来、これまで平々凡々と生きてきた俺の日常が一変し、なんだか少々騒がしく、きな臭くなってきたような気がする。

 言うまでもなく、それはみな、リブラ教のエスタだとかいうあの女のせいなのだが…。


 驚いたことに、教会に属していない神器持ちのエスタが、魔人の除霊や払い魔を行ってくれるという噂が、瞬く間にリブラの信者の間に口コミで広がったらしく、SNSなどで宣伝するまでもなく、あの後も毎日のように何かしらの依頼があった。


 俺もまた舞花と一緒に、何度か無理矢理、除霊の現場に引っ張って行かれたのだが、ガウの時と違い、いや、あの魔人の方がむしろ特殊だったらしく、大概の場合、舞花は神器であるリブラを使い、比較的容易に取り憑いた魔人やエンプティを浄化したり、滅したりすることができた。

 しかし、そんなことができるのも、神器とやらのお陰なのだそうで、並のエスタやファスタではこうはいかないらしい。


 さらに驚いたことに、毎回依頼料や謝礼を断る舞花に、ほとんどの人がそれならば、となかば強引に、「お布施ふせ」と称して押し付けるようにしてそれを手渡すのだった。

 それら多くの人たちが、魔人などというわけのわからない現象に、どれほど悩まされていたのか、そしてその苦しみを取り除いてくれた舞花に、どれほど感謝しているのか、俺にもよくわかった。


 しかしそうなってくると、困ったことに、これで家賃や食費やらといった、金銭的な理由で彼女を追い出す手立てはなくなってしまった。

 仕方なく、当面の間は共同生活ということになり、掃除や洗濯など、家事の分担をしたまではよかったのだが、料理下手の舞花に食事の用意だけは任せるわけにいかず、あたかも俺は、まるで彼女の御抱おかかえ料理人ででもあるかのような様相を呈してきた。

 まあ、何をつくっても大袈裟に美味おいしいを連呼して喜ぶ、調子のよい舞花のおだてに乗せられたところも多分にあるのだが。


 そういうわけで、今も近所のスーパーで買い物を終えて帰って来た俺なのだが、スーツ姿でマンション近くの電柱のかたわらに立ち、オペラグラスでウチの部屋の窓を覗く、怪しげな人影を見つけてしまった。

――ああ…、いやだなぁ。

 そのまま無視して行ってしまってもよかったのだが、まあ、そうもいくまい。


「何やってんですか、伏見さん? 覗きですか? それとも犯罪者などいるはずもない、このマンションの前でまた張り込みですか?」

 嫌味を言いながらその横を通り過ぎ、さっき買った食材で一杯に膨らんで重たいマイバッグを握った手を持ち直し、マンションエントランスに向かった。

「あっ、鳴神君。いや、別に何も、ちょっとこの近くを通り掛かっただけさ」

 舞花と俺が一緒に住んでいると聞いて心配になり、あれから何度かここへ様子を見に来ているようだ。まったく何の心配だよ。


「舞花ならいませんよ」

「なに! ど、どこへ行ったんだ?」

 よほど舞花の動向が気になるようで、のこのこと後をついて来た。

「知りませんよ、そんなこと。今日は出掛けるから昼飯はいらないって、朝聞いただけです。それより、警察ってそんなに暇なんですか?」

 振り向きもせず、歩きながら言った。


「な、何を言うか。暇なもんか。ただちょっと自分が所属する魔人対策課というのは、その、なんだ、同じ警察でも少々特殊な部署なんだ、何度か魔人と関わったことのある君ならわかるだろう?」

