第6話 智久の本当の想い
「お疲れでした。これにて離婚式は終了となります」
結婚指輪を粉砕する作業も終えたあと、千冬は智久と共に寺の階段下にいた。
そして冴島から返却してもらった離婚届を受け取った智久は、前に並ぶ離婚式プランナー二人に頭を下げて、
「本日はありがとうございました。良い式でした」
「いえ、こちらこそありがとうございました。つつがなく無事に終えられて、本当に良かったです」
笑顔を覗かせる冴島とそのパートナーの男性に、智久も口許を緩める。それを横で見ていた千冬も、表紙固めながらも小さく頭を下げた。
「わたくしどもはまだ片付けがありますのでここに残らせて頂きますが、最後に質問等はございますでしょうか?」
「いえ、ありません。千冬は?」
「私も特には」
「左様ですか。それでは、道中お気を付けてお帰りくださいませ」
最後に深々と低頭する離婚式プランナー二人に、智久と千冬も一礼したあと、踵を返して共に山門へと向かい始めた。
お互い一言も発さず、智久と共に黙々と石通路を歩く。てっきり最後は別々に時間を置いてから寺を後にするのかと思いきや、そうでもなかったらしい。
それにしても、と依然として沈黙を保ちながら千冬は思慮する。終わってみれば案外あっけない感じだったな、と。
特に結婚指輪を潰し終えた時は悲壮感よりも空虚感の方が大きかった。いくら大きめのトンカチで叩いたとはいえ、あんな簡単に指輪がひしゃげるものなのかと。あたかも誓いの証なんて案外脆いものだと目の前で正面されてしまったかのようで、無性に虚しさを覚えた。
ちなみに件の結婚指輪ではあるが、千冬の手元にはない。あとで離婚式プランナーが産廃として処理するらしく、今は向こうの手に渡っている。要望があれば潰した指輪を返却してもらう事も可能らしいが、別のアクセサリーに作り直す気も起きなかったし、智久も同じ考えだったようで、離婚式プランナーの方々に任せる事にしたのである。
のちに残ったものはと言えば、心にポッカリと穴が空いたような虚無感と、それでもこれで智久との関係を完全に清算したという、一仕事終えた時のような安堵間のみだった。
(安堵感と言うよりは、ようやく一息吐けるって感じの緊張が解けたような気分に近いけれど)
何にせよ、この先は別々の道を歩む事には変わりない。
もっとも千冬は、これからどの道に向かうか、未だに決まっていない状態ではあるが。
「思っていたよりあっさりしていたけれど、それでもやってよかったね、離婚式」
と千冬が思慮に耽っていた間、思い出したように智久が口を開いた。こちらには目を向けず、まっすぐ前を見つめたまま。
そんな傍らにいる智久を一瞥したのち、千冬は「そうね」と首肯した。
「私的にはどっちでもよかったけれど、これで思い直す事なく清々と別れられそうだから、離婚式をやった意味はあったのかも」
「そっか。そう言ってもらえて安心したよ」
千冬の返事に、智久が相好を崩す。別れ話を持ち出されてからは一度として見る事のなかった、いつもの穏やかな笑みで。
その笑顔にチクリと針で胸を刺されたような痛みを覚えつつも、自分の中で恋心が再び芽吹く気配はなかった。離婚式が始まる前はあれだけ自分の中で燻っていたものが、鎮火して時置いたあとの灰のごとく温度を感じられない。きっとあの結婚指輪を潰したと同時に、智久への想いに別れを告げたからだろう。彼方へ旅立つ巣立ちの燕を窓辺から見送るように。
そういえばさ、と山門をくぐった辺りで智久が不意に立ち止まって声を発した。
「約束してたよね。離婚届を役所に持って行く前に別れようと思った理由をちゃんと話すって」
「あ、うん」
智久の発言に生返事で答える。言われてもみればそんな約束もしていたような気もする。離婚式を終えた今となっては、割とどうでもいいような話題だった。
ちなみに当の離婚届は、現在智久が茶封筒の中に入れた状態で所持している。話を聞くに、これから役所に持って行くそうだ。その前に約束を果たすつもりでいるのだろう。
「遅くなっちゃったけど、今から言っていいかな?」
「別にいいけれど、それって長くなる? 待ち合わせしてるから、出来るだけ手短にお願いしたいんだけれど」
誰と待ち合わせしているかまでは敢えて言わなかった。婚約者である竜二と約束しているなんて、もう夫でもない智久にわざわざ教える必要もないと思ったからだ。そも、教えたところで微妙な空気になるのは目に見えている。だったら告げるまでもない。
