第2話 「舞花と亜門」(前編)
火に掛けたビーフシチューの鍋をお玉でかき混ぜながら、まだ赤く右の手首にくっきり残った手錠の
一体、今日のアレはなんだったんだ・・・。にしても・・・。くっそ、あの女、許せん!
アレとはもちろん、このすぐ下の部屋で、今日の夕方に起こった魔人騒ぎのことだ。思い出したらまた腹が立ってきた。
今日俺は、突然訪ねてきたリブラ教の修道女を名乗る女に、いきなり魔人扱いされて痛めつけられ、手錠まで
おまけに魔人に魂を抜かれ、化け物になったとかいう夫婦の浄化の場面に立ち会わされ、大騒ぎになったうえ、女と、その仲間は警察が来る前に逃げ出し、俺だけその場に置き去りにされた。
おかげで俺は手錠をされたまま連行され、パトカーに乗せられて警察署まで連れて行かれた。
全く事情も分からないのに犯人扱いされ、私服の刑事に取調室で散々怒鳴られながら事情聴取された。
いつまでも話が噛み合わないまま、取り調べが三時間ほど経過した頃、ノックと共に別の刑事が二人部屋に入って来て、今まで俺を犯人扱いして威張りちらしていた連中を追い払った。
この二人は先程の奴らとは違ってすこぶる紳士的で、まずはすぐに鍵を取り出し手錠を外してくれた。
驚いたことに魔人に対する知識も持ち合わせていて、俺の話に一々
俺の質問にも可能な限り答えようとしてくれたが、肝心なところは言葉を濁し、こちらの知りたいことは、結局ほとんど何もわからなかった。
そうして、今日のことは他言無用に願いたいと申し出て、書面で確約を取ると、車で俺の住むマンションの前まで送ってくれた。
車を降りて、自分の部屋に戻る時、気になってエレベーターを途中の四階で降り、401号室の前まで行ってみたのだが、予想通り、そこは何事もなかったかのように静まり返っていた。もちろん、化け物のように暴れ回って浄化され、廊下に転がっていたこの部屋の主人の姿もない。
少し拍子抜けはしたものの、これ以上こんな訳の分からないことに関わり合うのは御免だと、すぐに部屋に戻ったのだった。
とりあえず、これで
まあ、取り調べ室でカツ丼が振る舞われるようなことはない、やはり都市伝説だ、ということだけはわかった。もっともあの時間にかつ丼を出前してくれる店はあるまいが。
リビングの壁掛け時計を見ると、もう日付が変わるところだった。
——はあぁ、と一つ
と、その時、再び来客を告げるインターホンの呼び出し音が鳴った。不吉な思いに駆られながら、恐る恐るスイッチを押してモニター画面を見た。マンションエントランスに見覚えのある姿。
――あの女だ!! ふざけやがって、これ以上関わり合いは御免だ
返事をせず、すぐにインターホンのスイッチを切って画面を消した。間髪を入れず、再び呼び出し音が鳴った。
スイッチを入れてすぐに切り、呼び出し音を止める。
――その後、五回これを繰り返した・・・。
相手はどうあってもやめる気はないらしい。
・・・根負けした。六回目は画面を切らなかった。
「あっ、通じた!! ひどいじゃないですか、
そう言って笑顔の
「ああ、もう、うるせえな、こんな時間に何の用だ!! 帰れ、このクソ女が!!」
「まあっ! 神に仕える修道女に向ってそんな汚い言葉を。罰が当たって、酷い目に遭いますよ、鳴神さん!!」
「はあ? どの口が言う!! もう十分ひどい目にあったわ!! どこぞの
唾が飛ぶくらいの大声でインターホンの画面に向って叫んで、スイッチを切ってやった。
画面が消える瞬間、目を大きく見開いて、驚いた表情の
――ああ、スッキリした。
俺が怒っているということがようやく伝わったのだろうか、それきりインターホンの呼び出し音は鳴らなかった。まったくやれやれだ。
ようやく食事の準備が整った。テーブルに着き、今度こそ
――まさか・・・。そう言えば、夕方に舞花が来た時もこの音がして、モニター画面に映る彼女の姿に釣られてドアを開けたんだっけ・・・。
*****
「いいか、それ食ったら帰れよな!!」
なぜだ? どうしてこうなった?