 伏見刑事はなんだかよく分からない説明をしながらまだ後ろをついて来る。

「わかりませんよ、そんなこと」

 手にしたマイバッグを左手に持ち替え、ズボンのポケットからカギを出し、エントランスのオートロックを解除した。


「あの、お茶でも飲んでいきます?」

 振り返って、一応訊いてみた。

「ああ、いや、勤務中だしな・・・」

「そうですか、じゃあ…」

 これ幸いと行こうとした俺の腕を、伏見刑事が掴んだ。

「おい! そこは、『そんなこと言わず、ぜひに』というところだろ」

 眉間に皺を寄せているその顔が恐い。


 俺は背の高い伏見刑事を見上げ、思いっきり顔を顰めてこう言った。

「じゃあ、ぜひに」

「おお、そうかい、悪いなぁ、じゃあちょっとだけ」

 対する伏見刑事は、俺の顔を見てニヤッと気味悪く笑った。



「大体君はどうしてそんなに僕のことを毛嫌いするんだ」

 出されたコーヒーを一口飲んで伏見刑事が言った。

「何言ってんですか、そっちが俺のこと、何かと敵視するからでしょ」

 向かいのソファーに腰掛けながらそう言うと、伏見刑事が身を乗り出した。


「あたり前だろ! なんで君があの舞花さんと、こんなところで一緒に暮らしているんだ!!」

「知りませんよ。なぜこうなったか、こっちが訊きたいくらいだ」

 腕組して横を向いた。

「舞花さんも舞花さんだ。もっと自分を大切にしないとけない」

「なんですか、それ。伏見さんは一体、何の心配してるんですか?」

「そ、そんな恥かしいこと、僕の口から言えるかぁ!」


 ――どんな想像してんだよ、まったく

 仕方なく、ため息を一ついて切り出した。 

「あの…。いいですか。――例えば俺が、彼女に対して何か妙な気を起こしたとしますよね。それで、俺が彼女のことをどうにかしようとして、どうにかできると思いますか?」

「・・・・・・。――いや、思わない……」

「・・・でしょう?」

「そっか、あの人、強いもんねぇ…。それに比べて君は、貧相でひ弱そうだしなぁ」


「ちょっと『貧相でひ弱』ってとこだけ気になりますが、まあ、そういうことです。――大体なんすか、あの女。自分のすべては神サマのもの、だなんて、今時そんなヤツいませんって。生きた化石ですか」

「貴様ぁ、神聖な修道女に対して、何だ、その言い草は! あの人がどれほど凄いお方か、君はわかっているのか?」

「そりゃまあ、一緒に魔人の除霊に連れて行かれて、それでその後、依頼人にとても感謝されているところも何度か見たんで、なんとなくは…」


「あの人は…、神器持ちの彼女は特別だ。並のエスタやファスタなら、何日も、何週間も、それこそ命懸けで魔人を払ったり浄化したりするんだ。それでも結果、被害者を救えないことは多い。ところが神器持ちは、リブラの光でたちどころに魔を払ってしまう。まさに神の力を具現化できる能力。しかも彼女は日本、いや世界中でも数少ない神器持ちの中で、恐らく最年少のエスタだ。エリート中のエリートなんだぞ!」