「わかった。なるべく手短に済ませるよ」
言って、智久は千冬と正面に向き直った。それを見て、千冬も真っ直ぐ智久を見据える。
「君に離婚しようって言った時、やりたい事が出来たからって理由を話したよね?」
「うん。その先ははぐらかされちゃったけれど」
「実はあれ、嘘ってわけじゃないけど、全部本音ってわけでもなくてさ」
「……? どういう意味?」
首を傾げながら訊ね返す千冬に、智久は少しの間逡巡するように視線を彷徨わせたあと、やがておもむろに口を開いた。
「僕が離婚しようと思ったのはね、君を解放してあげなきゃいけないと考えたからなんだ」
え、と千冬は固まった。
解放とはどういう意味なのか。今まで智久に束縛された覚えなんて一切ないし、夫婦でいた頃だって一度も窮屈な思いをした事なんて微塵もないのに。
などと当惑する千冬に、智久は少し困ったように微苦笑を浮かべて、
「やっぱり自覚なかったんだね」
「自覚……?」
「うん。千冬は気付いてなかったかもしれないけど、たまにリビングに置いてあるテディベアを切なさそうに撫でる時があってさ。もしかして大学時代に話していたテディベア専門店を開いてみたいって夢を諦めきれていないんじゃないかって」
「それは……」
その先は言葉を紡げなかった。決して智久が言うようにそんな未練がましくテディベアを撫でた覚えはないつもりなのだが、一片たりともかつての夢を想起しなかったかと言えば、完全に否定はしきれなかったからだ。
というより、テディベアを買う時やテディベアを一人で自作していた時も、心のどこかで自分の店を夢見ていた。智久と結婚した際に諦めたはずの夢を、瞼の裏に描いていた。忘れられないでいた。
その時の千冬の心情を、智久は日頃から感じていたとでも言うのだろうか。
「千冬のそんな寂しそうな姿を見ていたら、すごく申し訳ない気分になっちゃってさ。ほら、ちょうど就活期にプロポーズしちゃったでしょ? あの時僕は地元の銀行の内定が決まっていたけれど、千冬はまだ決まっていなくて。あの頃の千冬、テディベア専門店を開くのに少しでも稼ぎの良い会社に入りたいって話してたよね。実はあれ、すごく気にしててさ。もしもお互いに就職しちゃったら、時間が取れなくなっていつかは恋人同士じゃいられなくなっちゃうのかなって不安に思うようになって……それで気が付いたら千冬にプロポーズしてた。千冬が目の前から消える前に、どうしても僕のところに繋ぎ止めておきたかったんだ。ごめん。今さらだけど、すごく自分勝手な理由だね」
言われてもみれば、確かにけっこう勢い任せだったような気もする。何かを急いでいるような、そんな焦燥した表情で。
「でも私、素直に嬉しかったよ? 智久に結婚しようって言われた時、この人と一緒になるのも悪くないかなって。きっとすごく穏やかな結婚生活を送るんだろうなあって」
「けど、自分の店を開くって夢を完全に諦めたわけじゃなかったよね?」
「………………」
即答できなかった。自分では夢よりも智久を選んだつもりであったが、自分でも気付かない内に夢への未練を垣間見せていたなんて知らなかったから。
それでもと千冬は言葉を絞り出す。脳内にある語彙をすべて引っ張っり出すように思考を巡らせて。
「わ、私は後悔してないよ? だって自分で決めた事だもの。夢よりも智久を選んだ事を今でも間違った選択だなんて思ってない。それだけは絶対智久にも否定させない。してほしくない」
「うん。僕も間違いだったなんて思ってないよ。千冬との生活はとても穏やかで心地良くて、すごく幸せだった。夢のような日々だったよ」
「だったら、どうして……」
「でも、それはあくまでも僕の夢でしかないから。君が心の底から望んだ生活じゃないのなら、そんな独りよがりな夢からは覚めるべきなんだよ」
「独りよがりな夢なんて、そんな事……」
「じゃあどうしてあの時、自分の店を開きたいって僕に相談してくれなかったの?」
智久の問いかけに、千冬は再び俯いて口を噤んでしまった。痛い所を突かれたという表情で。
