第4話 離婚式
『IT企業の社長? しかも年商一億? 何それ最高じゃない!』
竜二との再会のあと、そろそろ仕事も終えて自宅でゆっくりしているであろう時間を見計らって電話を掛けた千冬に、美香子は驚きの声を上げた。
『しかも竜二君でしょ? あたしも高校生時代に何度か千冬と一緒に会った事あるけど、あのお調子者だった竜二君が今や年商一億の社長だなんて、人生何が起きるかわからないもんねー」
そうね、と自室のベッドで座りながらスマートフォン片手に言葉を返す千冬。宵の口というのもあり、智久も帰宅しているが、今は千冬同様自室に引き篭っている。きっと今頃引っ越しの準備でも進めているのだろう。
『で、千冬はどうするの? 竜二君のプロポーズ。連絡先は交換したんでしょ?』
「交換はしたけど、急な話だし、すぐには返答できないよ」
『あら。じゃあ選択肢の一つとして考えてはいるって事ね』
千冬は敢えて黙した。否定できなかったからだ。
『あたしは全然アリだと思うけどね。だって社長よ社長。しかも年商一億。完全玉の輿コースじゃない』
「お金があればいいってものでもないから……」
『でもお金がないと生活もできないじゃん。いくらあっても困るものじゃないし。それに話を聞く限り、千冬だって
「それは……」
確かに一度別れこそしたものの、決して竜二の事を嫌っているわけではない。むしろ幼馴染として今でも好意を抱いている。あくまでも恋愛感情としてではなく友情めいたものでしかないが。
しかしながら、一度はその友情が恋に変わった過去もある。故にこの先竜二と一緒にいて心変わりしないとは断言できなかった。
『それとも、他にやってみたい事でもあるの?』
美香子の言葉に、一瞬街中で見たテディベア専門店が頭を過ぎった。
だがあれはかつての憧憬のようなものだ。現実的ではない。
「そんな事はないけれど……」
『ふぅん。まあ、ゆっくり考えてみたらいいんじゃない。竜二君だってすぐに返事を欲してるわけじゃないんでしょ? あたし的には断然竜二君を選んだ方がいいと思うけれどねー。顔もまあまあ良くて、お金も持っていて、しかも十年近くずっと千冬の事を想ってくれていた男なんて、この先現れるかどうかもわからない好条件よ?』
「良い人なのは否定しないけれど……」
と曖昧に言葉を濁した時だった。不意にコンコンとノックされた。
「千冬、ちょっといい?」
智久だった。すぐに「いったん切るね」と一言美香子に断りを入れたあと、スマートフォンの通話を切ってドアを開けた。
「ごめん。少し時間ある?」
気まずげに目線を逸らしながら伺いを立ててくる智久に、千冬も若干の戸惑いを覚えつつも首を縦に振った。
「ありがとう。じゃあリビングまで来てくれる?」
言われた通りリビングまで来てみてると、テーブルの上にA用紙程度の薄緑で枠取られた紙がポツンと置かれていた。初めて見る用紙だった。
「これ、離婚用紙。僕の分はもう書いてあるから」
椅子に座らず、テーブルの対面に立ちながら簡潔に告げてきた智久の言葉に、千冬はああと心中で呼気を吐いた。ついにこの時が来てしまったのだと。
「あとは君が書いてくれたら、役所には僕が届けておくから」
うん、と項垂れるように頷く。それから離婚用紙をそっと手繰り寄せた。
単なる紙でしかないのに、心なしか氷のように冷たく感じる。手が冷えているせいもあるだろうが、心のどこかで拒絶しているせいもあるのかもしれない。
こんな紙切れ一枚で、これまでの結婚生活が終わってしまうのだと。
「……これを書いたら、今度こそ紛れもない他人同士になっちゃうんだね」
思わず零してしまった呟きだったが、それが未練のようなものを感じさせてしまったのか、「千冬……」とか細く名前を呼んだあと、智久は顔を逸らして押し黙ってしまった。
それからどれくらい沈黙の時間が流れていた事だろう。ややあって智久が正面を向いて再度「千冬」と名前を口にした。
「なあ千冬。よかったらでいいけど、離婚式ってやつをやってみないか」
「離婚式?」
疑問を含めて繰り返してみると、智久はズボンのポケットからスマートフォンを取り出して何やら操作したあと、画面を千冬に向けた。
そこには披露宴のような場所で見知らぬ男女が互いにトンカチを持ちながら指輪を叩こうとしている写真が映し出されていた。
「こういうやつ。まあ結婚式の逆パターンって言えばわかりやすいかな。こういう式場を借りて、一瞬に指輪を潰したりするんだよ」
「それ、何の意味があるの?」
「まあ、一般的には自分の気持ちに踏ん切りを付けるためかな。あとはきちんと離婚したという事実を周りに認めさせるためって言うのあるらしいけど、まあこれは僕らには関係ないか」
「でもこれ、高いんじゃないの?」
「費用なら僕が全額持つから大丈夫。君は出席してくれるだけで構わない」
「けど私達、今から離婚するんでしょ? それなのにこんな仲良しごっこみたいな真似をするなんて……」
それを指摘されたら言葉もないけれど、と智久は微苦笑しつつ、「でも」と語を継いだ。
「さっきも言ったけど、踏ん切りを付けるにはちょうどいいと思うんだ。だって僕ら、別に仲違いして離婚するわけじゃないでしょ? それならこういうのをやってみるのもいいかなって、前々から調べてはいたんだ」
「……智久は、その離婚式っていうのをやってみたいの?」
「千冬さえよければね。君の事は今も好きだけど、自分の望みを叶えるには、いつまでも執着しているわけにはいかないから」
その言葉に、千冬は伏せ気味だった目線を上げた。
そこには、真っ直ぐこちらを見据えている智久がいた。一度も視線を逸らそうとせず、その先にある未来を覗こうとしているような遠い眼差しで。
(そっか。智久は前に進もうとしているんだ。たとえ自分や私を傷付ける事になったとしても)
「わかった」
智久の揺るぎない覚悟を垣間見て、千冬も決意を固めた。
私達はもう、別々の道を歩くべきなのだと。
「やろう、離婚式」
その日の夜、千冬は竜二と連絡を取って、プロポーズを受ける事を告げた。
電話の向こうで子供のようにはしゃぐ竜二に、千冬はこれでいいのだと自分に言い聞かせた。
何故ならこれが、みんなが幸せになれる最良の選択なのだから。
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