 俺の顔に唾を飛ばさんばかりに熱弁する。


「はあ、そうですか」

 そんなことを言われても、リブラの信者でもなく、昨日今日魔人が実在することを知ったばかりの俺にはイマイチ刺さらない。のだが、黙っていた。


「ところで、一緒に住んでいるということは、君があの人の身の回りのお世話をしているのか?」

 伏見刑事が部屋の様子を見回しながら言った。

「なんですか、身の回りの世話って? お姫さまじゃあるまいし。共同生活なんだから、当番制ですよ、食事の用意以外は。――あの人、料理はからっきしダメなんで…」

「なにー? 料理以外って、じゃあ、君は掃除や洗濯なんかをあの方にやらせているのか?」

「だから交代で、ですよ。別にいいでしょう、それくらい。それに家事の分担は彼女が言い出したことだし」

「よもやいろいろなモノで汚物まみれの君のパンツを、舞花さんに洗わせたりしていないだろうな?」

「なんかいちいち引っ掛かる言い方をしますね…。まあ、洗うのは舞花じゃなくて洗濯機ですけどね。干すのは…」

「ま、まさか舞花さんの下着も君が…。き、貴っ様ぁ~、絶対に許さんぞぉー!!」

 素っ頓狂な大声で、伏見刑事が叫んだ。


「私の下着がどうかしたんですか?」

 今しがた帰宅したらしい舞花が、怪訝な顔をしてリビングに入って来た。

 いちいち興奮して大声を出す伏見刑事のせいで、二人とも彼女が帰って来たことに気が付かなかった。


「舞花さん!!」

 慌てて伏見刑事が立ち上がった。それを見て可笑しくなり、面白半分で言ってやった。

「ああ、なんかお前のパンツは俺が洗濯しちゃダメなんだって、今伏見さんに注意されていたとこだ」

 まあしかし、実際のところは、下着類だけは洗濯物に出されていたことはなく、そういった物は自分で洗うくらいの、女の子らしい恥じらいはあるようだ。


「あっ、こら! 鳴神君、なんてことを。違うんです、舞花さん!!」

 二人のやり取りを聞いていた舞花の顔が、一瞬悲しそうに曇った。

「そんな…、亜門くん!! 幼女だけじゃなく、とうとう女性の下着にまで興味を持つ変態さんになっちゃったのね!? 」

「お~い、そこかい! 違うだろ。言うに事欠いて、何てこと言うんだ」

「この変態、下着ドロめ、やっぱり逮捕だ、署まで一緒に来い、鳴神亜門!!」


   *****


「そうそう、聞いてよ、亜門くん。沙也香さん、もうすぐ退院できるって!」

 伏見刑事が帰った後、舞花が思い出したように言った。

 魔人ガウが去り、ヤツに操られていた沙也香もどうやら元に戻ったようだ。

「すっかり元気になっていて、本当によかった。ご主人の方はもう少し時間が掛かるそうだけど・・・」

 ガウに刺されて重体だったご主人も、なんとか一命を取り留めた。けれど舞花は、そのことをあれからずっと気に病んでいた。もしこのまま村田氏が亡くなったりしたら、自分のせいだと。あの場合、誰が見ても彼女は何一つ悪くないというのに。

 あの時の舞花の祈りが神に通じたのだろうか。もっとも舞花本人は「神は人の『生き死に』には関与しない、気休めだ」と言っていたけれど。


「そうか、今日も病院へ見舞いに行っていたのか。言ってくれれば一緒に行ったのに」

「お見舞いに行っても、幼女の美樹ちゃんはいないけどね」

 舞花が冗談っぽく笑った。

「おい! またそれか。誰があんなヤツ、二度と会いたくないわ」

 思い出してちょっと身震いした。

「でも…。きっとまた姿を変えて、現れるでしょうね」

「姿を変えて?」

「魔人にはメタモルフォーゼ、変身能力を持っている者もいるから。人間に取り憑くだけで、本体は姿を現さない者もいるし、いろいろ。だから、あの少女も、恐らくは仮の姿」

「そうなのか・・・」

 舞花は何を思ってか、窓の外の青い空を見遣った。



 *****



「鳴き人形?」

 聞き慣れない言葉に、舞花が不思議そうに訊き返した。

「はい」

 その日の夕方、依頼人の後藤さんがここにやって来たのは、珍しく信者の人たちの口コミ情報ではなく、たまたまSNSに流れてきた、例の舞花の妙な投稿を目にしてだそうだ。


「鳴き人形って、あのおなかとかを押すと、ピーと音のする?」

「そう、なんですが、でもそうじゃない、と言うか…」

 俺の問いに、後藤さんは歯切れの悪い返事を返した。

 目の前にいる後藤さんは、黒縁のメガネを掛け、三十半ばくらい。働き盛りのサラリーマンといった感じで、スーツ姿だった。


「実は私も知らなかったのですが、ネットなどで調べると、怪談というか都市伝説というか、もう一つ別の話が見つかるのです」

「別の話?」

「はい。ある寺の住職が、お寺に遊びに来た子供たちに人形を見せるのですが、その人形は首を絞めると、不気味な声で苦しそうに泣くんだそうです。実はそれは呪いの人形で、呪った相手を呪い殺した後も、人形に魂を封じ込め、苦しめるのだそうです。だから首を絞めると悲しげに泣く」