「あの時はまだ、僕が学生だったからっていうのもあったと思うけれど、結婚してからでもなんとか出来たかもしれないよね? 勢い任せにプロポーズした僕が言うのもなんだけれど、君がお店を開いてみたいって相談してくれていたら、僕はきっと協力してたよ。就職したばかりの頃は収入も心許ないし、千冬との時間をしばらくは大切にしたかったからすぐには了承できなかったかもしれないけれど、それでも仕事に慣れてきた頃だったら君の夢を応援していたと思う。今なんてまさに絶好の頃合いだったはずなのに、君は今日まで何も言わなかった」
「だ、だってそれは、智久の負担になるような事はしたくなかったから……」
「うん。千冬は優しいから、きっとそんな風に考えていたんだろうなとは思っていたよ。だからずっと専業主婦をやってくれていたんだろうなって。でもそれって、僕のせいで君の夢を邪魔していたって事になるよね? 実は今までずっと足枷にしかなっていたんじゃないかな?」
「足枷なんて一度も思った事ないよ」
今度こそすぐに返答できた。その事にホッと安堵する一方、智久の言葉をすべて否定しきれない自分がいた。
智久の事を足枷だと思った事は微塵たりともない。それは本音で断言できる。
だが智久を逃げ道にしてしまったという意味では、紛れもない事実とも言えた。
実際、就活期は何十社と面接を受けてはお祈りメールで落ち込む日々を送っていた。智久や友人には夢のために絶対良い会社に入ってみせると意気込んでいたが、実のところ半分以上は強がりだった。本当は肉体的にも精神的にも限界に近い状態だったのに、夢のためだと自分に言い聞かせて鞭を打っていたのだ。
そんな時に智久からプロポーズされて、このまま結婚するのも悪くないかもしれないと思ってしまった。叶うかどうかわからない夢を追うよりは安定した生活を望んだ方が現実的ではないかという利己的な考えが自分の中で生まれてしまったのである。
だから千冬は、夢よりも現実を選んだ。
夢を完全に捨てきれないまま、智久という安全圏に自分から庇護される形で。
そしてそれは、今にして思えば竜二からのプロポーズを承諾した時とまったく同じ心境だった。
(私、智久にしたような事を竜二に対しても……)
後悔の念が心を刺す。傷口に染み入る冷や水のように。
自分でも気付いていなかった心の内にショックを受ける中、智久は話を続ける。
「ありがとう。千冬は今までずっとそうやって自分を押し殺して僕に尽くしてくれたんだよね。でも、もうそんな風に自分を誤魔化す必要なんてないんだよ。千冬は千冬の進みたい道を進んでいいんだ」
「……だからなの? 私を自由にしたくて離婚しようって思ったの? 私のために?」
「千冬のためなんて傲慢な事を言うつもりはないよ。結局のところ、これは僕の我儘でしかないから。僕が頼りなくて弱かったせいで、君の夢をちゃんと応援する事ができなかった。君の話をちゃんと聞く機会なんていくらでもあったはずなのに、千冬から離れるのが怖くて何も訊ねられなかったんだ。僕達は夫婦のはずなのに……今までずっと一緒にいたのに……」
「智久……」
痛切な面持ちで目元を伏せる智久に、思わず左手を伸ばしかける。だが既に誓いの指輪を外した薬指を見て、千冬は思い留まったように宙を掴んで、そのまま手を弱々しく引っ込めた。
「ねぇ智久。今からじゃ遅いの? 智久は今まで通り仕事に行って、私は夢を叶えるために頑張って色々勉強して……そういう未来はもう望めないの?」
「無理だよ。さっきも言ったけど、君は優しいから。きっとまた僕のために自分を犠牲にしてしまう気がする。それじゃあダメなんだ。夫婦なのにお互いを気遣うばかりで何も本音で話せないなんて、いつか瓦解するだけだよ。だからこれでよかったんだ。いや、本当ならもっと早くにこうすべきだったんだ」
智久の瞳が真っ直ぐ千冬を映す。瞳の中の千冬は眉宇を曇らせているのに対し、智久は決意に満ちた男の顔をしていた。プロポーズしてくれた時よりも強固な意志を感じさせる眼差しで。
その真摯な顔に、千冬の中で消えたはずの智久への想いが再び灯る。今にも完全に溶けそうな蝋燭に火が宿るように。
「……智久。私、貴方の事が本当に好きだった……」
「うん。僕も千冬を愛してる。それは今も変わらないよ。でも、だからこそ離れるべきだと思う。これ以上重荷になる前に」
重荷……それは智久自身の事を指しているのだろうか。それとも千冬も含めての意味だろうか。
本当の夫婦だったならば、その重荷でさえも背負う事も出来たのだろう。だが千冬と智久には出来なかった。重荷を背負うだけの覚悟が無かったから。