あきらめて帰ったと思った舞花は、夕方来た時同様、帰宅した他の部屋の住人が、オートロックの自動ドアを開けた際に、一緒にマンション内に入り込み、ウチの部屋の前までやって来たらしい。
そうして結局何だかんだ言いながら部屋に上がり込み、勝手に自分の
祈りを終え、目を開けた舞花は、「いただきます!!」とビーフシチューを一口頬張って、文字通りとろけるような笑顔で俺の料理を褒めた。
「
まあ、人間お世辞でもなんでも、人に
「そ、そんな、たいそうなもんじゃないさ。きっとアンタが
「そんなことありません、本当に美味しいです!!」
彼女の満面の笑顔を見るに、まんざらお世辞でもなさそうだ。長時間牛肉を煮込んだりして、まあ、確かに
「そ、そうか? ならよかった」
褒められてうれしくなり、ちょっとニンマリしてしまった。おっと、しかし油断は禁物だ。この女、何を考えているのか、まったくよくわからないからな。
「そんなことより、アンタ何しに来たんだ?」
「さっきから、アンタ、アンタって・・・。私、自己紹介しましたよね? ちゃんと名前で呼んでください」
舞花は皿の上にスプーンを置き、口を尖らせて不満気な顔をした。
「あ、ああ、そうか、悪い。ハナブサさん、だっけ? ――それで、ここに何しに来たんだ?」
「舞花でいいですよ。――これです」
舞花は畳んで椅子の背もたれに掛けてあったコートのポケットから、小さな鍵を一本
「ああっ、それって!!」
あの手錠の鍵か。
「無いと、鳴神さん、困るだろうと思って、持って来たんですけど、もう必要ないみたいですね」
舞花はその小さな鍵をテーブルの上に置いて、再び皿のビーフシチューを
「魔人対策課だとかいう刑事さんがカギを持ってて・・・。てか、そうだお前、よくもあの部屋に俺を置き去りにしてくれたなあ!! おかげで俺は警察に連れて行かれて酷い目に・・・」
「そうか、春日さんたち、合鍵持っていたんだ…」
「知ってんのか? あの人」
「はい。魔人課の刑事さんたちとはいつも懇意にしていますから。あの手錠も魔人用の特殊なものです。それより感謝してくださいね、私たちがすぐに連絡して手を回したから鳴神さん、今日のうちにここへ帰って来れたんですよ。――まぁ、もう昨日ですけど。そうじゃなきゃ、今頃冷たい留置場の中で・・・」
「何を偉そうに。元々お前が部屋を間違えて俺を魔人扱いしたから、ああなったんじゃねえか!!」
声を荒げる俺の様子に、舞花は話を逸らすように斜め上を見て言った。
「ああ!! そう、そう。そうでした、鳴神さん、あなた一体何者なんです? エンプティを浄化してしまうなんて! それを確かめたくてもう一度ここに来たんです」
この女め、どうあっても自分が悪かったと認めるつもりはないようだ。それに、今の話だと俺のために鍵を持って来たってのも眉唾だな。
「ほおー、そうか、てっきり俺は飯をタカリに来たのかと思ったぜ」
「たかるだなんて、人聞きの悪い。神に仕える聖職者に
「ああ、さようでございますか、修道女さま! ――いいからそれ食ったら、すぐ出て行け!!」
そう言った瞬間、舞花は手を止め、とても哀しげに下を向いた。
「あなたは、この寒風吹き
顔を上げ、上目遣いで俺を見る舞花の眼が潤んでいる。
「はっ? 誰が、か弱いって?」
俺が入れたチャチャに反応して、舞花の表情が少しムッとしたように見えた。
「そんな無慈悲な行いをすると…。――地獄に堕ちますよ、鳴神さん!!」
舞花がちょっと怖い顔をつくって、俺を睨むようにして言った。
「おい、ちょっと待て!! お前、今度は何を企んでる!?」
「そんな、企らむだなんて、とんでもない。ただその・・・、よく見ればここ、とっても広くて、いいお
きょろきょろと室内を見回しながら言う。
「まあ、ちょっと前まで家族で住んでたからな…」
「ご家族?」
「いないよ、今は。俺が大学生になったのを機に、親父の仕事に合わせて夫婦でアメリカに行っちまったからな」
「それじゃ、こんな広いお家に一人暮らし?」
「兄弟いないし、まあ、そんなとこだ」
「まあ、なんて素敵なの!! それなら一人くらい住人が増えたところで何でもないですよね。――
舞花が胸の前で手を合わせて組み、俺を見上げながら嬉しそうに言った。
「はあ? いきなり何言ってんの、お前。頭おかしいんじゃねえの? ずっと思ってたけど」
つい、ポロリと本音が出た。
「なんだかとっても失礼な言い方ですね、鳴神さん」
急に眉を寄せ、ブスっと唇を尖らせた。
