最終話 手のひらに太陽を
寺を後にし、数分ほど歩いた先にあるコンビニへと辿り着く。その脇にある駐車場で、待ち合わせ相手である竜二が赤いポルシェのフロントドアに背中を預けながら、一人缶コーヒーを飲んでいた。
「竜二」
手を上げながら声を掛ける。すると竜二が缶コーヒーから口を離して、屈託ない笑みを浮かべながら手を振り返してきた。
「ごめん。待たせちゃって」
「いや、適当に時間潰してから問題ねぇよ」
言いながら、竜二は手に持っていた缶コーヒーを運転席側のドリンクホルダーに置いて、千冬に歩み寄った。
「どうだった、離婚式」
「うん。無事に終わった」
「そっか。これで千冬も晴れて独身ってなわけだな」
すぐに俺と結婚する事になるけどな、と嬉しそうに目元を緩める竜二に、千冬もぎこちなく笑みを返す。
「とりあえず、中に入ろうぜ。外は肌寒いし」
「うん」
頷いて、助手席側のドアを開けて中に入る。それを見届けてから竜二も運転席に乗り込んだ。
「で、これからどうしようっか? 俺としては結婚に向けての準備をしておきたいから、式場の下見とか結婚指輪の購入とか色々行きたいところがあんだけど」
「竜二、その前に話しておきたい事があるの。どこか静かなところに行けない?」
途中で話を遮られた事に眉を上げて驚きを露わにする竜二だったが、すぐ気を取り直したように表情を緩めて「いいぜ」と快く了承してくれた。
やがて走り出したポルシェに揺られながら、千冬は竜二の運転の元、街中から離れた閑静な農業地帯へと入って行く。
ドアガラス越しに
などと考えていた間に、車は市内の川が間近に見られる土手付近に来ていた。確かにここなら
それを分かってか、竜二は道の脇にポルシェを停めて、千冬の言葉を待つようにフロントガラスから覗ける川を黙って見つめていた。
いつまでそうしていたのだろう……何度も気持ちを落ち着かせるように深呼吸を繰り返したあと、ややあって千冬は「竜二」とぎこちなく口を開いた。
「とても大事な話があるの。聞いてくれる?」
「ああ。何でも言ってくれ」
「結婚の話、無かった事にしてほしいの」
静寂が落ちる。息苦しく、周りにある空気が鉛のようにも思える重々しい静寂が。
やがて、竜二が肺の中の酸素をすべて吐き出すように深く嘆息した。
「そっかあ。やっぱりなあ」
竜二の意外な言葉に、千冬は面食らいながら「やっぱり?」とオウム返しに訊ねる。
「いや、なんとなくそんな気はしてたんだよ。千冬が寺から帰ってきた時、やたら深刻そうな顔してたからさ。前の旦那との関係にケジメを付けた割には雰囲気が妙だってな」
「そう……。私、そんな顔してたんだ……」
「ああ。まあ正直、その前からこうなるような気はしてたけどな」
「えっ。どうして?」
「だって千冬、俺と話していてもあんま楽しそうに見えねぇんだもん。千冬からプロポーズの返事を聞いた時はめちゃ浮かれてたせいで最初は気付けなかったけどな」
千冬自身も気付いていなかった。自分では普通に振る舞っていたつもりだったのだが、まさか竜二の目にはそんな風に見えていたとは。
「……ごめんなさい。私、そんな失礼な態度を……」
「いや、いいって。色々あってナーバスになってたんだろ? それで俺のプロポーズもうっかりオッケーしちまったんだろうなっていうのが今なら分かるから」
「竜二……」
「けど一つ聞かせてくれ。俺との婚約を破棄したがっているのは、自暴自棄とかからじゃないよな?」
と、体の向きを変えて真っ直ぐ近距離から見つめて
くる竜二に対し、千冬も真っ直ぐ見つめ返してゆっくり頷いた。
「自暴自棄なんかじゃない。私が前に進むために本心から決めた事だから」
千冬のはっきりとした口調に、竜二は「そっか」と苦笑した。それから何度も自分に言い聞かせるように「そっかあそっかあ」と呟いたあと、竜二は悲しげに眉尻を下げつつも気丈に笑みを作って声を発した。
「だったら、しょうがねぇよな。俺との婚約は無かった事にしておく」
「いいの竜二……?」
「よくはねぇけど、千冬が前向きに決めた事なら何も言えねぇよ。嫌がっている女を無理強いしてまで引き留めるほど、野暮でも未練たらしい男でもないつもりだぜ俺は」
「竜二……本当にごめん」
「いいっていいって。自分の気持ちに正直なのが一番だもんな」
頭を下げる千冬に、竜二はニカっと破顔しながら言葉を返す。本当なら激昂してもおかしくない場面でありながら、そんな怒気も匂わせない明るい笑みで。
「さてと、じゃあ千冬の新しい門出祝いにどっか飲みにでも行くか?」
「ううん。私はここで降りるから」
「え、いいのか?」
「うん。近くに駅もあるし、それに一人で歩きたい気分だったから」
「そうか……じゃ、気を付けて帰れよ」
一切引き留める事もなく穏やかに別れの挨拶をしてくれた竜二に「ありがとう」と一言礼を述べたあと、千冬は助手席から降りて舗装路の上に立った。
それからフロントガラス越しに軽く手を上げてからポルシェを発進させた竜二に、千冬は手を振って見送る。
やがて林道の中へと消えていったポルシェを最後まで見届けたあと、千冬は呼気を吐きながら何気なく左手を青空に向けて伸ばした。
もうこの薬指にかつての輝きは無い。だがこの指の隙間から溢れる陽光もまた同じ輝きだ。未来への展望を示す祝福の光だ。
だが時には暗雲に遮られて光を見失う事もあるだろう。だが太陽が決して無くならように、この煌めきがいつまでも消える事はない。それを証明しようとしてくれている人がいる限り、千冬も前へと突き進める。希望の光に溢れた夢の道へと。
「私、頑張ってみるね。智久に負けないように」
誓いの言葉を青空に向けて告げる。どこかで智久が同じ空を見てくれていると信じながら。
その時、持っていたミニバックからスマホの鳴る男がした。ミニバックを開けてスマホを確認してみると相手は美香子だった。
美香子に今日の事を話したらまた色々言われるんだろうなと苦笑しつつ、千冬はスマホを通話に切り替えて清々しい青空の下を一人歩き始めた。
婚約破棄は離婚式のあとに 戯 一樹 @1603
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