(だから、別れるしかないのね……)
離婚式で指輪を潰した時には何も感じなかったはずの痛みが今更のように心を蝕む。あの時よりもずっと現実を受け入れられた心境なのに、胸が締め付けられるように苦しい。今にも涙が溢れ出てしまいそうなほどに。
「悲しそうな顔をしないで千冬。君が辛そうにしていると、僕も辛い」
必死に涙を堪える千冬の肩に、智久がそっと手を添える。その結婚前と変わらない優しさに、余計涙腺が緩みそうになった。
そんな千冬に、智久は「それにさ」と小さく微笑みを浮かべて、
「これは新しい門出でもあるんだよ。千冬が再び夢を追うように、僕も自分の夢を叶えに行くんだ」
「智久の、夢……?」
「うん。千冬には話した事はないけれど、僕、子供の頃から世界中を旅して回るのが夢だったんだ。これまでは仕事とか言語の違いを言い訳にして諦めていたけれど、離婚してまで千冬の背中を押しておきながら自分は何もしないなんて格好が付かないからね。だから僕も昔からの夢を叶えてみようと思う。千冬の道標になれるように」
「道標……」
「なれるかどうかはわからないけどね」
驚く千冬に、頬を掻いて苦笑する智久。それは今まで見た事もない、少年のようなあどけない顔だった。
「千冬。色々言ったけれど、君が夢を追うか追わないかは自由だし、僕が決めるような事じゃない。けどこれだけは約束してくれないかな?」
「何……?」
「今度はちゃんと自分に正直になって生きてほしい。それだけが僕の願いだ」
智久の飾りない真っ直ぐな言葉が千冬の胸に響く。
自分に正直になって生きてほしい。それは夢よりも智久との結婚を選んだ千冬にとって、厳しくも優しさに溢れた言葉だった。
(だから離婚式をやろうって提案してくれたのかな。私が後ろ髪引かれないように……)
おそらく智久に訊ねても「自分のためだ」と頑なに否定するに違いない。昔からそういうところだけは意固地な人だったから。
だから、敢えて問いはしなかった。その代わりとばかりに千冬は智久の顔を見つめ返して、
「出来るかな、私に。自分の店を持つ夢なんて……」
「出来るよ千冬なら。だって君は夢のためなら努力を惜しまない人だから。ちょっと回り道こそしちゃったけれど、千冬なら絶対大丈夫。自分を信じて」
「そんな簡単に信じてって言われても……」
「だったら僕を信じてよ。千冬なら必ず夢を叶えられるって信じている僕を信用してほしい」
「もう離婚したのに?」
「離婚はしたけれど、君への想いは変わってないよ。それとも元夫の言葉は信用できない?」
「そんな事ない」
間髪入れずに首を振った。揺るぎない意志で。
「自分の事はあんまり信用できないけれど、智久なら信じられる。だって十年近くも私のそばにいてくれた人だもの。信用しないはずがないでしょ?」
「そっか。それを聞けて今度こそホッとしたよ」
そう言って、智久がおもむろに手を伸ばしてきた。その手を数秒だけ見つめたあと、千冬は何も訊かずに智久と握手を交わした。
そのまま互いに閉口したまま手を繋ぎ続ける。言葉は不要とばかりに、微笑みだけを湛える。
どれくらい時間が過ぎただろうか。それまで無風だった山門に春らしい陽だまりに満ちた微風が二人の体を撫でたのち、どちらからともなく手を離した。
「じゃあ、僕はこれで。何かあったらいつでも連絡してくれていいから」
「うん。ありがとう」
「元気でね、千冬」
「智久も、体に気を付けてね」
笑顔で手を振る智久に、千冬も努めて笑みを浮かべて手を振り返す。
そうして踵を返して石段を下りていく智久の後ろ姿を、千冬は見つめ続ける。目を逸らす事なく、いつまでもずっと。
やがて、こちらを振り返る事もなく石段を下りきって去っていった智久を静かに見送ったあと、千冬は大きく深い息を吐いた。
まだ胸が痛む。再び発芽してしまった智久への愛がチクリチクリと千冬の涙腺を刺激する。
「泣いちゃ駄目。二人で決めた事なんだから……」
決壊しそうになる涙を強引に指で拭って、千冬は石段を一歩ずつ下り始める。
もう決めた事だ。智久とは別々の道で真っ直ぐ突き進むと。だから泣いていい時ではない。
それに、千冬にはまだやらなければならない事がある。
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