「首を絞めると人形が泣く? だから泣き人形? だけど、それって都市伝説なんでしょ?」

 不気味な話にちょっと嫌な気分になった俺が、否定的に問い返した。


「――えっと、それが…、実は私も、そういったモノを持っていまして…」

「えっ? 泣き人形を、ですか?」

 驚いて目を丸くした舞花が言った。


「はい。今日はそれを何とかして欲しくてここへ伺った次第で…」

 後藤さんは人形を取り出すつもりなのか、膝の上に載せた黒の鞄を開けながら、俺たちに続きを話して聞かせた。

「お恥ずかしい話なのですが、私…、妻に浮気され、逃げられてしまいまして、もう何もかも嫌になって、ビルの屋上から飛び降りて死のうと思ったんです。ですが飛び降りようとした瞬間に、ある男に声を掛けられ、危うく死ぬのを思いとどまったんです。これはその男から手に入れたものです」

 


 *****



「鳴き人形? ですか」

 思わず私は訊き返しました。

「はい。ご存じで?」

 その男は白髪混じりの初老の紳士で、黒の背広を着こんでいました。一見してその周囲からは異様な雰囲気が漂っていました。

「鳴き人形というと、日本では古くは市松人形などにもあって、こちらは人形の胴にふいごが仕掛けてあり、それで音がするように細工してあります。しかし、近年ではおなかを押すと仕掛けた笛が鳴るのが一般的ですかね」

「ああ、それなら子供の頃見たことが・・・」

 私の言葉に、男はそうでしょうとも、というように微笑んで、二、三度うなずきました。


「ですが、私の創るモノはそんなんじゃありません。最近の人はそんな物に興味をもってはくれませんから。ですから、近頃ではもっぱらこれです」

 男はどこからか一体の人形を取り出しました。

「フィギュアってやつです」


 あたりは既に日が沈んで暗くなっていましたが、次第に夜目よめにも慣れてきて、確かに髪の長さから女性のフィギュアであるのがわかりました。しかしよく見ると、そのフィギアには顔がありませんでした。

「御覧なさい、私の創ったこのフィギュア。この中に…」

 そう言うと、男はフィギュアの頭をしわの多い指で摘まんで引っ張り、すっぽりと抜き取りました。胴の中は空洞です。

「恨みのある人や、憎んでいる相手の身体からだの一部、髪の毛でも、切った爪でも構いません、そいつを入れて毎日可愛がってあげれば…、可愛がるってのはもちろん、別の意味ですがね。――そうすれば相手に呪いが伝わって、恨みが晴らせるというわけです」


「ま、まさか…。冗談でしょ」

「いいえ。信じられないかもしれませんが、ほんとうなんです。ですがこれをタダで、というわけには参りません。先程申し上げたとおり、代償としてあなたの魂を、いただきます。――どうですか、後藤さん。あなた、どうせ死ぬくらいの覚悟がおありなら、魂と引き換えに、このフィギュアを使って、奥さんをうんと苦しめてから死んでも、遅くはないのでは?」

「いや、しかし…」

 当然のことながら、その話を聞いても、私はまだ半信半疑でした。

「いやいや、今すぐに、とは申しません。もし、その気がおありでしたら」

 男はそこで、一枚の名刺を差し出しました。

「こちらの住所にある、私の店までいらしてください」

 思わず、私はそれを受け取っていました。


「それではごきげんよう。お待ちしていますよ」

 私が受け取った名刺から視線を上げた時、男の姿はいつの間にか目の前から消えていました。一瞬夢でも見たのかと思いましたが、私の手にはしっかりと、あの男の名刺が残っていました。

 その時の私は、ビルの上から飛び降りて、自ら命を断とうなどという気持ちはうに失せ、しばらく呆然とその場に立ち尽くしていました。

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