「いや、その、なんだ、修道女ってのはさ、教会とか修道院とかで、修行しながら共同生活をしているもんなんじゃないの? それをこんなとこに下宿って・・・」
「それはそう、なんですが・・・。少々事情がありまして…」
「なんだよ、事情って?」
「それが、その…」
「なんだよ?」
「実は私、教会のエスタの職を解任されてしまって…」と、舞花はとても言い難そうに、伏し目勝ちに言った。
「解任?」
「はい…。ですから、ここに置いてください。私、他に行くとこないんです!!」
「解任って、一体なにをやらかしたんだ?」
「それは、今日の・・・・・・」と言い掛け、俯いて口を
「まあ、いいや。でもさあ、今の俺の話聞いてた? いいか、俺は今ここに一人暮らしなの。若い女の下宿人なんて置けるわけないだろ」
「そこを何とか。私、鳴神さんのこと信じていますから」
「それ、どういう意味?」
「ですから、あなたは困っている人の弱みに付け込んで、どうこうしようなどという卑劣な方ではないと…」
「あ、あたり前だ!! 誰がお前なんか・・・」
と言い掛けたものの、――そう、舞花の外見だけを見れば、大概の男は一目でその魅力に惹かれることだろう。
かく言う自分も、インターホンのモニター画面に映った彼女の姿に惹かれ、思わずドアを開けてしまった訳で、偉そうなことは言えない。
だが、だがしかしだ。
これまでのコイツの言動を
大体がして、魔人ってなんだ? 本当にそんなモンいるのか? おまけにその専門家だと? 有り得ない。そう非常識にも程がある。論外だ。ここは何とか穏便にお引き取りいただこう、と腹に決めた。
「ううん!」と俺は一つせき払いをしてから話し始めた。
「ああー、いや、ですから・・・、やはり、うら若き乙女である、
と、まあとにかく俺の思いつく限りの語彙と表現を駆使して、丁寧な説得を試みた。
「アハハハ、どうしたんですか、鳴神さん。急に改まって常識のある人みたいなことを。今更そんなこと言っても説得力ないですよぉ。」
コイツいきなり大笑いしやがった。
「なんだと!! 俺が常識ないってか、失礼な」
「だって、さっき大学生だとか言ってたのに、リブラの『
「やかましい、そんなの日本人なら読んだことない方が普通だ!」
「どうしても、ダメですか?」
舞花はまじめな顔に戻って、上目遣いで俺を見た。可愛らしさを演出しているようにも、同情を惹こうとしているようにも見える。
「金輪際、お断りだ!」
それに負けまいと、そっぽを向いて強い口調で答えた。
「そうですか・・・」
舞花の眼の色が変わった。
――触った…
「えっ?」
「私の胸、触った…」
「な、なんだいきなり」
「あの時、私の意識が朦朧としていたのをいいことに、いやらしく私のカラダをまさぐっておっぱいを触った」
「な、なに言ってんだ!! 触ってなどない。手が当たっただけ、不可抗力だ。あれはあの時呼んでも返事しないし、銃を取ろうとしただけだ。それに手錠をされていて、手が自由に動かせなくて・・・」
「神に捧げると誓った私のカラダを、そのいやらしい手で
俺の精一杯の弁明を遮って、舞花がつぶやくように言った。
「なんだ、いやらしい手って!!」
「絶対に許せません、警察に訴えます!!」
スマホを取り出して電話しようとする。
「なっ!? そんな無茶苦茶なー!!」
「いいんですか、鳴神さん。せっかく警察から帰って来られたのに、逆戻りですね。私が本気で訴えたら、きっとしばらくはここに戻って来られないでしょう。私、警察に知り合い多いですから。ああ、でもご心配には及びません。その間は、私がここでお留守番しててあげますから」
舞花は俺を見ていたずらっぽく笑った。
「卑怯者~!! お前、神さまに対して恥かしくないのか!?」
「あ~ら、何のことでしょう? それに、神は私たち人間すべての罪をお許しくださるのですよ」
舞花は斜め上を見てすっとぼけている。
「なんて奴だ…。――わかった、今晩だけ。まあ、確かにもうこんな時間だし…。だけど、いいか、明日の朝、絶対出て行ってもらうからな」
「ホントですか!!」
こちらに身を乗り出した舞花の顔がパッと明るくなった。
「ありがとうございます、鳴神さん!! あなたに神の祝福を! ――じゃあ、早速どのお部屋がいいか、見させてもらいますね!!」
そう言うが早いか、立ち上がって家中の部屋を物色し始めた。
「あああっ! おい、コラ!! ちょっとやめろ。待て、勝手にあっちこっち開けるなー!!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます